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第二章 血と粛清の嵐の中で
第一話 二五一年 司馬師の元へ
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司馬懿の死は、魏に大きな衝撃を与えはしたものの、故人の地位の高さに対して混乱はそれほど大きなものでは無かった。
それは司馬懿が死に際して後継者をはっきりさせていた事や、その為の準備などを怠りなく整えていた事もある。
それらに付随する人事の中で、鄧艾にも関わる事があった。
鄧艾自身が忘れていたと言うより、解消されていると思い込んでいたのだが、実はまだ司馬懿の属官のままだったのである。
遼東の件でそれも解消になったと思っていたのだが、司馬師から急遽中央に呼び出される事となった。
南安での太守としての期間は実質半年程度であり、引き継ぎが終わったと思ったら引き継ぎと言う事態になっていた。
とはいえ、新任の南安太守と言うのは降格した郭淮であり、本人もそれなりに知識がある事もあって、特に大きな問題も無く引き継ぎは完了した。
どちらかといえば、グズる陳泰をなだめる方が大変だったとも言える。
陳泰としてはようやく鄧艾と仕事が出来ると楽しみにしていたらしいのだが、さすがに司馬師から直接命令が出ているので逆らう事も出来ない。
それでなくとも、郭淮の妻の一件で減俸処分を受けているくらいである。
「今にして思えば、けっこう危険な事してましたよね」
杜預は鄧艾に向かって言う。
杜預については特に何も指示は無かったのだが、副将である以上、主将に共するのは当然の事と鄧艾について来ている。
「最初は郭淮将軍も、奥方様を中央に差し出すつもりだったのでしょう?」
「まぁ、多少語弊はありますが」
杜預が言う様に、郭淮も最初は慣例通りにするつもりだったのだが、周囲の面々の強い要望と、何より息子達の涙ながらの助命嘆願によって心を動かされ、本人も命を賭けて王氏助命を司馬一族に嘆願する事となった。
これは受け入れられたから良かった様なものの、それも司馬懿や司馬師と言った一風変わった器の大きな人物であったからこそとも言える。
もしこれが規律に厳しく融通の利かない人物だった場合、王氏の助命はもちろん、雍州軍も減俸どころではなく人事総入れ替えも有り得たかもしれない。
もっとも、その場合にはあの姜維が黙って見過ごすとも思えず、そうなると雍州方面は大混乱だっただろう。
「都に行ったら、元凱のお嫁さんにも会えるのね」
「会わせたくないですけどね」
満面の笑顔の媛に対し、杜預も同じ様に笑顔で答える。
杜預の妻の司馬氏は、今のところ司馬家に預けられていると言う。
これは都会育ちの司馬氏に雍州での生活は合わないかもしれないと言う杜預の判断だったらしいのだが、媛から変な悪知恵をつけられるのを警戒したのではないか、とも噂されていた。
何分媛は頭が切れる上に、行動力も豊かすぎる女性である。
影響力だけで言うのなら、おそらく鄧艾より上だろう。
だが、司馬氏が都にいたからこそ、王氏助命の際に雍州軍の妻たちの嘆願書をその経由で届けられたのも大きかった。
しかも司馬氏も恐れず嘆願書に署名までしてくれたと言うのだから、非常に有り難かった。
「でも、元凱が結婚していたとは驚きだわ」
「こう言うと何ですけど、結婚歴で言えば俺や叔子の方が将軍や奥方より長いんですからね」
と、杜預は媛に説明していた。
何しろ杜預は物心付いた時には既に司馬氏を嫁にしていたらしい。
それは親同士が決めた結婚で、司馬氏に至っては生まれて間もない時に決まった話だと言う。
つまり二人にとって独身時代の方が圧倒的に短いと言う事なのだが、いざ会ってみると意気投合して今に至っている。
「やっぱり太傅に似てるの?」
「ふとした時は似てますけど、基本的にはそれほど似てないと思いますよ」
