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第一章 武勲までの長い道のり
第十話 二三九年 皇帝崩御
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魏の二代目皇帝、明帝曹叡の早過ぎる死は魏を揺るがした。
享年三十四歳。
司馬懿達が遼東から戻った時、既に曹叡は重篤な状態であり、もはや起き上がる事も出来なかった。
遼東へ出る前にはいつもと変わらぬ様子であったはずだったが、それは司馬懿の記憶違いでは無く、公孫淵の乱の直後、蜀の廖化が攻め込んできた時に郭淮と対策を協議していたと言う。
その時、郭淮の立てた迎撃策には危険が多いと指摘したが、実戦経験豊かな郭淮は自らの経験を信じて策を強行した。
その結果、曹叡が指摘した通りに大敗し、武将を失う事になったと言う。
少なくとも、その時までの曹叡は通常通りの健康状態であり、また明晰な頭脳も一切の陰りは無かった。
それは郭淮も認めている。
だが、ある時突然重病となり、原因らしい原因も突き止める事も出来なかった事もあって、いかに優秀な医師団を有していたとしても治療もままならなかった。
曹叡には後を継ぐべき実子が無く、養子である曹芳が新たな皇帝として立てられ、その後見人として司馬懿と、前任の大将軍であった曹真の息子の曹爽が当てられる事となった。
この時、曹叡はまだ八歳の曹芳に対し、司馬懿を父親だと思って接する様にと伝えたと言われている。
曹叡が、いかに司馬懿を信頼していたかがうかがわれる。
また、司馬懿にしても曹叡から全面的に信頼されていると分かっていたからこそ、蜀との戦いさえも乗り切る事が出来た。
葬儀は盛大に行われ、鄧艾達が作業を進める淮南でも喪に服すと言う事で作業を中断する事になった。
皇帝の死と言う魏にとって一大事である事は、作業員達にも重々分かっているのだが、彼らにとって皇帝とは余りにも遠い存在である為にその大事にも実感がわかず、突然降って沸いた休養日を堪能している様に、鄧艾には見えた。
幾人かはそれを不敬だと言って処罰しようとしたが、鄧艾は咎めるに及ばずと不問とした。
彼自身、先代の文帝死去の折には、まったく実感が湧かず今の作業員達と同じ様に思っていた為でもある。
直接謁見した事もある鄧艾や、将来を嘱望されていた羊祜にとってはかなり衝撃的な事ではあったが、それでも運河造りに没頭する事によって紛らわせる事が出来たのはありがたいと言えた。
それらの事は、中央からやって来た石苞によってもたらされた情報だった。
「今のところは大きな混乱は無いな。ただ、大将軍の座は曹爽様に譲られる事になって、仲達様は太傅に就かれる事になった」
「軍権を分けると言う事か?」
「ま、実績が違い過ぎるから、内務を曹爽様が、実戦指揮を仲達様がと言う事みたいだ。元々大将軍には武帝のお子で明帝に近しい曹宇様が押されていたみたいだったが、ご本人から辞退されたとの事で、曹爽様になったらしい。まぁ、仲達様の前の大将軍である曹真様の御子息な訳だし、順当な人事じゃないか?」
石苞は軽く言うが、鄧艾は考え込んでいる。
「気に入りませんか?」
そう尋ねたのは羊祜だった。
形としては懲罰人事として責任者を外され鄧艾の副将の様な扱いになっているのだが、むしろその方が本人はやりがいを感じているらしく、のびのびと仕事に励んでいる。
どこまでも従順な性格と思っていたのだが、近くで見ていると芯が強く、また好奇心や知的探究心に富み、鄧艾から知識を吸収する楽しみの様なものを見つけたらしく、小間使いも進んで行っている。
今も中央からの来客として石苞を労っているのだが、家格としては羊祜の方が上なので石苞も戸惑っていた。
「軍権を分ける事それ自体は悪いとは言わないが、かつての曹真大将軍であればともかく、実績の少ない曹爽様ではいささか大将軍の責任は重過ぎるのではないか、と思って」
「ま、名門というだけで務まる訳では無いからな」
