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第二章 血と粛清の嵐の中で

第四話 二五二年 呉を攻める

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「君が鄧艾か。噂は聞いているよ。僕が」

 そう言って、その人物は前髪をかきあげて『ふぁさぁ』と払う。

「諸葛誕、字を公休こうきゅうだ。今後とも宜しく」

「鄧艾士載です。将軍の武名、拝聴しております。此度の戦、私は後方の予備戦力として控えておりますので、ご武運をお祈りしております」

「はっはっは! あの司馬仲達様や王凌様を相手にやりあった事もある豪傑だと聞いていたのだが、どうして謙虚な男じゃないか」

 そう言って、諸葛誕はまた前髪を『ふぁさぁ』とやっている。

「気に入ったよ。仲恭ちゅうきょう(毌丘倹の字)が気に入るのも分かる」

 諸葛誕はそう言って笑うと、度々前髪を払っている。

 そこまで気になるのなら、いっそ切ったら良いのにと思うのだが、そこはあえて触れない様にする事にした。

 呉遠征に向けて武将が集められ、鄧艾はそこで初めて諸葛誕や文欽らと顔を合わせる事になった。

「文官の出る幕ではない。邪魔にならないところにいるが良い」

 何かと芝居がかったところがある諸葛誕に対し、文欽はいかにも荒くれ者といった印象が強い。
 体つきも大きく筋肉で盛り上がり、さらに歴戦を思わせる古傷も多かった。

 そのあからさまな威圧感や予備戦力とは言え同じ戦場に立つ鄧艾に対し文官と蔑むなど、諸葛誕や毌丘倹などとは違い、腕力に物を言わせてのし上がってきた人物だと言う事はよくわかる。

 が、鄧艾が気になったのは文欽本人より、その傍らに控える年若い男の方だった。

 まだ少年と言ってもいい様なその人物は、文欽の様なあからさまな暴力の気配は無く、むしろ武将らしからぬ丹精な顔立ちをしている。

 しかしその見た目とは裏腹に、文欽より研ぎ澄まされた武を感じさせるところがある。

 見た目通りの年齢であれば、それほど実戦に出た事は無いはずなのだが、すでに猛将の気配を身につけている、不思議な少年だった。

「将軍、そちらは?」

 鄧艾は文欽に直接尋ねてみた。

文鴦ぶんおうと申します。此度が初陣となりますので、足手纏いにならない様に尽力いたします」

 堂々とした態度でそう返答する少年、文鴦は鄧艾に頭を下げる。

「こちらこそ。ところで随分と若く見えますが」

「今年で十四になります」

 見た目に若さは感じていたので、その年齢を聞いても不思議では無いかもしれないが、しかしそれにしては洗練された武の雰囲気など、その年齢にそぐわない気配を漂わせている。