とは言うものの、杜預も妻とは数年会っていない。
仕事熱心な杜預は雍州に赴任してからはずっとそこから離れていないので、都に住んでいる妻と会う事も無かったのである。
「言ってくれれば、休みくらいあげたのに」
「将軍のお言葉はありがたいのですけど、この人、絶対ついてくるでしょ?」
鄧艾の言葉に、杜預は媛を見ながら言う。
「忠、父上を見習っても、母上は見習うなよ?」
「ウチの子に変な事を教えないでもらえる?」
杜預が鄧忠に向かって言うのを、媛が遮る。
だが、鄧忠の教育は基本的に杜預の役割である事が多く、鄧忠も杜預を師匠と崇めていた。
その鄧忠も素直かつ健やかに育ち、杜預のお陰で高い教養を身に付け、両親から受け継いだ高い身体能力のお陰で、乗馬や弓術などは大の苦手の杜預をすでに上回っている。
ただ、最近は母譲りの行動力と発想力を活かしたイタズラを覚え始め、杜預も少々手を焼く事も増えてきた。
媛と鄧忠は途中で別れ、鄧艾と杜預は司馬師のところに挨拶に行く。
常であればまだ喪に服している時期で、司馬懿の弟である司馬孚や司馬師の弟である司馬昭達はまだ喪に服しているのだが、司馬師だけは復帰している。
この決断も色々と言われていたのだが、
「喪に服す事は孝の道を示すかもしれないが、父は国の要職にあり、俺はその後継者として選ばれた。その責務を滞らせる事は国に対する忠の道と父の功績を蔑ろにする孝の道に悖る。忠孝の正道として、職務に復帰するのは当然である」
と言って、周囲を黙らせたと言う経緯があった。
鄧艾と杜預は、職務中と言う事だったがそれでも司馬師への面会を許された。
「よう、士載。淮南以来か?」
「ご無沙汰しております」
「見ての通り、仕事は山ほどあるぞ。嬉しいだろ?」
司馬師は自分の机に置かれた、山と積み上げられた書簡を見ながら笑う。
「……私は将軍だったのでは?」
「減俸されただろ? それで兵を養うのは苦しいだろうから、一時お前の兵は俺が預かる。お前にはこっちの手伝いをしてもらいたいが、何か不都合があるか?」
「不都合はありませんが、具体的にどの様な事でしょうか」
「端的に言えば、異民族をどうにかすると言う仕事だ。どうした方が良いと思う? やはり弾圧か?」
「それは最良とは思えません」
司馬師の質問に、鄧艾は即答する。
「ほう。だが、魏では主流のやり方ではないか?」
「国力に勝る魏である事を異民族に見せる、と言う事でこのやり方が主流となってきましたが、その結果が先の遼東であり雍州です。根本的な解決を模索しなければ、魏は常に後背に火種を抱えた状態になります」
「はっはっは、良いぞ。その調子で、異民族の事をお前に一任する。何か解決策を見つけたら、すぐに報告してくれ」
司馬師は笑いながら言うが、それは簡単な事ではない。
言った鄧艾が弾圧は最良ではないと思っているだけで、まだ具体的な方法は思いついていなかった。
「他にも内務が色々とあってな。士載も元凱も事務仕事に長けているから、大助かりだ」
と言う事は、異民族問題解決を模索しながら、事務仕事もこなさないといけないらしい。
「とはいえ、転属初日からはさすがに厳しいだろうから、明日からで良いぞ。俺って優しいよな?」
「来週からとかなら、もっと感謝しますけど」
「お、元凱、言う様になったなぁ。でもダメ。仕事溜まってるし。明日からな」
杜預は一応交渉してみたが、さすがに司馬師には通用しなかった。
この二人は親子ほども歳が離れているものの、杜預の妻が司馬師の妹と言う事もあって義理の兄弟にあたる。
司馬師の性格もあるが、この気安さはそう言うところから来るものだろうと鄧艾は思う。
とりあえず今日は休みと言う事になったので、鄧艾と杜預は官舎に戻ろうとしたのだが、その時に毌丘倹と石苞がたまたま通りかかった。
「あれ、士載?」
「久し振り。毌丘倹将軍、ご無沙汰しております」