「漢の時代であればそれでも良かったのかもしれないけど、今はそうじゃない。それに大将軍の息子だからと言って大将軍を継がせると言うのも危険だと思う。外様である司馬氏に権力を集中させたくなかったのかもしれないが、それはいずれ大きな歪みになりかねない」
「それは確かにそうかもしれませんけど、曹爽様も実績が及ばない事は重々承知されているでしょうから、師事を仰ぐのでは?」
羊祜はそう言うが、鄧艾も石苞もそろって首を振る。
「そう単純な話じゃないさ。俺らみたいな下っ端や、君くらい純粋で寛容な性格ならともかく、普通は自分より明らかに優秀な人物が同格にいた場合、自分も同じ様な実績を上げたくなるようなもんだからな。士載もそれを気にしているんだろう?」
石苞の問いに鄧艾は頷く。
「先年の郭淮将軍の大敗も、らしくない敗れ方だった。敵方の廖化が優れていたと言えばそれまでかもしれないが、おそらく夏侯覇将軍の事を意識されたのではないかと思う。勝つ事に焦ると細かいところを見落としがちになる。それこそ諸葛亮の最初の遠征の時、あの明帝や司馬懿様さえも欺いて離間の計を仕掛けてきた馬謖が、有り得ない様な失敗をしているのも、姜維と言う自身を脅かす存在を気にするあまりに勝ちを焦りすぎた事が原因の一つだと、司馬懿様も言っていた事がある」
「街亭、ですね」
その戦いの事は、羊祜も知っている。
たらればを言いだしたらキリがないのだが、諸葛亮にとってだけではなく、魏や蜀にとってもこの戦いこそが最大の分岐点だったかもしれない。
講談師の話を聞いた時から気にはなっていたので、鄧艾はこの事については独自に調べたり、当事者であった司馬懿や話しやすい雰囲気の司馬師に話を聞いたりした事もあった。
あの時、馬謖は何故無理をしてまで勝とうとしたのか。
街亭は城や砦こそないものの守りには適した地形であり、あの時の馬謖は勝てなくても負けなければ良かった。
戦いの後、捕虜にした兵の話では諸葛亮からもその様な指示が出ていたらしいのだが、何故か馬謖が急に作戦を変えたのだと司馬師は言っていた。
さらに、その気持ちもわからないではない、とも。
馬謖はただ手柄を立てたかったと言うより、司馬懿に勝ちたかったのだ。
後に蜀に降る事になったとは言え、姜維は諸葛亮に勝ったからこそ、その実力を示す事が出来た。
故に、諸葛亮の後継者を自負する馬謖は司馬懿に勝利する事によって、自らの実力を示そうとした。
その思いに囚われてしまったのだ、と。
「それだけに子元様は心配していたよ。曹爽様が大将軍の地位に満足して内政に尽くすのであれば心配いらないが、実際の武勲で仲達様と比べる様になった場合には同じ考えに囚われてしまわないか、と」
「有り得る事です。曹爽様が羊祜殿の様に謙虚で寛容な人物なら良いのですが」
「いえいえ、私などただの未熟者で、謙虚でも寛容でもありません」
羊祜は首と手を振って否定する。
「おーい、士載、いるぅ?」
ここにも一人、皇帝崩御に動じない人物がいた。
媛である。
第一報を持ってきた時は慌ててもいたが、そこからの立ち直りは早く、喪に服すとして作業員に休養を取らせる案を出したのも彼女であり、それを実行する際にも様々な手助けをしていた。
「これは奥方様」
「やーだ、もう! まだ、奥方じゃないってばぁ!」
羊祜が挨拶すると、媛は力一杯その背中を叩く。
「うぐっ!」
「あ、ごめん。痛かった?」
「思っていたより。何か急用ですか?」
「んー、ちょっと困り事ではあるわね」
「何か?」
鄧艾は羊祜と問答していた媛に気付く。
「いやね、難しい話してるとこ悪いなーとは思ったんだけど、ちょーっと困り事。役所の人達もどうしていいかわからなくて、私が士載を呼びに来たって訳よ」
「……あまり聞きたくない様な内容みたいですが」
「大正解! 正解した士載には詳細を教えてあげましょう」
「……よろしくお願いします」
「士載、お前、まだお嬢に頭が上がらないのか?」
「あ? 仲容、なんか文句あんのか?」
「いえ、特に何も」
石苞も、相変わらず媛には頭が上がらないらしい。
「ほら、ここに来てすぐクビにした三人いたでしょ?」
「いましたね。今はいませんが」
「それが復職を願いに来たのよ」
「は? それは断れば良いだけの話でしょう?」
