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第一章 武勲までの長い道のり

第七話 二三八年 乱は静まり

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「夏侯覇将軍、何故ここに? 蜀との防衛線では?」

「細かい事を気にするな」

「気になりますよ。蜀との国境線の防衛は、国の最重要拠点でしょう。そこの宿将がなぜ遼東に?」

 鍾会は夏侯覇を糾弾している。

 本来であれば皇族であり猛将の夏侯覇は、こことは正反対の蜀軍との国境を守るはずの任に就いていたはずだった。
 それが正体を隠して軍に参加しているのは、冗談では済まされない。

「それは詳しく聞きたいな、夏侯覇将軍?」

 司馬懿も夏侯覇に尋ねる。

「それが納得のいかない理由であれば、大将軍権限で然るべき処断を下す事になる」

「はっきりとした理由はありますよ、大将軍」

 夏侯覇は糾弾する鍾会をあしらうと、司馬懿の方を向く。

「そこの小童に言われるまでもなく、蜀との国防が何より重要な事は理解しています。だからこそ、俺はこちらにくるべきだと判断しました」

「ほう、将軍の判断を聞こう」

「理由は単純です。最前線の責任者として任じられているのは郭淮ですが、俺がいると兵は郭淮に従うべきか、俺に従うべきかを悩みます。指揮系統を一本化する為にも、あの場は郭淮に全てを任せておくべきだと思いました」

