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第二章 血と粛清の嵐の中で
第十一話 二五三年 次は雍州
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「そうか、合肥は守り通したか」
司馬師はその報告を受けて安堵する。
だが、守るには守ったものの被害は極めて大きく、司馬孚もしばらく合肥に残る事になった。
「叔父上には頼りっぱなしになるな。さて、問題は諸葛恪がこのまま大人しく引き下がっているかどうかだが、士載、お前はどう思う?」
「……私ですか?」」
他にも司馬昭など知恵者が多い中、最初に指名されて鄧艾は驚く。
「おう、思うところを言ってみよ」
鄧艾は発言して良いものか悩んだが、注目されている以上何か言わなければならない雰囲気であった。
「あくまでも予想として聞いて欲しいのですが、諸葛恪は今後脅威になる事は無いと思われます」
「ほう、それはまた大胆な予想だな。丞相である諸葛恪が脅威ではないと言う士載の考えを聞かせてくれるか?」
「まず、呉は大帝孫権を失って間も無く、その後を継いだ孫亮はまだ幼く人臣を掌握しているとは到底言えない状況です。呉と言う国は各地の富豪や豪族がそれぞれに力を持ち、それを孫権が統率していた国。そんな不安定な中、諸葛恪は幼帝を支えるどころか軽んじて今回の遠征に踏み切りました。魏に例えるなら、太傅仲達様を思い出して下さい。文帝崩御の際にも、明帝崩御の際にも徹底して守り、人臣を慰撫する事に専念されていました。諸葛恪もそうするべきだったところ、諸葛恪は一度の勝利に浮かれ民と兵を酷使したにも関わらず、万の戦死者を出しながら合肥新城を落とす事も出来なかった。その様な丞相を誰が認めると言うでしょうか。春秋の時代、あの楽毅ですら主君を失ってから失脚しております。諸葛恪に才有りと言えど楽毅に及ぶはずもなく、その災禍から逃れる事は出来ないものと、私は予想しております」
「達見である。士載はこう予想するが、子尚、お前はどうだ?」
「士載の意見、実に道理を得ております。私にはそこまで見通す事は出来ませんでしたが、おそらく士載の言う通り、諸葛恪の身には近い内に災いが降りかかる事でしょう」
司馬昭も鄧艾の意見を認める。
司馬師、司馬昭の兄弟が言うのであれば、他の臣下に異論を挟めるはずもない。
「とはいえ、呉に人無しと断ずるのは危険だな。叔父上には二十万の兵を率いて援軍に行ってもらったが、合肥一帯の守備に五万ほど残していてもらおう。さて、合肥から吉報が届いたにも関わらず、蜀の連中は雍州に攻め込んでくるらしい。子尚、先の予定通りに兵を率いて雍州へ援軍に行ってもらう」
「御意」
「そこで、と言うわけではないが、さらに一つ悪い知らせがある」
司馬師は眉を寄せて険しい表情になる。
「先頃郭淮が病を患ったと言う知らせが入ったのだが、それが芳しくないらしい。玄伯も相当やるようになったが、さすがに姜維と夏侯覇を相手にするのは荷が重いだろう。それに郭淮の後任も決めねばならん。そう言う訳で、子尚が遅れを取った場合、こちらから出せる兵は無い。それでも構わないか?」
「問題ありません。雍州は合肥ほど絶望的な戦況ではなく、蜀の姜維も与えられた兵はそこまで多くはありません。都の守備兵を動かすまでもなく、当初の手勢と雍州軍で十分事足りましょう」
司馬昭は無表情、無感情に言う。
このやり取りに関しては、司馬師から前もって言われていた事でもある。
実際に今の魏には動員出来る兵力は限られており、東興の戦いによる敗戦で李豊や夏侯玄といった旧曹爽派とも言うべき、反司馬勢力が息を吹き返している。