「それが、田続って人の紹介状付きで来てるから、こっちも困ってるって訳よ。士載、あんたが何とかしてくれないと」
「それは面倒な事になりましたね。取り敢えずまだ喪中だといって追っ払いますか?」
「さすがにそれは悪手ではありませんか?」
鄧艾ならやりかねないと思ったのか、羊祜が諌める。
「どうする? 俺が出るか?」
「面倒ではありますが、こう言うのはなぁなぁでやっては後まで引きずりますからね。石苞の手を借りても根本的な解決にはならないですから」
「いや、士載は不器用な癖に押し込むところがあるからなぁ」
「まぁ、何とかやりますよ」
鄧艾はそう言うと、面倒事が待っているところへ向かう。
厳密に言えば太守の仕事に当たるのだが、この工事に関して言えば鄧艾には全権が委ねられている。
初日に三人を罷免したのも越権と言えば越権だったので、後日太守に謝罪に行ったのだが、さすがに太守の方も大将軍から直接任を受けた人物には強く出る事が出来なかった。
また、丁寧な対応が気に入られて、今後も工事に関する人事権は全て鄧艾に任せると言う許しをもらっている。
逆に言えば、この全権を任された以上は鄧艾が責任を取らなければならない。
「お待たせしました」
鄧艾は三人の待っているところにやって来る。
待合にいた三人は、元々がこの地の豪族であり有力者でもある。
よそ者の鄧艾であればともかく、この地の者達にとっては無下に出来ないと言う弱みがあった。
「この書状を見てもらえば分かる通り、ここでの復職を希望しています。役職を当てていただきたい」
「書状を見せていただけますか」
鄧艾はそう言うと、田続からと言う書状を受け取る。
そこにはその者達が心を入れ替え、もう一度仕事を与えてやるようにと言う内容だった。
「……なるほど、分かりました。では、私の方からも書状を書きますので、この地ではなく、新たな土地で一から出直す事をオススメします。後日送らせますので、送り先だけ教えていただけますか?」
「あぁ? そこに書いてあるだろう」
一人が凄むところを、別の一人が押さえる。
「鄧艾殿、書状をよく読まれよ。そこに書かれている通り……」
「心機一転と言うのであれば、この地では無くまったく新しい環境で挑む方が良いでしょう。その為の書状は私も書きます。もっとも田続殿の書状があれば、ほとんどのところで受け入れていただけるでしょう」
「鄧艾殿、その書状……」
言いかけたところで、鄧艾は机を叩く。
「札の切り方を誤ったな。田続殿の書状と言う強過ぎる札を手に入れた事で浮かれたのだろうが、それで私は説得できないぞ」
鄧艾の口調が変わる。
「この地にいる限り、貴官らは何ら変わらない。この書状は返すので、別のところに士官されるが良い。この地には二度と足を踏み入れる事を許さない」
「鄧艾殿、それは田続殿の顔に泥を塗る事になりますぞ」
「田続殿の名誉を汚すのはお前らだ!」
鄧艾は叩きつける様に怒鳴る。
「お前らの如き無能共を推薦したとあっては、田続殿の名を貶める事になる! 名門田家の名折れである! 立ち去れぃ!」
「よせ、士載。やりすぎだ」
加熱する鄧艾を、石苞が止める。
「ここは俺が預かる。お前達は、一先ずここを去れ」
石苞はそう言うと、三人を追い返す。
「やっぱりこうなったか。これで短気だからなぁ」
「面目無い。ついカッとなって」
石苞に止められ、鄧艾は素直に謝る。
「鄧艾さんのキレてるところ、初めて見ました。けっこうキレるんですか?」
羊祜が薄く笑いながら言う。
「こう見えて、けっこうキレやすいのよ。叔子はキレられた事無い?」
「いやいやいや、何で字とかで呼んでるんですか? 失礼でしょう」
気安い媛に、鄧艾が慌てて止める様に言う。
「私の方から、そうお願いしているんです。結局私はここでは何も出来ていない訳ですから」
「気にしなくていいわよ。若い内にはしょうがないって」
「何でお嬢が……、いや、何でもないっス」
媛に睨まれて、石苞はすぐ引き下がる。
今では将軍候補として名の挙がる様になった石苞だが、それを目力だけで黙らせるのだから媛の女傑ぶりも相当なものだ。
