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第一章 武勲までの長い道のり

第十一話 二四一年 運河完成報告

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 鄧艾は運河完成の報告の為に、洛陽へと上洛していた。

 随伴は名目上の副将である羊祜と、身の回りの世話をすると言い張って媛が一緒について来たくらいだった。

 羊祜はいくらなんでも少なすぎると言っていたのだが、鄧艾が運河制作の責任者と言う肩書きである以上、運河が完成した今となっては無位無冠であり人を使う立場ではないと言って譲らず、それならと媛がついて来て妥協させたと言う流れがあった故の人事である。

「あれ? どちらに?」

 上洛して大将軍府を目指していた鄧艾に、羊祜が尋ねる。

「私の人事は大将軍からの直接指示だったので、まずは大将軍に報告をと思ったのですが」

「え? でも任じられた時の大将軍は、仲達様でしたよね? 今の大将軍は曹爽様ですので、報告の場合は太傅のところに行くべきでは?」

「そうでした。私の中で大将軍は司馬懿様のままでしたので」

 鄧艾は恥ずかしそうに言う。

 何分鄧艾は曹爽と言う人物とは面識が無く、また司馬懿に取り立てられた事もあって、大将軍と言えば司馬懿と言う印象が強かった。

「そう言う事って、最初に調べるよねぇ」

「お嬢様は一先ず宿で待っていて下さい」

 色々言ってくる媛を宿に送ると、鄧艾と羊祜は司馬懿の元を訪れる。
 が、そこでは予想もしていなかった大騒ぎが起きていた。

「これは……」

「ちょっと近づけそうにありませんね」

 鄧艾と羊祜は、門の外まで人が走り回っている様子を見て日を改めようとした。

「そこの者、待て」

 去ろうとしていた鄧艾と羊祜を止める声があった。

 冷徹な面持ちは特徴的な、司馬懿の次男、司馬昭だった。

「見た顔だと思ったが、やはり見知った者であったか」

 司馬昭は二人を見て言う。

「つかぬ事を聞くが、太傅を見ていないか?」

「いえ、我々は洛陽に着いたばかり。一言ご挨拶にとやって参ったのですが、何かございましたか?」

「いや、見ていないのであれば良い。もし太傅を見かける事があれば、すぐに連絡するように」

 表情だけでなく口調も冷たく事務的な司馬昭はそう言うと、門の中へ戻ろうとする。

「どうだ、見つかったか?」

 司馬昭が戻るより先に、身なりの良い男性が飛び出してくる。

「大将軍、そう慌てる事もありますまい」

「これが慌てずにいられようか。呉が大挙して押し寄せてくると言う情報が入ったのだぞ? 急ぎ対策を練らねばならぬと言う時、太傅がいないとは何事だ!」

「ご安心を。太傅の遠謀、すでに呉を捉えておいでです。まもなくふらりと姿を現しては、解決策を提示されます。大将軍におかれましては、どうか慌てる事無く、威風堂々とされるが良いでしょう」

 会話の内容から、この身なりの良い男性が新たな大将軍となった曹爽なのだろう。

 年の頃は司馬昭とさほど変わらない様に見えるのだが、異様なまでに落ち着いている司馬昭と比べると、慌てふためいている様子に余裕のなさが伺われる。

「大将軍、そう慌てる事もありません」

 さらに門から現れた人物が、曹爽をなだめる様に言う。

「お? 叔子か?」

「ご無沙汰しております」

 新たにやって来た人物は司馬昭の兄である司馬師で、実は羊祜にとっては姉の夫、つまり義理の兄でもある。
 その縁もあって、羊祜は若くして今回の大任を任せられたと言う経緯もあった。