無理に兵を出してしまった場合、この反司馬勢力が反旗を翻す恐れは十分にあった。
絵に書いた様な内憂外患であるこの状況を打破するには、反司馬勢力に戦っても勝てないと思わせなければならない。
そこで、司馬昭は自信満々に答えなければならなかったのである。
正直なところ、雍州の状況も楽観的になれる様な状況ではない。
姜維の実力は言うに及ばず、しかも諸葛亮の侵攻の経験、何より自身の出身地近くと言う事もあって姜維は雍州の事をよく知っている。
それだけでも十分すぎるくらいに厄介なのだが、今回は夏侯覇も同行している。
言うまでもなく夏侯覇は魏軍の重職にあった身であり、皇族の一員だったので魏軍に関してこれ以上は無いくらいに詳しい。
本来であれば総力戦で挑むべき相手なのだが、こちらは限られた兵力の上に守将の要とも言える郭淮が病と言う非常に拙い状況だった。
「切り札の切り時なのかもしれないな」
司馬師は独り言の様にそう呟いていた。
とはいえ、泣き言ばかりも言っていられないので、鄧艾は副将の杜預と共に出撃の準備を急いだ。
援軍を率いる総大将は司馬昭で、先鋒は徐質と言う猛将であり、他には鄧艾の他、胡奮と言う武将も一緒になった。
「初めまして、鄧艾将軍。胡奮と申します。以後、お見知りおきを」
「鄧艾です。今回の戦、共に戦いましょう」
鄧艾が挨拶を返すと、胡奮はニッと笑う。
「実は面識はありませんでしたが、将軍とは以前同じ戦場に立った事もあるのですよ」
胡奮は嬉しそうに話す。
鄧艾に記憶は無いが、副将の杜預の方を見ても首を振る。
「はっはっは、将軍が知らないのも無理はないですよ。俺も名前しか知らなかったのですから。ですが、あの戦場にいた者であれば将軍の名前を知らない者はいないですよ」
「……失礼ですが、それは?」
「遼東です。公孫淵討伐に、俺も参加していたのですよ。もっとも、その時にはまだ将軍では無かったですから」
「遼東、ですか。ですが私はあの戦では武勲も何も挙げていないのですが」
鄧艾は不思議そうにしているが、副将である杜預は笑っている。
「悪名ですよ、将軍」
杜預の言葉に、鄧艾はますます首を傾げる。
「陳泰、毌丘倹の両将軍ならいざ知らず、参謀見習いでしか無かった将軍が時の大将軍であった仲達様に逆らったんだから、そりゃ有名にもなりますよ」
「……同罪だったはずでは?」
鄧艾は杜預を睨む。
「そこは、ほら。俺は大将軍の娘婿だった訳で。将軍だけですよ? 何の後ろ盾も無いのに大将軍に逆らったのは」
「いや、痛快でしたよ。そのせいで随分出世が遅れたとか」
「そんな事はありませんよ。……と、私は思っているのですが」
鄧艾は自分の知らないところで有名になっていたらしい。
話して見て分かった事は、この胡奮と言う男は恰幅の良い大男でいかにも力自慢と思える風貌なのだが、文欽の様な荒くれ者とは違い、朗らかで思いのほか知略にも優れていると言う事が分かった。
また、見た目通り軍事を好む傾向が強い事は自覚しているようだが、より好戦的な弟もいるらしい。
二人とも司馬昭直轄の武将と言う事で、司馬師直轄の鄧艾とは同格と言う扱いになるのだが、胡奮の方が鄧艾を上位と見ていた。
もう一人の武将、徐質は文欽同様の猛将で、歴戦の強者とも言える無数の傷痕の残る大男だった。
「俺は見た事はありませんけど、武帝の側近には典韋と許褚と言う猛将が控えていたそうですね。それっぽくないですか?」
「私も噂でしか知りませんけど、言いたい事はわかります」
徐質と胡奮が並んでいるところを見て、鄧艾と杜預はそう思う。