「ああ、士載か。会うのは本当に久し振りだが、活躍は聞いているよ」
毌丘倹は笑顔で言う。
毌丘倹が鄧艾の噂を聞いていた様に、鄧艾の方でも毌丘倹の事は耳に入っている。
中央で当代の名将として最初に名が挙がるのは、彼だと言っても過言ではない。
戦だけでなく人柄や、何より国に対する忠誠が厚い。
以前曹爽が大将軍であった時にも、散々曹爽に苦言を呈して来た姿勢や王凌からの要請にも応えようとしなかったなど、自身の栄達に固執しなかったところなど皇族からも高く評価されている。
それと同じ様に、石苞も将軍としての名声を上げて、今では皇族とのつながりもある。
「おう、何だ? 将軍達がそんなところで立ち話とは。謀反でも企んでいるのか?」
そう言って現れた少年に、毌丘倹と石苞は慌てて膝を付き、遅れて鄧艾と杜預もそれに倣う。
「あの方は?」
「曹芳陛下だ」
小声で尋ねる鄧艾に、石苞が答える。
鄧艾はこの時、初めて曹芳を見たがそれは先帝である曹叡とはまったく違う印象を受けた。
曹叡は見るからに人の上に立つ風格を備えた人物であり、それは単純に容姿に優れていると言うだけでなく、王者の風格を持っていた。
が、この少年は違う。
若い為にまだその風格が備わっていない、と言うのとも違う。
女官をつれて歩くそのだらしない姿は、みなりが良いだけの、ただの放蕩者にしか見えない。
「陛下、後宮からこの様なところに何用ですか?」
毌丘倹が曹芳に尋ねる。
「ふん、一将軍の分際で、皇帝の動向を探るか。弁えよ」
曹芳を見下す様に、毌丘倹に向かっていう。
酔っているみたいだな。
その口調から、鄧艾はそう思った。
皇帝の執務と言うものは基本的に後宮で行われるもので、行政府にて執り行うと言うものは少ない。
なので、皇帝が行政府に来ると言う事が異例なのである。
それに、曹芳には幾つかの悪い噂があった。
その一つが、女癖の悪さである。
しかもただ女好きと言うだけではない。
曹芳は僅か八歳の時に帝位に付いたのだが、言うまでもなくその時から女好きだった訳ではない。
もしかするとその当時からだったかもしれないが、それでも常識の範囲での話だろう。
だが、あくまでも噂とは言え、今は違う恐れがある。
事実であるかは分からないが、ここ数年で後宮の女官の入れ替わりが凄まじく多いと言われている。
特に曹芳の元へ行った者は、二度と戻ってこないと言われていた。
事の真偽は分からないにしても、辺境とも言うべき雍州にまで女官の募集がかけられると言うのは、何かしらの異常事態と言っても良かった。
辺境の貧しい者にとっては良い話だったかもしれないが、それが片道の話であるとは知らされていない。
その辺りの事も、ただの噂だと鄧艾は思っていたが、曹芳本人を見て僅かとは言え不安を覚えたのも事実である。
どこか爛れた荒廃の気配。
忠臣である毌丘倹に向けた見下した目なども、とても王者のソレとは思えない。
それこそ先帝である明帝曹叡は、初めて会った時の、まだ何者でも無い鄧艾や石苞に対してすら見下したり、蔑んだ目を向ける様な事は無かった。
「陛下、御用とあらばこちらから出向きますものを」
執務室から出てきたらしい司馬師が、曹芳を見つけて言う。
「撫軍大将軍に、女を調達してもらおうと思ってな」
「その様な些事で陛下が玉体を運ぶものではありませんぞ」
「それから、そこの者共が何やら不穏な話をしていたぞ? クビにした方が良いのではないか?」
曹芳は鄧艾達の方を見て言う。
「はっはっは、陛下。それならもっと良い方法があります。戦場に送り込めば良いのです。さすれば敵に殺されるでしょうし、手柄を立てるかもしれません。少なくとも戦場に出ている間は陛下の目に止まる事もありますまい」
「ふっ、それもそうか。では蜀でも呉でも攻めさせるが良い。仕事もせずに立ち話する様な輩は必要無い」
「御意に」
司馬師はそう言うと、鄧艾達に手でこの場を離れる様に指示する。
「陛下はまだお若い。いずれ帝王としても成熟される事だろう」