この様な事だけでなく、運河作りは大小様々な問題が噴出したが、それでも鄧艾は二四一年には淮南にて運河を完成させるに至ったのである。
享年三十四歳。
司馬懿達が遼東から戻った時、既に曹叡は重篤な状態であり、もはや起き上がる事も出来なかった。
遼東へ出る前にはいつもと変わらぬ様子であったはずだったが、それは司馬懿の記憶違いでは無く、公孫淵の乱の直後、蜀の廖化が攻め込んできた時に郭淮と対策を協議していたと言う。
その時、郭淮の立てた迎撃策には危険が多いと指摘したが、実戦経験豊かな郭淮は自らの経験を信じて策を強行した。
その結果、曹叡が指摘した通りに大敗し、武将を失う事になったと言う。
少なくとも、その時までの曹叡は通常通りの健康状態であり、また明晰な頭脳も一切の陰りは無かった。
それは郭淮も認めている。
だが、ある時突然重病となり、原因らしい原因も突き止める事も出来なかった事もあって、いかに優秀な医師団を有していたとしても治療もままならなかった。
曹叡には後を継ぐべき実子が無く、養子である曹芳が新たな皇帝として立てられ、その後見人として司馬懿と、前任の大将軍であった曹真の息子の曹爽が当てられる事となった。
この時、曹叡はまだ八歳の曹芳に対し、司馬懿を父親だと思って接する様にと伝えたと言われている。
曹叡が、いかに司馬懿を信頼していたかがうかがわれる。
また、司馬懿にしても曹叡から全面的に信頼されていると分かっていたからこそ、蜀との戦いさえも乗り切る事が出来た。
葬儀は盛大に行われ、鄧艾達が作業を進める淮南でも喪に服すと言う事で作業を中断する事になった。
皇帝の死と言う魏にとって一大事である事は、作業員達にも重々分かっているのだが、彼らにとって皇帝とは余りにも遠い存在である為にその大事にも実感がわかず、突然降って沸いた休養日を堪能している様に、鄧艾には見えた。
幾人かはそれを不敬だと言って処罰しようとしたが、鄧艾は咎めるに及ばずと不問とした。
彼自身、先代の文帝死去の折には、まったく実感が湧かず今の作業員達と同じ様に思っていた為でもある。
直接謁見した事もある鄧艾や、将来を嘱望されていた羊祜にとってはかなり衝撃的な事ではあったが、それでも運河造りに没頭する事によって紛らわせる事が出来たのはありがたいと言えた。
それらの事は、中央からやって来た石苞によってもたらされた情報だった。
「今のところは大きな混乱は無いな。ただ、大将軍の座は曹爽様に譲られる事になって、仲達様は太傅に就かれる事になった」
「軍権を分けると言う事か?」
「ま、実績が違い過ぎるから、内務を曹爽様が、実戦指揮を仲達様がと言う事みたいだ。元々大将軍には武帝のお子で明帝に近しい曹宇様が押されていたみたいだったが、ご本人から辞退されたとの事で、曹爽様になったらしい。まぁ、仲達様の前の大将軍である曹真様の御子息な訳だし、順当な人事じゃないか?」
石苞は軽く言うが、鄧艾は考え込んでいる。
「気に入りませんか?」
そう尋ねたのは羊祜だった。
形としては懲罰人事として責任者を外され鄧艾の副将の様な扱いになっているのだが、むしろその方が本人はやりがいを感じているらしく、のびのびと仕事に励んでいる。
どこまでも従順な性格と思っていたのだが、近くで見ていると芯が強く、また好奇心や知的探究心に富み、鄧艾から知識を吸収する楽しみの様なものを見つけたらしく、小間使いも進んで行っている。
今も中央からの来客として石苞を労っているのだが、家格としては羊祜の方が上なので石苞も戸惑っていた。
「軍権を分ける事それ自体は悪いとは言わないが、かつての曹真大将軍であればともかく、実績の少ない曹爽様ではいささか大将軍の責任は重過ぎるのではないか、と思って」
「ま、名門というだけで務まる訳では無いからな」
「漢の時代であればそれでも良かったのかもしれないけど、今はそうじゃない。それに大将軍の息子だからと言って大将軍を継がせると言うのも危険だと思う。外様である司馬氏に権力を集中させたくなかったのかもしれないが、それはいずれ大きな歪みになりかねない」
「それは確かにそうかもしれませんけど、曹爽様も実績が及ばない事は重々承知されているでしょうから、師事を仰ぐのでは?」