二人とも大男である事に違いはないが、全身筋肉の鎧をまとった様な徐質に対し、胡奮の方は丸みを帯びた体型である。
双方共に無双と称された典韋と許褚の事は講談師の話でしか知らないが、おそらくこう言う二人だったのではないかと思える風貌だった。
軍備を整えて出発する際に、蜀軍は既に大軍で南安を包囲していると言う情報が入ってくる。
姜維独断ではさほどの大軍は動かせないと言う読みだったが、いきなり読みを外すと言う問題が発生した。
それはつまり蜀の大将軍費禕も認めた出撃と言う事になる。
これまで費禕は姜維の実力を認めながらも魏と戦うのには消極的な姿勢だったはずだが、その重い腰をついに上げ、その一手として姜維に大軍を預けたのだろう。
「なに、案ずる事は無い。南安を包囲と言う事は、敵はわざわざ兵力を広げてくれていると言う事だ。我々は敵の一角を切り崩し、そこから傷口を押し広げていけば良い。戦と言うものは必ずしも数だけで勝敗が決まるものでは無いのだ」
司馬昭は不安を覚える将兵に向かって、相変わらずの無感情な声で言う。
いつもなら不安さえ感じさせる司馬昭の無機質な声だが、この状況ではいつもと変わらない事が心強い。
「鄧艾将軍、姜維と言うのはどう言う敵です?」
胡奮が進軍中に鄧艾に尋ねてくる。
先鋒を務める徐質はかなり先行しているが、鄧艾と胡奮は司馬昭の本隊にいるのでまだ後方であった。
「とにかく難しい敵ですよ。正攻法でも強いのに、奇策を用いる事も厭わない。極めて優れた戦術家でありながら、自身も一騎当千の猛将。軍事に関して言うのであれば、あの仲達様がアレ以上の者はいないとまで言わせた武将です」
「とはいえ、鄧艾将軍は勝ったのでしょう?」
「少なくとも私が勝ったと言う事はありません。郭淮将軍と陳泰将軍が勝利したと見るべきでしょう」
「何か弱点のようなモノは無かったので?」
「私の目には、姜維個人の弱点と言うものは見当たりませんでした。ただ、極めて優秀な人物と言うのは、全てを一人でやりたがる傾向があります。優秀だから自分でやった方が確実、と言う訳ですね。あるいはそれが欠点と言えなくもないのですが」
「随分と贅沢な欠点ですなぁ。俺なんかは欠点だらけなのに」
「私も負けず劣らずですよ」
「それだったら、俺の一人勝ちですよ。だって馬にも乗れないし、弓も下手ですから」
「……お前ら、何を自慢し合っているのだ?」
胡奮と鄧艾、杜預が話しているところ、近くの馬車から呆れたように司馬昭が顔を出す。
「相手を身近に感じる事で、名前に恐れない様にしているところです。なぁ、鄧艾将軍?」
胡奮は司馬昭を恐れる事無く、平然と答える。
彼には武将特有の威圧感と言うより、その丸みを帯びた体型と朗らかな表情のせいで安心感が強い。
司馬昭直属と言う事なので実力は間違いないのだろうが、案外そう言うところを高く評価されているのかもしれない。
そんな本隊の元に、司馬昭がまったく想定していない報告が届いた。
「報告! 徐質将軍が蜀の敵将、廖化と交戦して撃退したとの事!」
「敵将と交戦だと?」
蜀軍は南安を包囲していたはずだったが、何故この様な場所で遭遇する事になったのか。
「……蜀の連中は、こちらの動きを見越しているらしい。だとすると、やりようがあると言うものだ」
司馬昭は徐質の勝報を讃え、そこからさらに次の手に移る。
「蜀軍が南安の包囲を続けたままでここまで軍を出してきていると言う事は、兵糧は後方ではなく中継点に集めていると言う事。その糧道を断てば蜀軍は大軍を支える事など出来はすまい。その一手で勝負は付く。急ぎ徐質と合流する」
司馬昭は徐質に設営を命じ、本隊は合流を急ぐ事とした。
だが、この時司馬昭は一つ見落としていた。