誰かが何か言ったわけではなかったが、毌丘倹は鄧艾達にそう言った。
が、それでも鄧艾は不穏な気配を感じていた。
それは司馬懿が死に際して後継者をはっきりさせていた事や、その為の準備などを怠りなく整えていた事もある。
それらに付随する人事の中で、鄧艾にも関わる事があった。
鄧艾自身が忘れていたと言うより、解消されていると思い込んでいたのだが、実はまだ司馬懿の属官のままだったのである。
遼東の件でそれも解消になったと思っていたのだが、司馬師から急遽中央に呼び出される事となった。
南安での太守としての期間は実質半年程度であり、引き継ぎが終わったと思ったら引き継ぎと言う事態になっていた。
とはいえ、新任の南安太守と言うのは降格した郭淮であり、本人もそれなりに知識がある事もあって、特に大きな問題も無く引き継ぎは完了した。
どちらかといえば、グズる陳泰をなだめる方が大変だったとも言える。
陳泰としてはようやく鄧艾と仕事が出来ると楽しみにしていたらしいのだが、さすがに司馬師から直接命令が出ているので逆らう事も出来ない。
それでなくとも、郭淮の妻の一件で減俸処分を受けているくらいである。
「今にして思えば、けっこう危険な事してましたよね」
杜預は鄧艾に向かって言う。
杜預については特に何も指示は無かったのだが、副将である以上、主将に共するのは当然の事と鄧艾について来ている。
「最初は郭淮将軍も、奥方様を中央に差し出すつもりだったのでしょう?」
「まぁ、多少語弊はありますが」
杜預が言う様に、郭淮も最初は慣例通りにするつもりだったのだが、周囲の面々の強い要望と、何より息子達の涙ながらの助命嘆願によって心を動かされ、本人も命を賭けて王氏助命を司馬一族に嘆願する事となった。
これは受け入れられたから良かった様なものの、それも司馬懿や司馬師と言った一風変わった器の大きな人物であったからこそとも言える。
もしこれが規律に厳しく融通の利かない人物だった場合、王氏の助命はもちろん、雍州軍も減俸どころではなく人事総入れ替えも有り得たかもしれない。
もっとも、その場合にはあの姜維が黙って見過ごすとも思えず、そうなると雍州方面は大混乱だっただろう。
「都に行ったら、元凱のお嫁さんにも会えるのね」
「会わせたくないですけどね」
満面の笑顔の媛に対し、杜預も同じ様に笑顔で答える。
杜預の妻の司馬氏は、今のところ司馬家に預けられていると言う。
これは都会育ちの司馬氏に雍州での生活は合わないかもしれないと言う杜預の判断だったらしいのだが、媛から変な悪知恵をつけられるのを警戒したのではないか、とも噂されていた。
何分媛は頭が切れる上に、行動力も豊かすぎる女性である。
影響力だけで言うのなら、おそらく鄧艾より上だろう。
だが、司馬氏が都にいたからこそ、王氏助命の際に雍州軍の妻たちの嘆願書をその経由で届けられたのも大きかった。
しかも司馬氏も恐れず嘆願書に署名までしてくれたと言うのだから、非常に有り難かった。
「でも、元凱が結婚していたとは驚きだわ」
「こう言うと何ですけど、結婚歴で言えば俺や叔子の方が将軍や奥方より長いんですからね」
と、杜預は媛に説明していた。
何しろ杜預は物心付いた時には既に司馬氏を嫁にしていたらしい。
それは親同士が決めた結婚で、司馬氏に至っては生まれて間もない時に決まった話だと言う。
つまり二人にとって独身時代の方が圧倒的に短いと言う事なのだが、いざ会ってみると意気投合して今に至っている。
「やっぱり太傅に似てるの?」
「ふとした時は似てますけど、基本的にはそれほど似てないと思いますよ」
とは言うものの、杜預も妻とは数年会っていない。
仕事熱心な杜預は雍州に赴任してからはずっとそこから離れていないので、都に住んでいる妻と会う事も無かったのである。
「言ってくれれば、休みくらいあげたのに」