 武才は父譲りなのだろうが、それ以外は母譲りなのかも知れない。

「公休、ここにいたか」

 毌丘倹が諸葛誕を探していたらしく、やって来て言う。

「やあ、仲恭。何か慌てる様な事でも」

 今度は後ろ髪をわざとらしく『ふぁさぁ』と払った後に続ける。

「あったのかな?」

 この人が明帝から嫌われたのも分かる気がする。
 鄧艾は諸葛誕を見ながらそう思う。

「あったのかな、じゃない。司馬師様がまもなく招集をかける。全軍に作戦の説明をする事になるが、主力先鋒であり作戦立案者でもあるお前がその任にあたるのだろう?」

「ふっ、そう慌てる事でもないさ、仲恭。僕はね、常に余裕を持って優雅に……」

「そう言うのは良いから、後で存分にやってもらっていいから」

 何か言いかける諸葛誕を遮って、毌丘倹は諸葛誕を引っ張っていく。

「はっはっは、まったく、仲恭はせっかちだなぁ。そう言う事ではいけないよ?」

「俺がせっかちなんじゃなくて、お前が我が道を突き進みすぎているんだ。全てを否定するつもりはないが、明帝からも名より実を示せと言われたのを忘れたか?」

「やれやれ、手厳しい人だなぁ」

 アレは堪えてないな。
 引っ張られていく諸葛誕を見て、鄧艾はそう思った。

「何だか、思ってたのとは違いますね。諸葛誕将軍って」

 杜預も同様に思っていたらしく、そんな事を鄧艾に言う。

「文欽将軍の方はほぼ予想通りでしたけど」

「私も概ね同じ感想ですよ」

 文欽はほぼ予想通りと言うより評判通りの人物で、腕力至上主義とでも言う様な古風な豪傑、と言えば聞こえはいいが、実際には身分を得た暴漢と言うのが文欽に対する印象である。

 一方の諸葛誕も、扱いにくさには定評が有るのはよくわかった。

 明帝から罷免された理由も、感覚的にだが理解出来た。

 実力の方は実績が物語っているのだが、あの『ふぁさぁ』はとにかく神経を逆撫でする。

 髪が長かった明帝にとって、物凄く鼻につく仕草だったのだろうと考えていた。

 逆に諸葛誕と仲が良かったと言う曹爽はどう思っていたのだろう、とも思う。

 あの仕草を好意的に受け止められると言うのは、どう言う感性なんだろう。

 毌丘倹が諸葛誕を探していた事から予想はついていたが、それから間もなく将軍達に招集がかけられた。

 それも毌丘倹が言っていた通り、諸葛誕から全軍に今回の遠征の策を伝える為だった。

 その策と言うのも前もって知らされていた通りの内容だったが、ひょっとすると後方支援の鄧艾にはその全容が知らされていたが、前線の武将達には伝えられていなかったのかも知れない。

 主力を率いるのは総大将である司馬師であり、その従軍軍師として司馬昭。後方支援の鄧艾と石苞は、所属は司馬師の軍と言う事になるが指示は司馬昭から出ると言う事になる。

 陽動として別働隊を率いるのは毌丘倹と王昶。

 今回の戦では陽動と言う事になっているが、この二人には自身で行動する自由と権限が与えられている。

 事実上の独立部隊であり、本隊の命令を待たずに行動する事が許されている。

 そして先鋒隊を率いるのは諸葛誕であり、その旗下に文欽や道案内役として韓綜も配属される事になっている。

 もちろんその他にも多数の武将が参加しているのだが、今回の遠征に集められた兵数や将軍達の陣容を見て、その士気は高まっていた。

 鄧艾が感じた様に、この面子は今の魏で対呉を考えた場合には理想的と言えると感じたのだろう。

「今の呉は皇帝孫権を失った事による絶望と、後継が最近決まった幼帝であると言う混乱の中にある。魏軍の威容を見せつければ、かつての名将、五虎将軍の張遼将軍の様に、魏軍が来ると言っただけで泣く子も黙る様になるだろう」

 諸葛誕は自信満々に髪を払いながら、よく通る声で宣言する。

 余計な仕草をしなければ、諸葛誕の優秀さは見ただけでわかる。

 それは単純に見た目が良いというだけでなく、立ち振る舞いに気品や優雅さの様なものが溢れ、洗練されている。

 もっとも、自分でもそれを分かっている事もあって、より過剰にしてしまっているのがいただけないところでもあった。

 しかし、それ以外は素晴らしく優秀な諸葛誕である。

 しっかりと士気を上げた上で、諸葛誕は自ら先鋒隊を率いて出陣し、それに続いて毌丘倹と王昶の別働隊も出陣する。

 鄧艾や石苞の予備部隊は同じように進軍する訳ではないので、出陣を見送っているところを司馬師に呼び出された。

「士載、良い仕事してるみたいだな」

 本隊を率いる総大将の司馬師だが、出陣を前に悠然としている。

「お前の作った運河によって淮南の生産量も飛躍的に上がり、この様な大規模な軍勢を支えられるほどの兵糧を蓄える事が出来た。淮南出身の毌丘倹が驚いていたぞ? 自分の知っている淮南ではないとな」