敵将の中に蜀の武将ではない人物であり、司馬昭の事をよく知っている人物である夏侯覇の存在である。
司馬師はその報告を受けて安堵する。
だが、守るには守ったものの被害は極めて大きく、司馬孚もしばらく合肥に残る事になった。
「叔父上には頼りっぱなしになるな。さて、問題は諸葛恪がこのまま大人しく引き下がっているかどうかだが、士載、お前はどう思う?」
「……私ですか?」」
他にも司馬昭など知恵者が多い中、最初に指名されて鄧艾は驚く。
「おう、思うところを言ってみよ」
鄧艾は発言して良いものか悩んだが、注目されている以上何か言わなければならない雰囲気であった。
「あくまでも予想として聞いて欲しいのですが、諸葛恪は今後脅威になる事は無いと思われます」
「ほう、それはまた大胆な予想だな。丞相である諸葛恪が脅威ではないと言う士載の考えを聞かせてくれるか?」
「まず、呉は大帝孫権を失って間も無く、その後を継いだ孫亮はまだ幼く人臣を掌握しているとは到底言えない状況です。呉と言う国は各地の富豪や豪族がそれぞれに力を持ち、それを孫権が統率していた国。そんな不安定な中、諸葛恪は幼帝を支えるどころか軽んじて今回の遠征に踏み切りました。魏に例えるなら、太傅仲達様を思い出して下さい。文帝崩御の際にも、明帝崩御の際にも徹底して守り、人臣を慰撫する事に専念されていました。諸葛恪もそうするべきだったところ、諸葛恪は一度の勝利に浮かれ民と兵を酷使したにも関わらず、万の戦死者を出しながら合肥新城を落とす事も出来なかった。その様な丞相を誰が認めると言うでしょうか。春秋の時代、あの楽毅ですら主君を失ってから失脚しております。諸葛恪に才有りと言えど楽毅に及ぶはずもなく、その災禍から逃れる事は出来ないものと、私は予想しております」
「達見である。士載はこう予想するが、子尚、お前はどうだ?」
「士載の意見、実に道理を得ております。私にはそこまで見通す事は出来ませんでしたが、おそらく士載の言う通り、諸葛恪の身には近い内に災いが降りかかる事でしょう」
司馬昭も鄧艾の意見を認める。
司馬師、司馬昭の兄弟が言うのであれば、他の臣下に異論を挟めるはずもない。
「とはいえ、呉に人無しと断ずるのは危険だな。叔父上には二十万の兵を率いて援軍に行ってもらったが、合肥一帯の守備に五万ほど残していてもらおう。さて、合肥から吉報が届いたにも関わらず、蜀の連中は雍州に攻め込んでくるらしい。子尚、先の予定通りに兵を率いて雍州へ援軍に行ってもらう」
「御意」
「そこで、と言うわけではないが、さらに一つ悪い知らせがある」
司馬師は眉を寄せて険しい表情になる。
「先頃郭淮が病を患ったと言う知らせが入ったのだが、それが芳しくないらしい。玄伯も相当やるようになったが、さすがに姜維と夏侯覇を相手にするのは荷が重いだろう。それに郭淮の後任も決めねばならん。そう言う訳で、子尚が遅れを取った場合、こちらから出せる兵は無い。それでも構わないか?」
「問題ありません。雍州は合肥ほど絶望的な戦況ではなく、蜀の姜維も与えられた兵はそこまで多くはありません。都の守備兵を動かすまでもなく、当初の手勢と雍州軍で十分事足りましょう」
司馬昭は無表情、無感情に言う。
このやり取りに関しては、司馬師から前もって言われていた事でもある。
実際に今の魏には動員出来る兵力は限られており、東興の戦いによる敗戦で李豊や夏侯玄といった旧曹爽派とも言うべき、反司馬勢力が息を吹き返している。
無理に兵を出してしまった場合、この反司馬勢力が反旗を翻す恐れは十分にあった。
絵に書いた様な内憂外患であるこの状況を打破するには、反司馬勢力に戦っても勝てないと思わせなければならない。