「将軍のお言葉はありがたいのですけど、この人、絶対ついてくるでしょ?」
鄧艾の言葉に、杜預は媛を見ながら言う。
「忠、父上を見習っても、母上は見習うなよ?」
「ウチの子に変な事を教えないでもらえる?」
杜預が鄧忠に向かって言うのを、媛が遮る。
だが、鄧忠の教育は基本的に杜預の役割である事が多く、鄧忠も杜預を師匠と崇めていた。
その鄧忠も素直かつ健やかに育ち、杜預のお陰で高い教養を身に付け、両親から受け継いだ高い身体能力のお陰で、乗馬や弓術などは大の苦手の杜預をすでに上回っている。
ただ、最近は母譲りの行動力と発想力を活かしたイタズラを覚え始め、杜預も少々手を焼く事も増えてきた。
媛と鄧忠は途中で別れ、鄧艾と杜預は司馬師のところに挨拶に行く。
常であればまだ喪に服している時期で、司馬懿の弟である司馬孚や司馬師の弟である司馬昭達はまだ喪に服しているのだが、司馬師だけは復帰している。
この決断も色々と言われていたのだが、
「喪に服す事は孝の道を示すかもしれないが、父は国の要職にあり、俺はその後継者として選ばれた。その責務を滞らせる事は国に対する忠の道と父の功績を蔑ろにする孝の道に悖る。忠孝の正道として、職務に復帰するのは当然である」
と言って、周囲を黙らせたと言う経緯があった。
鄧艾と杜預は、職務中と言う事だったがそれでも司馬師への面会を許された。
「よう、士載。淮南以来か?」
「ご無沙汰しております」
「見ての通り、仕事は山ほどあるぞ。嬉しいだろ?」
司馬師は自分の机に置かれた、山と積み上げられた書簡を見ながら笑う。
「……私は将軍だったのでは?」
「減俸されただろ? それで兵を養うのは苦しいだろうから、一時お前の兵は俺が預かる。お前にはこっちの手伝いをしてもらいたいが、何か不都合があるか?」
「不都合はありませんが、具体的にどの様な事でしょうか」
「端的に言えば、異民族をどうにかすると言う仕事だ。どうした方が良いと思う? やはり弾圧か?」
「それは最良とは思えません」
司馬師の質問に、鄧艾は即答する。
「ほう。だが、魏では主流のやり方ではないか?」
「国力に勝る魏である事を異民族に見せる、と言う事でこのやり方が主流となってきましたが、その結果が先の遼東であり雍州です。根本的な解決を模索しなければ、魏は常に後背に火種を抱えた状態になります」
「はっはっは、良いぞ。その調子で、異民族の事をお前に一任する。何か解決策を見つけたら、すぐに報告してくれ」
司馬師は笑いながら言うが、それは簡単な事ではない。
言った鄧艾が弾圧は最良ではないと思っているだけで、まだ具体的な方法は思いついていなかった。
「他にも内務が色々とあってな。士載も元凱も事務仕事に長けているから、大助かりだ」
と言う事は、異民族問題解決を模索しながら、事務仕事もこなさないといけないらしい。
「とはいえ、転属初日からはさすがに厳しいだろうから、明日からで良いぞ。俺って優しいよな?」
「来週からとかなら、もっと感謝しますけど」
「お、元凱、言う様になったなぁ。でもダメ。仕事溜まってるし。明日からな」
杜預は一応交渉してみたが、さすがに司馬師には通用しなかった。
この二人は親子ほども歳が離れているものの、杜預の妻が司馬師の妹と言う事もあって義理の兄弟にあたる。
司馬師の性格もあるが、この気安さはそう言うところから来るものだろうと鄧艾は思う。
とりあえず今日は休みと言う事になったので、鄧艾と杜預は官舎に戻ろうとしたのだが、その時に毌丘倹と石苞がたまたま通りかかった。
「あれ、士載?」
「久し振り。毌丘倹将軍、ご無沙汰しております」
「ああ、士載か。会うのは本当に久し振りだが、活躍は聞いているよ」
毌丘倹は笑顔で言う。
毌丘倹が鄧艾の噂を聞いていた様に、鄧艾の方でも毌丘倹の事は耳に入っている。
中央で当代の名将として最初に名が挙がるのは、彼だと言っても過言ではない。
戦だけでなく人柄や、何より国に対する忠誠が厚い。