 笑いながら司馬師は鄧艾を称える。

 淮南の地が広大な荒地になっていたのには原因がある。

 最大の原因となったのは袁術の暴政だったのだが、袁術から独立した孫策軍による略奪などもあり、武帝が治める頃にはすでに荒れ放題になっていた。

 それを十年で再建し、魏でも有数の生産拠点に変貌させた鄧艾の功績は大きい。

「……で、何故元凱がそんな得意げな顔をしている?」

「いやー、将軍が評価されているのが嬉しくて」

 義理の弟である杜預に向かって、司馬師が苦笑いしている。

「お前、関係無いだろ? 淮南の時にはお前じゃなくて叔子が副将だった訳だし」

「まあまあ、叔子も頑張ったのは知ってますけど、良いじゃないですか。今の副将は俺なんだし」

 鄧艾が評価されている事が、杜預にとって自分の事の様に嬉しいらしい。
 そう感じてもらっているのならば、鄧艾としても面映いところもある。

「兄上、雑談の為にこの者らを呼んだ訳ではありますまい」

 司馬師と杜預が楽しげに話していたところ、間に入る様に司馬昭が口を挟む。

「人払いが自然に出来る様に、この様な時に呼んだのですから」

「まぁ、そうだな。士載と仲容、お前たち二人に尋ねておきたい事がある」

 司馬師は二人に言う。

 その時の口調は、私人としてではなく公務としての時の冷徹なものだった。

「魏において今の帝では、そう遠からず傾く事になりかねない。いや、きっとそうなる。もし今回の呉遠征で呉に致命的な打撃を与える事が出来なければ、魏は三国のウチでもっとも早く消滅する事になるだろう」

 この話を聞いているのは、現在四人のみ。

 一応幕舎の中には司馬師、司馬昭の兄弟の他、鄧艾と石苞、杜預がいるのだが副将の杜預は少し離れたところに控えて話に参加してはいない。

 とは言え、この幕舎の外にはそれこそ数万人がいる。

 あまりに大胆な、しかし誰も予想しないような死角を作り出したのだ。

 魏の未来にの為に避けて通れない、だが誰にも聞かれてはいけない内容の話をする為に。

「それならば、必ずこの戦で呉に大打撃を与えなければならないですね」

 鄧艾は即答する。

 それによって、石苞は司馬師の言葉に答える機会を失った。

「……ふっ、確かにそうだ」

 司馬師は気が抜けた様に笑う。

「妙な事で呼び止めてしまったな。予備戦力とは言え、物資の供給など侮れない役割がある。怠るなよ」

「御意」

 鄧艾はそう言うと、石苞を伴って幕舎から出る。

「士載、良かったのか?」

「もちろん。今は戦の事だけを考えるんだ」



 石苞が鄧艾に尋ねた様に、幕舎の中では司馬昭が司馬師に問いかけていた。

「兄上、良かったのですか? もうこの様な死角を作る事はまず不可能ですが」

「構わんよ。急ぐ必要も無い事だ。士載とあの石苞と言う者は、そこまで警戒が必要と言う訳でもないからな」

 司馬師は気楽に言う。

「だが、兄上。あの鄧艾と言う者、父上や兄上が評価するほどの男ですか? 当たり障りの無い事しか言えない程度の凡将ではありませんか」

「ふむ。子尚にはそう見えたか。だが、あれは一級の、いや超一級の武将だぞ。今は一介の武将の一人に過ぎないが、仲恭や公休などより上だ」

「私にはそうは思えないのですが、兄上がそう言うのであればそうでしょう。ですが兄上、曹芳の周りに夏侯玄や李豊らが近寄っていると聞きます。今更私如きが言うまでもなく、あの暗愚をいつまでも抱えていては司馬家の為はもちろん、魏の為にもなりません」

「それは分かっている。だが、俺の一存でどうにか出来る問題でもない。少しでもこちらについてくれる者がいればと思っての事だったが、士載に躱されてしまったからな。一先ずはこの戦に集中するとしようか」

 司馬師はそう言って、司馬昭の肩を叩く。

「我々とて、必ずしも無事に済むと言う保証は無いのだから」
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