「父上……ではない、太傅は見ていないか?」

「兄上、彼らは任地よりこの地に着いたばかり。状況すら把握していないとの事」

 質問した司馬師に対して、答えたのは司馬昭だった。

「そうか。今立て込んでいてな。悪いが日を改めて来てくれ」

「そうします。お騒がせいたしました」

 とにかく大騒ぎになっているところだったので、邪魔にならないように鄧艾達は足早に立ち去って媛の待っている宿に戻る。

 もしかしたら、と思っていたところだったが、そこには媛だけでなく見覚えのある老人も一緒にいて、媛と会話を楽しんでいた。

「た、太傅様!」

「ん? おお、誰かと思えば叔子か! ちょっと見ないとすぐ大きくなるなぁ」

 酒が入っているらしく、司馬懿は笑いながら言う。

「それどころではありませんよ! 大将軍もお探しですよ」

「はっはっは! この仲達、あの諸葛亮を相手にしていた時にも陣中から逃げ出していた男だぞ? 呉軍なんぞを相手に、この仲達を捕まえられるものか! ふっはっは!」

「……え? 全然凄く無いですよ?」

「そうだろうそうだろう。言っている本人が、何を言っているのか分かっていないからな」

 呆れる羊祜に対して、司馬懿は本当に楽しそうに笑っている。
 ただ酔っ払っているだけかもしれない。

「でも、それだけ余裕があると言う事は、対呉戦略は十分にあると言う事ですか?」

「そんな訳が無いだろう」

 鄧艾は助け舟を出したつもりだったが、司馬懿は自信満々に否定する。

「……はい?」

「なーんにも打つ手が無いから逃げ回っているんじゃないか、はっはっは」

「……いやいや、それは笑い事では無いですよ」

 さすがにそれは洒落になっていないので、鄧艾も心配になる。

「とは言え、淮南には人夫が大勢いるだろう? ほれ、例の運河造りの人夫達だ。その者達を一時的に兵として並べれば、呉軍を驚かす事は簡単じゃないか」

「いや、それがそうでも無いのです」

 鄧艾は司馬懿の案を否定する。

「運河が完成したので、大半の人夫には暇を出して休養中です。今は州兵も少なく、しかも率いるのは着任されたばかりの孫礼そんれい将軍で、州兵を掌握しているとは言い難い状況です。それで呉軍と戦えと言うのは酷と言うものですよ」

「ほう、孫礼か。ならば、州兵の把握は何も心配いらない。アレは優秀な男だ」

 司馬懿は何度も頷きながら言う。

「ん? だが孫礼は大将軍の補佐役だったはず。何故に大将軍の元を離れて太守などやっておるのだ?」

「それは私にもわかりかねますが、新任の太守として着任した事は間違い無い事です」

「大方言いすぎて飛ばされたのであろう。アレはちょっとばかり厳しい傾向があるから、曹爽殿から嫌われたか」

 司馬懿はそう分析しているのだが、鄧艾は孫礼が着任した時に挨拶した時と、運河完成の報告の為に洛陽に上洛すると言う挨拶をした時くらいしか顔を合わせていないので、詳しい事はよく知らない。

「ともあれ、捨てるには土地も人も惜しい。ちょっと真面目に対策を考えようか」

「ちょっとじゃなく、真面目に考えて下さい」

 本当に事態の深刻さを分かっているのか不思議なくらいに飄々としてる司馬懿に、羊祜が注文を付ける。

「叔子も言う様になったなぁ」

 司馬懿が目を細めて言う。

 司馬懿にとって羊祜は孫の様な存在らしく、その成長を喜んでいるようだった。
 が、状況が良くない事を理解していないように見える。

「そう言う事なら、士載達がいったん戻って人夫達の協力を得れば一気に兵力は増えるんじゃない?」

 唐突に媛がとんでもない事を言う。

「奥……媛さん、いくらなんでもそれはちょっと」

「ん? 叔子も士載も人夫からの信頼はあるんだから、多分協力してくれると思うけどなぁ。皆もせっかく作った運河は壊されたくないだろうし」

「おお、それは妙案。その智謀、この太傅にも劣らぬぞ」

「え? 本当に?」

「おお、本当だとも。男であれば我が参謀に加えたいところだったが、女とあってはちと障りがあってなぁ」

「女性差別?」

「いや、ウチの奥さんが怖くて」

「あー、噂ではちらほらと……」

 司馬懿には年の離れた妻がいて、司馬師、司馬昭の母親でもある。

 普段は良妻賢母の見本とも言えるそうだが、非常にヤキモチ焼きらしく、司馬懿が愛妾を囲っていた時、その愛妾を切り捨ててしまったと噂されている。

 実際のところがどうなのかは不明なのだが、司馬昭の冷徹さが母親譲りであったとしたら、それも十分に考えられそうな雰囲気はある。

 しかし司馬懿が真相を話そうとしないので、それはあくまでも噂の域を出ていない。
 もっとも否定もしていないせいで、この噂は広まっているとも言えるのだが。

「買い出し、戻りました」

 そう言って宿にやって来たのは、杜預だった。

「鄧艾さん、お久しぶりです!」

「これはどうも。杜預殿からも、太傅を戻る様に説得してもらえませんか?」

「無理ですね。俺が言って素直に戻る様な人なら、こんなところにいませんよ」

 買い出しに出ていた杜預は、どうやら酒のツマミを買いに行かされていたみたいで、適当なツマミを机に並べる。

「おお、コレコレ。元凱は分かっているなぁ」

 司馬懿は待ち焦がれていたようで、さっそく杜預が買ってきたツマミに手を伸ばす。
 と言っても、杜預が何か特別な物を買ってきた訳ではなく、酔っ払っている司馬懿にとっては何でも良かったのかもしれない。