以前曹爽が大将軍であった時にも、散々曹爽に苦言を呈して来た姿勢や王凌からの要請にも応えようとしなかったなど、自身の栄達に固執しなかったところなど皇族からも高く評価されている。
それと同じ様に、石苞も将軍としての名声を上げて、今では皇族とのつながりもある。
「おう、何だ? 将軍達がそんなところで立ち話とは。謀反でも企んでいるのか?」
そう言って現れた少年に、毌丘倹と石苞は慌てて膝を付き、遅れて鄧艾と杜預もそれに倣う。
「あの方は?」
「曹芳陛下だ」
小声で尋ねる鄧艾に、石苞が答える。
鄧艾はこの時、初めて曹芳を見たがそれは先帝である曹叡とはまったく違う印象を受けた。
曹叡は見るからに人の上に立つ風格を備えた人物であり、それは単純に容姿に優れていると言うだけでなく、王者の風格を持っていた。
が、この少年は違う。
若い為にまだその風格が備わっていない、と言うのとも違う。
女官をつれて歩くそのだらしない姿は、みなりが良いだけの、ただの放蕩者にしか見えない。
「陛下、後宮からこの様なところに何用ですか?」
毌丘倹が曹芳に尋ねる。
「ふん、一将軍の分際で、皇帝の動向を探るか。弁えよ」
曹芳を見下す様に、毌丘倹に向かっていう。
酔っているみたいだな。
その口調から、鄧艾はそう思った。
皇帝の執務と言うものは基本的に後宮で行われるもので、行政府にて執り行うと言うものは少ない。
なので、皇帝が行政府に来ると言う事が異例なのである。
それに、曹芳には幾つかの悪い噂があった。
その一つが、女癖の悪さである。
しかもただ女好きと言うだけではない。
曹芳は僅か八歳の時に帝位に付いたのだが、言うまでもなくその時から女好きだった訳ではない。
もしかするとその当時からだったかもしれないが、それでも常識の範囲での話だろう。
だが、あくまでも噂とは言え、今は違う恐れがある。
事実であるかは分からないが、ここ数年で後宮の女官の入れ替わりが凄まじく多いと言われている。
特に曹芳の元へ行った者は、二度と戻ってこないと言われていた。
事の真偽は分からないにしても、辺境とも言うべき雍州にまで女官の募集がかけられると言うのは、何かしらの異常事態と言っても良かった。
辺境の貧しい者にとっては良い話だったかもしれないが、それが片道の話であるとは知らされていない。
その辺りの事も、ただの噂だと鄧艾は思っていたが、曹芳本人を見て僅かとは言え不安を覚えたのも事実である。
どこか爛れた荒廃の気配。
忠臣である毌丘倹に向けた見下した目なども、とても王者のソレとは思えない。
それこそ先帝である明帝曹叡は、初めて会った時の、まだ何者でも無い鄧艾や石苞に対してすら見下したり、蔑んだ目を向ける様な事は無かった。
「陛下、御用とあらばこちらから出向きますものを」
執務室から出てきたらしい司馬師が、曹芳を見つけて言う。
「撫軍大将軍に、女を調達してもらおうと思ってな」
「その様な些事で陛下が玉体を運ぶものではありませんぞ」
「それから、そこの者共が何やら不穏な話をしていたぞ? クビにした方が良いのではないか?」
曹芳は鄧艾達の方を見て言う。
「はっはっは、陛下。それならもっと良い方法があります。戦場に送り込めば良いのです。さすれば敵に殺されるでしょうし、手柄を立てるかもしれません。少なくとも戦場に出ている間は陛下の目に止まる事もありますまい」
「ふっ、それもそうか。では蜀でも呉でも攻めさせるが良い。仕事もせずに立ち話する様な輩は必要無い」
「御意に」
司馬師はそう言うと、鄧艾達に手でこの場を離れる様に指示する。
「陛下はまだお若い。いずれ帝王としても成熟される事だろう」
誰かが何か言ったわけではなかったが、毌丘倹は鄧艾達にそう言った。
が、それでも鄧艾は不穏な気配を感じていた。
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