羊祜はそう言うが、鄧艾も石苞もそろって首を振る。
「そう単純な話じゃないさ。俺らみたいな下っ端や、君くらい純粋で寛容な性格ならともかく、普通は自分より明らかに優秀な人物が同格にいた場合、自分も同じ様な実績を上げたくなるようなもんだからな。士載もそれを気にしているんだろう?」
石苞の問いに鄧艾は頷く。
「先年の郭淮将軍の大敗も、らしくない敗れ方だった。敵方の廖化が優れていたと言えばそれまでかもしれないが、おそらく夏侯覇将軍の事を意識されたのではないかと思う。勝つ事に焦ると細かいところを見落としがちになる。それこそ諸葛亮の最初の遠征の時、あの明帝や司馬懿様さえも欺いて離間の計を仕掛けてきた馬謖が、有り得ない様な失敗をしているのも、姜維と言う自身を脅かす存在を気にするあまりに勝ちを焦りすぎた事が原因の一つだと、司馬懿様も言っていた事がある」
「街亭、ですね」
その戦いの事は、羊祜も知っている。
たらればを言いだしたらキリがないのだが、諸葛亮にとってだけではなく、魏や蜀にとってもこの戦いこそが最大の分岐点だったかもしれない。
講談師の話を聞いた時から気にはなっていたので、鄧艾はこの事については独自に調べたり、当事者であった司馬懿や話しやすい雰囲気の司馬師に話を聞いたりした事もあった。
あの時、馬謖は何故無理をしてまで勝とうとしたのか。
街亭は城や砦こそないものの守りには適した地形であり、あの時の馬謖は勝てなくても負けなければ良かった。
戦いの後、捕虜にした兵の話では諸葛亮からもその様な指示が出ていたらしいのだが、何故か馬謖が急に作戦を変えたのだと司馬師は言っていた。
さらに、その気持ちもわからないではない、とも。
馬謖はただ手柄を立てたかったと言うより、司馬懿に勝ちたかったのだ。
後に蜀に降る事になったとは言え、姜維は諸葛亮に勝ったからこそ、その実力を示す事が出来た。
故に、諸葛亮の後継者を自負する馬謖は司馬懿に勝利する事によって、自らの実力を示そうとした。
その思いに囚われてしまったのだ、と。
「それだけに子元様は心配していたよ。曹爽様が大将軍の地位に満足して内政に尽くすのであれば心配いらないが、実際の武勲で仲達様と比べる様になった場合には同じ考えに囚われてしまわないか、と」
「有り得る事です。曹爽様が羊祜殿の様に謙虚で寛容な人物なら良いのですが」
「いえいえ、私などただの未熟者で、謙虚でも寛容でもありません」
羊祜は首と手を振って否定する。
「おーい、士載、いるぅ?」
ここにも一人、皇帝崩御に動じない人物がいた。
媛である。
第一報を持ってきた時は慌ててもいたが、そこからの立ち直りは早く、喪に服すとして作業員に休養を取らせる案を出したのも彼女であり、それを実行する際にも様々な手助けをしていた。
「これは奥方様」
「やーだ、もう! まだ、奥方じゃないってばぁ!」
羊祜が挨拶すると、媛は力一杯その背中を叩く。
「うぐっ!」
「あ、ごめん。痛かった?」
「思っていたより。何か急用ですか?」
「んー、ちょっと困り事ではあるわね」
「何か?」
鄧艾は羊祜と問答していた媛に気付く。
「いやね、難しい話してるとこ悪いなーとは思ったんだけど、ちょーっと困り事。役所の人達もどうしていいかわからなくて、私が士載を呼びに来たって訳よ」
「……あまり聞きたくない様な内容みたいですが」
「大正解! 正解した士載には詳細を教えてあげましょう」
「……よろしくお願いします」
「士載、お前、まだお嬢に頭が上がらないのか?」
「あ? 仲容、なんか文句あんのか?」
「いえ、特に何も」
石苞も、相変わらず媛には頭が上がらないらしい。
「ほら、ここに来てすぐクビにした三人いたでしょ?」
「いましたね。今はいませんが」
「それが復職を願いに来たのよ」
「は? それは断れば良いだけの話でしょう?」
「それが、田続って人の紹介状付きで来てるから、こっちも困ってるって訳よ。士載、あんたが何とかしてくれないと」
「それは面倒な事になりましたね。取り敢えずまだ喪中だといって追っ払いますか?」