「それで、太傅。俺が前から言っていた事、通してもらえるんですよね?」

「おお、そりゃもちろん。今すぐにでも良いぞ」

「承りました! それじゃ鄧艾さん、姐さん、今後よろしくお願いします!」

「……話が見えないのですが」

 司馬懿と媛、杜預の間だけで何か話がされたみたいだが、鄧艾達はその場にいなかった上に何ら説明が無い状態なので、よろしくお願いされても困るのである。

「元凱がどうしても士載の元で働きたいと言って聞かんのでなぁ、うるさいから士載の副将として置く事にした」

「……は?」

 説明を受けても、鄧艾は話が飲み込めなかった。

 杜預は名門の生まれであり、魏において出世を期待されている若手の中でも最上位級の人物である。

 一方の鄧艾は司馬懿から目をかけられているとはいえ、現状では大将軍に反対して左遷された一介の農政官でしかない。

 立場や期待値から考えれば杜預の副将として鄧艾がつく事はあっても、その逆と言うのは極めて異例の人事と言えた。

 それは羊祜にも同じ事が言えるのだが、形だけとはいえ羊祜に対しては懲罰人事の側面があった事もあるが、杜預の場合にはそれが無い。

「おし、一先ずは呉の侵攻を止めねばならんだろう。士載よ、お前さんもそこの若い衆を連れていったん淮南に戻って孫礼を助けてやってくれ。大将軍を援軍で向かわせれば、士気も上がるだろう」

「大将軍は孫礼殿との相性が良くなかったのでは?」

 話の流れの中で不安になった事を、羊祜が尋ねる。

 大将軍になった曹爽にしても、新たに太守を任じられて着任した孫礼にしても、そんな小さな事はきにしていないのではないかと鄧艾は思ったものの、もし気にしていた場合には致命的な事になりかねない危険を孕んでいるのは違いない。

「お、それなら王凌おうりょう殿に行ってもらおう。かなり良い年になっているが、かつて蜀五虎将軍の黄忠こうちゅう趙雲ちょううんなどよりは若いし、本人もまだまだ現役だと言われていた。あの方なら孫礼も文句をつけられないだろう」

 司馬懿は一人で納得しながら言う。

 鄧艾は面識の無い人物だったが、王凌と言う人はとにかく文武に優れた剛直な人らしく、これまで様々な州の太守を勤めては、その優れた統治能力を遺憾無く発揮してその地を治めていたという。

 その一方で様々な戦にも参戦し、数々の武勲を上げてきた実績もある武将らしい。

 血筋も凄まじく、叔父に当たる人物があの董卓とうたく呂布りょふを同士討ちさせた『美女連環の計』を計画した当時の司徒であり、王佐の才と謳われた王允おういんである。

 ちなみに王凌は司馬懿より年上で、今は七十近い年齢だったはずと司馬懿は言っていた。

「その様な老将で大丈夫ですか?」

「大丈夫も何も、王凌殿の前で老将とか言うなよ? あの人、本気で怒るからな」

 杜預がそう質問すると、司馬懿は真面目に答える。

「で、士載らはそれで良いか?」

「太傅からのご命令とあらば否はありません」

「あぁん? 遼東で歯向かったヤツが言う言葉かぁ?」

 案外根に持っていたのか、司馬懿は鄧艾を睨みながら言う。

「ぬっふっふ、まあ良い。ここは媛ちゃんに免じて許してやろう」

 司馬懿はそう言いながら、媛の手を取る。

「まぁたまた、太傅。そんな事するから奥方様が怒るんですよぉ?」

「ウチの奥さん、本当に怖いから、ここだけの秘密な? そうしてくれたら、『あの話』もちゃんと悪い様にはしないで進めておくから」

「本当ですか? 約束ですよ?」

「もちろん。この太傅、策は巡らせても、この様な嘘はつかん」

 司馬懿と媛が何を企んでいるのかは知らないが、なかなかに絵になる悪巧み感である。

「……何を企んでいるのですか?」

 鄧艾は一応質問してみると、司馬懿と媛は一瞬お互いを見たあとで、同時に答える。

「秘密」
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