「ふむ、返答としては悪くない」

「だ、大将軍! 変なのが来ました!」

 そんな話をしている中、興奮気味に杜預が幕舎に駆け込んでくる。

「変なの?」

 鍾会が眉を寄せる。

「報告は具体的にするべきだ。貴様も幹部候補なのだから、その甘えは捨てるべきだぞ」

「いやいや、杜預の言っている事は間違ってはいない。アレを初めて見たら、そうとしか言い様がないだろう。我とて同じであった」

 年上の杜預に向かって説教する鍾会に対し、司馬懿は笑って答える。

「心配いらない。試運転も兼ねて、ここまで来る様に手配しておいたモノだ。良い機会だから、皆にも見せておこう」

 遼東の雨も止み、まもなく城攻めも再開されると言う時だった。

 公孫淵軍の兵糧は尽き、城兵の士気も壊滅的な状況になった中、魏軍の物資も乏しくなってきているところにその『変なの』が現れたのである。

「大将軍、これは?」

 毌丘倹も首を傾げている。

木牛もくぎゅう? それに流馬りゅうばまで。大将軍が用意されたのですか?」

 ソレが何か知っているらしい胡遵は驚いて、司馬懿に尋ねる。

「木牛、流馬? ただの木像の牛なのでは?」

 鍾会は首を傾げるが、それは鍾会だけでなく毌丘倹も含む若手の全員が不思議に思っている事だった。

 鍾会が言った様に、杜預が『変なの』と評したのはかなり大きな木像の牛だった。

 物資を運んできたらしいのだが、それ自体はさほど不思議なものではない。

「よくコレを使おうと思ったものだ、大将軍」

「何、例え何であっても便利なモノであれば使う事を惜しむ理由は無いだろう」

 牛金は眉を寄せるが、司馬懿は特に気にした様子も無い。

「将軍達が知っていると言う事は、蜀との戦の時に使われたモノなのですか?」

 毌丘倹は木像の牛に触れようとした時、ようやくそれが『変なの』である理由が分かった。
 その木像の牛は、司馬懿が舌を捻った途端に動き出したのである。

「うおっ!」

 突然動き出した木牛に若手達は驚いたが、それは牛金が押さえる。

「コレは以前の戦の時に蜀軍が運搬に使っていた輸送兵器の木牛、流馬と言うモノだ。普段は手押し車なのだが、この様に自走する事も出来る。しかもそれだけではない」

 司馬懿は牛の舌を捻る。
 そうすると牛金が手を離しても動かなくなった。

「……な、何だ、コレは……」

「な? 変なのだろ?」

 言葉を失っている鍾会に、杜預は勝ち誇った様に言う。

「ちょっと触ってみても良いですか?」

 毌丘倹は司馬懿の許可を得て、木牛を押してみる。
 が、ビクともしない。

「……ん? あれ?」

 毌丘倹が押しても引いても、木牛はまったく動く気配が無い。
 自走する事も出来るはずの手押し車が、武将が全力で力を入れてもまったく動く様子が無い。

「ん、この、どうなってんだ、これ」

 毌丘倹が諦めた後、杜預や石苞、陳泰なども挑戦してみたが木牛はビクともしなかった。

「蜀の大軍師、諸葛亮がいかに天才であったか、この奇想天外な輸送兵器を見ただけでも分かると言うものだろう」

「コレにはしてやられましたからね」

 司馬懿の言葉に、胡遵は苦笑いする。

「いざ使ってみると、案外使いづらいものだな。雨が降ると足回りも弱い。もう少し改良するべきだろうが、諸葛亮は蜀から最前線までコレを使って兵糧を運ばせていたと言うのが信じられないな。天険の蜀の地は、遼東までより険しかったはずなのだが」

「多分、手押しを主として扱っていたのでしょう。それでも、これまでに無かった輸送手段ですから」

 司馬懿は木牛を見ながら言うと、胡遵も頷く。

 手押し車として考えるのであれば、一輪車の流馬などは驚く程単純な構造になる。

 しかし、これまでに誰も考えなかったモノを作り上げたと言う事が素晴らしい。

 まして、自走する仕掛けなど、誰も考えもしなかった事である。

 蜀との戦の際に使用されたらしいが、蜀による侵攻の前半、曹真の時代にのみ参戦していた夏侯覇なども、これを見るのは初めてだった様で驚いている。

「小国の蜀であればこの様な子供だましも必要でしょうが、大国である魏がこの様な敵方の物に頼る必要など無いでしょう。仲達様、この様な玩具、破壊してしまっては?」

「物の善し悪しに大国小国の差などない。ましてこの私に勝利した諸葛亮の知恵だ。馬鹿にする事は簡単だが、敗れた敵から学ぶ事は多い。私にはこの様な物を作り出そうと言う発想は無く、運搬には人手が必要なものだと思い込んでいた。コレが改良されれば、輸送はさらに容易となり、戦場に送れる兵も多くなると言うものだ」

 司馬懿は木牛の頭を撫でながら、不快感を示す鍾会に言う。

 大将軍司馬懿の優秀さとは、そんな柔軟かつ貪欲な思考力なのかもしれない。

「大将軍、敵方よりの使者が参りました」

 主だった者が木牛流馬に集まっているところに、兵が公孫淵からの使者が来た事を告げる。

「使者? 降伏ではないのか?」

「和議の申し立てだとか」

 牛金の問いに、兵士は答える。

 前回の使者であった相国の王建らを切った時点で、和議の交渉は決裂したはずだった。

「性懲りもなく和議とは。大将軍、切り捨てようか?」

「待て、牛金。前回あれほどはっきりと答えを出したにも関わらず和議の申し立てとは、どう言う考えなのかを知りたい。会おうではないか」

 司馬懿は改めて届いた物資を各兵舎に送るように手配すると、将軍達一同と共に使者を迎えるべく幕舎に戻る。
 
 公孫淵からの使者は衛演と言う文官であり、老境に達した王建とは違い三十代前後と見られる若手から中堅にさしかかろうかと言う人物だった。

 前回、王建らは耄碌して話にならないのでもっと若手を寄越せと言った事を忠実に守ったらしい。

「大将軍におかれまして……」

「その様な挨拶は無用。降伏の使者が来ると思っていたのだが、和議とは意外であった。燕王とはどの様な解釈でこの様な使者を送ってきたのか、興味深いものだ。それとも、こちらの言い方がよほど悪かったと言う事か」

 司馬懿の先制攻撃に、衛演はさっそく言葉に詰まる。

 そもそも不利な交渉であるのだから、話をまとめられなくても仕方がないところである。
 が、公孫淵の命運を握っている衛演にとってはそう気楽な事は言っていられない。

「え、燕王は、この戦自体が今後の魏の為にならないと仰せです。燕王は今後も魏と末永くよしみを結び、両国の繁栄を望んでおります。その証として、燕王の妻子を魏への人質として差し出す所存。どうか大将軍におかれましては、ご賢明な……」

「何を申すかと思えば、身の程を弁えよ! そもそもこの遼東は魏の国土を公孫淵は陛下に任地として与えられたもの。それを燕王などと僭称し、我が物顔にふるまう事が言語道断である!」