そこで、司馬昭は自信満々に答えなければならなかったのである。
正直なところ、雍州の状況も楽観的になれる様な状況ではない。
姜維の実力は言うに及ばず、しかも諸葛亮の侵攻の経験、何より自身の出身地近くと言う事もあって姜維は雍州の事をよく知っている。
それだけでも十分すぎるくらいに厄介なのだが、今回は夏侯覇も同行している。
言うまでもなく夏侯覇は魏軍の重職にあった身であり、皇族の一員だったので魏軍に関してこれ以上は無いくらいに詳しい。
本来であれば総力戦で挑むべき相手なのだが、こちらは限られた兵力の上に守将の要とも言える郭淮が病と言う非常に拙い状況だった。
「切り札の切り時なのかもしれないな」
司馬師は独り言の様にそう呟いていた。
とはいえ、泣き言ばかりも言っていられないので、鄧艾は副将の杜預と共に出撃の準備を急いだ。
援軍を率いる総大将は司馬昭で、先鋒は徐質と言う猛将であり、他には鄧艾の他、胡奮と言う武将も一緒になった。
「初めまして、鄧艾将軍。胡奮と申します。以後、お見知りおきを」
「鄧艾です。今回の戦、共に戦いましょう」
鄧艾が挨拶を返すと、胡奮はニッと笑う。
「実は面識はありませんでしたが、将軍とは以前同じ戦場に立った事もあるのですよ」
胡奮は嬉しそうに話す。
鄧艾に記憶は無いが、副将の杜預の方を見ても首を振る。
「はっはっは、将軍が知らないのも無理はないですよ。俺も名前しか知らなかったのですから。ですが、あの戦場にいた者であれば将軍の名前を知らない者はいないですよ」
「……失礼ですが、それは?」
「遼東です。公孫淵討伐に、俺も参加していたのですよ。もっとも、その時にはまだ将軍では無かったですから」
「遼東、ですか。ですが私はあの戦では武勲も何も挙げていないのですが」
鄧艾は不思議そうにしているが、副将である杜預は笑っている。
「悪名ですよ、将軍」
杜預の言葉に、鄧艾はますます首を傾げる。
「陳泰、毌丘倹の両将軍ならいざ知らず、参謀見習いでしか無かった将軍が時の大将軍であった仲達様に逆らったんだから、そりゃ有名にもなりますよ」
「……同罪だったはずでは?」
鄧艾は杜預を睨む。
「そこは、ほら。俺は大将軍の娘婿だった訳で。将軍だけですよ? 何の後ろ盾も無いのに大将軍に逆らったのは」
「いや、痛快でしたよ。そのせいで随分出世が遅れたとか」
「そんな事はありませんよ。……と、私は思っているのですが」
鄧艾は自分の知らないところで有名になっていたらしい。
話して見て分かった事は、この胡奮と言う男は恰幅の良い大男でいかにも力自慢と思える風貌なのだが、文欽の様な荒くれ者とは違い、朗らかで思いのほか知略にも優れていると言う事が分かった。
また、見た目通り軍事を好む傾向が強い事は自覚しているようだが、より好戦的な弟もいるらしい。
二人とも司馬昭直轄の武将と言う事で、司馬師直轄の鄧艾とは同格と言う扱いになるのだが、胡奮の方が鄧艾を上位と見ていた。
もう一人の武将、徐質は文欽同様の猛将で、歴戦の強者とも言える無数の傷痕の残る大男だった。
「俺は見た事はありませんけど、武帝の側近には典韋と許褚と言う猛将が控えていたそうですね。それっぽくないですか?」
「私も噂でしか知りませんけど、言いたい事はわかります」
徐質と胡奮が並んでいるところを見て、鄧艾と杜預はそう思う。
二人とも大男である事に違いはないが、全身筋肉の鎧をまとった様な徐質に対し、胡奮の方は丸みを帯びた体型である。
双方共に無双と称された典韋と許褚の事は講談師の話でしか知らないが、おそらくこう言う二人だったのではないかと思える風貌だった。