「さすがにそれは悪手ではありませんか?」
鄧艾ならやりかねないと思ったのか、羊祜が諌める。
「どうする? 俺が出るか?」
「面倒ではありますが、こう言うのはなぁなぁでやっては後まで引きずりますからね。石苞の手を借りても根本的な解決にはならないですから」
「いや、士載は不器用な癖に押し込むところがあるからなぁ」
「まぁ、何とかやりますよ」
鄧艾はそう言うと、面倒事が待っているところへ向かう。
厳密に言えば太守の仕事に当たるのだが、この工事に関して言えば鄧艾には全権が委ねられている。
初日に三人を罷免したのも越権と言えば越権だったので、後日太守に謝罪に行ったのだが、さすがに太守の方も大将軍から直接任を受けた人物には強く出る事が出来なかった。
また、丁寧な対応が気に入られて、今後も工事に関する人事権は全て鄧艾に任せると言う許しをもらっている。
逆に言えば、この全権を任された以上は鄧艾が責任を取らなければならない。
「お待たせしました」
鄧艾は三人の待っているところにやって来る。
待合にいた三人は、元々がこの地の豪族であり有力者でもある。
よそ者の鄧艾であればともかく、この地の者達にとっては無下に出来ないと言う弱みがあった。
「この書状を見てもらえば分かる通り、ここでの復職を希望しています。役職を当てていただきたい」
「書状を見せていただけますか」
鄧艾はそう言うと、田続からと言う書状を受け取る。
そこにはその者達が心を入れ替え、もう一度仕事を与えてやるようにと言う内容だった。
「……なるほど、分かりました。では、私の方からも書状を書きますので、この地ではなく、新たな土地で一から出直す事をオススメします。後日送らせますので、送り先だけ教えていただけますか?」
「あぁ? そこに書いてあるだろう」
一人が凄むところを、別の一人が押さえる。
「鄧艾殿、書状をよく読まれよ。そこに書かれている通り……」
「心機一転と言うのであれば、この地では無くまったく新しい環境で挑む方が良いでしょう。その為の書状は私も書きます。もっとも田続殿の書状があれば、ほとんどのところで受け入れていただけるでしょう」
「鄧艾殿、その書状……」
言いかけたところで、鄧艾は机を叩く。
「札の切り方を誤ったな。田続殿の書状と言う強過ぎる札を手に入れた事で浮かれたのだろうが、それで私は説得できないぞ」
鄧艾の口調が変わる。
「この地にいる限り、貴官らは何ら変わらない。この書状は返すので、別のところに士官されるが良い。この地には二度と足を踏み入れる事を許さない」
「鄧艾殿、それは田続殿の顔に泥を塗る事になりますぞ」
「田続殿の名誉を汚すのはお前らだ!」
鄧艾は叩きつける様に怒鳴る。
「お前らの如き無能共を推薦したとあっては、田続殿の名を貶める事になる! 名門田家の名折れである! 立ち去れぃ!」
「よせ、士載。やりすぎだ」
加熱する鄧艾を、石苞が止める。
「ここは俺が預かる。お前達は、一先ずここを去れ」
石苞はそう言うと、三人を追い返す。
「やっぱりこうなったか。これで短気だからなぁ」
「面目無い。ついカッとなって」
石苞に止められ、鄧艾は素直に謝る。
「鄧艾さんのキレてるところ、初めて見ました。けっこうキレるんですか?」
羊祜が薄く笑いながら言う。
「こう見えて、けっこうキレやすいのよ。叔子はキレられた事無い?」
「いやいやいや、何で字とかで呼んでるんですか? 失礼でしょう」
気安い媛に、鄧艾が慌てて止める様に言う。
「私の方から、そうお願いしているんです。結局私はここでは何も出来ていない訳ですから」
「気にしなくていいわよ。若い内にはしょうがないって」
「何でお嬢が……、いや、何でもないっス」
媛に睨まれて、石苞はすぐ引き下がる。
今では将軍候補として名の挙がる様になった石苞だが、それを目力だけで黙らせるのだから媛の女傑ぶりも相当なものだ。
この様な事だけでなく、運河作りは大小様々な問題が噴出したが、それでも鄧艾は二四一年には淮南にて運河を完成させるに至ったのである。
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