 基本的に嫌われ役や脅し役は牛金の役割なのだが、今回は同年代という事もあってか毌丘倹が衛演を怒鳴りつける。

「否。この遼東は代々公孫一族が収めてきた土地。遼東の民も曹家ではなく公孫家にこそ忠を尽くす者。燕王を討ったとして、魏には出費こそあれ得られるものは少ないはず。それであれば、燕王の自治を認め、両国不可侵を誓いあう方が両国にとって最良ではないでしょうか。大将軍、蜀をご覧ください。大将軍の政敵であった諸葛亮は力で南蛮を併呑するをよしとせず、双方にとって最良の選択を行っています。それに対し呉の孫権は南越に対し強硬姿勢を貫き、常に国土を脅かされています。それであれば、ここでの選択は一つ。それは和議の道をおいて他にありますまい」

 衛演は必死に司馬懿に向かって言う。

「ふむ、中々に弁の立つ者だ。使者として来ただけの事はある。聞かせるではないか」

 司馬懿は笑いながら頷く。

「それでは、和議を受け入れて下さいますか。燕王の忠誠は、自身の妻子を人質とする事で示されているのですから」

「いやいや、人質など必要無い」

 司馬懿は笑いながら言う。

「私は武帝より仕官を認められ、これまでに幾度かの戦場を経験し、現状では大将軍という過分な地位までいただいている。その私がこの歳にしてようやく得た戦の極意というものがある。弁の立つそなたに、それを教えよう」

「是非に」

「戦というものには五つの要点がある。戦えるのであれば戦い、戦えぬのであれば守り、守れぬのであれば逃げる。それすら出来ない場合には、降るか死ぬかだ。燕王を僭称する逆賊はそれすら分からず和議などと抜かすが、貴様らに残されているのは降るか死ぬかのどちらかであるのだから、人質など不要。分かったかな?」

 司馬懿はあくまでも笑顔で、衛演に向かって諭す様に言う。

「だ、大将軍、どうかご再考のほどを」

「先ほど、遼東の民は曹家にではなく公孫家にこそ忠誠を尽くすと申したが、それについても一つ提案しておこう。これより我が魏軍は全力をもって城を攻める。城が落ちる前に逃亡した者、降伏した者は一切の罪を認めず魏の民として迎え入れることを約束しよう。だが、城が落ちた後であれば、その時には一切の容赦はしない。燕王などと僭称する無能だけではなく、兵卒はもちろん幼子に至るまで全員に伝えておくように」

「使者のお帰りだ!」

 衛演が何か口を挟む前に、毌丘倹が声を上げて幕舎から衛演を引きずり出す。

「ではおのおの、城攻めの準備にかかられよ。なお、兵にも先ほどの事を城に向かって叫ばせよ。今なら逃亡も降伏も受け入れる。城が落ちてからは一切の容赦はしない、とな」

「大将軍、公孫淵自らが逃亡した場合にも、その罪には問わないのですか?」

 毌丘倹が司馬懿に尋ねる。

「公孫淵が逃亡したのであれば、それは城の陥落を意味する。もし逃亡する公孫淵を捕らえたのであれば、それは城の陥落後という事だ。何ら容赦の必要は無い」

 司馬懿はそう断じ、数日後には総攻撃が開始された。

 本来であれば、寄せ集めの烏合の衆による城攻め、しかも力押しなど論外の下策であり、それによる勝利など期待出来ないもののはずだった。

 そうだったからこそ公孫淵も籠城戦に入ったのだが、それは兵が十分に戦える状態が前提となっている。

 今でも魏軍は寄せ集めの烏合の衆である事に変わりはないが、十分な食事と休養によって鋭気を養った万全の状態であるのに対し、公孫淵軍の兵はかなり前に兵糧も尽き飢えに苦しみ、今であれば戦わずに逃げたり降伏すれば許してやると言われている。

 そんな中で命がけでも戦おうとする者は多くなく、またその意志があったとしても体がまともに動かないのでは、相手が烏合の衆とはいえ勝てるはずもない。

 堅牢を誇るはずだった襄平城は瞬く間に陥落し、城を捨てて逃亡しようとしていた公孫淵やその息子である公孫脩こうそんしゅう共々、城攻めに参加せずに伏兵として配置されていた陳泰の軍に捕らえられ、その首を刎ねられた。

 だが、公孫淵の乱はこれで万事解決とはいかなかった。
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