軍備を整えて出発する際に、蜀軍は既に大軍で南安を包囲していると言う情報が入ってくる。
姜維独断ではさほどの大軍は動かせないと言う読みだったが、いきなり読みを外すと言う問題が発生した。
それはつまり蜀の大将軍費禕も認めた出撃と言う事になる。
これまで費禕は姜維の実力を認めながらも魏と戦うのには消極的な姿勢だったはずだが、その重い腰をついに上げ、その一手として姜維に大軍を預けたのだろう。
「なに、案ずる事は無い。南安を包囲と言う事は、敵はわざわざ兵力を広げてくれていると言う事だ。我々は敵の一角を切り崩し、そこから傷口を押し広げていけば良い。戦と言うものは必ずしも数だけで勝敗が決まるものでは無いのだ」
司馬昭は不安を覚える将兵に向かって、相変わらずの無感情な声で言う。
いつもなら不安さえ感じさせる司馬昭の無機質な声だが、この状況ではいつもと変わらない事が心強い。
「鄧艾将軍、姜維と言うのはどう言う敵です?」
胡奮が進軍中に鄧艾に尋ねてくる。
先鋒を務める徐質はかなり先行しているが、鄧艾と胡奮は司馬昭の本隊にいるのでまだ後方であった。
「とにかく難しい敵ですよ。正攻法でも強いのに、奇策を用いる事も厭わない。極めて優れた戦術家でありながら、自身も一騎当千の猛将。軍事に関して言うのであれば、あの仲達様がアレ以上の者はいないとまで言わせた武将です」
「とはいえ、鄧艾将軍は勝ったのでしょう?」
「少なくとも私が勝ったと言う事はありません。郭淮将軍と陳泰将軍が勝利したと見るべきでしょう」
「何か弱点のようなモノは無かったので?」
「私の目には、姜維個人の弱点と言うものは見当たりませんでした。ただ、極めて優秀な人物と言うのは、全てを一人でやりたがる傾向があります。優秀だから自分でやった方が確実、と言う訳ですね。あるいはそれが欠点と言えなくもないのですが」
「随分と贅沢な欠点ですなぁ。俺なんかは欠点だらけなのに」
「私も負けず劣らずですよ」
「それだったら、俺の一人勝ちですよ。だって馬にも乗れないし、弓も下手ですから」
「……お前ら、何を自慢し合っているのだ?」
胡奮と鄧艾、杜預が話しているところ、近くの馬車から呆れたように司馬昭が顔を出す。
「相手を身近に感じる事で、名前に恐れない様にしているところです。なぁ、鄧艾将軍?」
胡奮は司馬昭を恐れる事無く、平然と答える。
彼には武将特有の威圧感と言うより、その丸みを帯びた体型と朗らかな表情のせいで安心感が強い。
司馬昭直属と言う事なので実力は間違いないのだろうが、案外そう言うところを高く評価されているのかもしれない。
そんな本隊の元に、司馬昭がまったく想定していない報告が届いた。
「報告! 徐質将軍が蜀の敵将、廖化と交戦して撃退したとの事!」
「敵将と交戦だと?」
蜀軍は南安を包囲していたはずだったが、何故この様な場所で遭遇する事になったのか。
「……蜀の連中は、こちらの動きを見越しているらしい。だとすると、やりようがあると言うものだ」
司馬昭は徐質の勝報を讃え、そこからさらに次の手に移る。
「蜀軍が南安の包囲を続けたままでここまで軍を出してきていると言う事は、兵糧は後方ではなく中継点に集めていると言う事。その糧道を断てば蜀軍は大軍を支える事など出来はすまい。その一手で勝負は付く。急ぎ徐質と合流する」
司馬昭は徐質に設営を命じ、本隊は合流を急ぐ事とした。
だが、この時司馬昭は一つ見落としていた。
敵将の中に蜀の武将ではない人物であり、司馬昭の事をよく知っている人物である夏侯覇の存在である。
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