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捻くれ子爵の不本意な結婚
◆30
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ゴドウィンはご機嫌だった。前回、王立公園でヴァイオレットと話をしてから随分と時が経った気がしていた。彼女は当然シシリーについて調べたはずで、真実に辿り着いたなら、開口一番にゴドウィンを罵倒するはずだと思っていた。けれど、約束の時間に庭園に現れた彼女は、いつもと変わらず落ち着いていて、今、礼儀正しく彼の肘に手を置いて、彼の隣を歩いている。砕けた言葉遣いには尊敬の念など微塵も感じられなかったものの、かえってそれが、ゴドウィンに以前にも増した親密さを感じさせていた。
彼女は私を受け入れたのだ。ゴドウィンはそう思った。
今日のヴァイオレットは、アーデンの結婚式や王立公園で目にした彼女とは違っていた。ワイン色のタイトなテーラードジャケットとクリノリンを使わないシンプルなスカートに、襟元にフリルとレースをあしらった真っ白なブラウスを合わせていて、緩やかに巻いた髪を一房ずつ両肩に流していた。彼女は相変わらず美しく、溢れ出る活力で漲っていた。
ゴドウィンは彼女に惹かれていた。果実のように赤い唇から発せられる辛辣な物言いも、誰に対しても物怖じすることのない勝気な性格も、常に他人から媚を売られるゴドウィンにとっては、新鮮で魅惑的に感じられた。
彼はどうしても彼女に迷路を案内したかった。彼女にはきっぱりと拒否されてしまったが、彼の辞書に『諦め』の二文字は記されていなかった。
幼い頃、彼はこの庭でトリスタンとよく遊んだ。ここには幼かった彼の夢と、多くの幻想と思い出が詰まっていた。たとえヴァイオレットが嫌がったとしても、彼はどうしてもこの庭園を彼女と歩きたかった。だから彼は、整形式庭園を案内しながら別のルートを辿り、彼女をメイズに誘い込んだ。
「きみが招待を受けてくれてよかった。もう一度、こうして話をしたいと思っていたんだ。結局、今シーズンは最後まで、夜会できみに会うことができなかったからね」
ツゲの生垣に挟まれた煉瓦敷きの小道を進みながら、ゴドウィンはちらりと隣に目をやった。ヴァイオレットは訝しげに周囲を気にしながらも、しっかりとした足取りでゴドウィンの半歩後ろを歩いていた。背筋をぴんと伸ばして誇らしげに顎を上げたその姿には、貴族令嬢さながらの品格が備わっており、彼女の出自を感じさせない。ゴドウィンの視線に気が付いたのか、彼女はつんと顔を背けて、素っ気ない口振りで言った。
「以前にもお話ししたとおりよ。私はもう夜会には出ないと決めたの。父の夢はシャノンが叶えてくれたから、私が無理に背伸びをする必要は無くなったのよ。持参金も全部シャノンに持たせてしまったわ」
やはりそうだ。ゴドウィンは思った。彼女はもう結婚を望んでいない。身の丈に合わない花婿探しはもちろんのこと、同じ中産階級の男との結婚も視野には入れていないようだ。
ゴドウィンにとって、この状況は願ってもないことだった。彼は立場上、自由な結婚が望めない。けれども相手が既婚女性か、あるいは結婚を端から望まない女性であれば、自由恋愛が可能だからだ。
「馬車の旅はどうだった?」
ゴドウィンが話を変えると、ヴァイオレットは澄ました表情で彼を見て、答えた。
「普通よ。でもシャノンには堪えたみたい。今朝話をしたら寝不足だって言っていたわ」
彼女の口振りは相変わらず素っ気なかったものの、ゴドウィンは口角が吊り上がるのを止められなかった。彼女は妹の言葉を疑ってもいないようだが、その寝不足には、おそらく別の原因がある。
「アーデンも寝不足だと言っていた。妹さんの寝不足は馬車の旅のせいではなんじゃないかな」
「どういうこと?」
菫色の瞳を訝しげに細め、彼女は言った。彼女はもしや知らないのだろうか。結婚した男女が、夜、同じベッドで何をするのかを。
「つまり、ふたりは……」
ゴドウィンが言いかけた、そのときだった。そよ風がメイズを吹き抜けて、ヴァイオレットの艶やかな黒髪をふわりと揺らした。薔薇とフルーツのあまい香りに紅茶の香りが微かに混じる、彼女らしい魅惑的な香りがゴドウィンの鼻腔をくすぐった。この心地よい香りを胸いっぱいに吸い込んで、彼女に溺れてしまいたい。そんな不埒な考えが、ゴドウィンの脳裏をふと過ぎった。
二、三歩先に、生垣のアルコーブがあった。ゴドウィンは素早くヴァイオレットの手を引くと、彼女をアルコーブの中に囲い込み、まっすぐに伸びた彼女の背をツゲの茂みに押し付けた。なめらかなたまご型の彼女の顎に、指先でそっと触れる。彼女は大きく目を見開いて、ゴドウィンを見上げた。
菫色の瞳が木漏れ日に揺れていた。小鳥のさえずり以外に物音はなかった。ゴドウィンは人差し指で彼女の顎を掬うと、ゆっくりと身を屈め、鼻先が触れる距離で彼女の瞳を覗き込んだ。
「……教えてあげよう。結婚した男女が、ベッドの中で何をするのかを」
囁くと同時にヴァイオレットが後退る。けれど、ツゲの茂みに動きを妨げられて、彼女は低く唸りをあげた。ゴドウィンは己の衝動に突き動かされるままに、彼女の紅く色づいた唇を奪った。
吐息が混ざり合い、彼女特有のあまい匂いが鼻腔をくすぐる。ふっくらと柔らかい唇の感触に、ゴドウィンの身体はたちまち熱を上げた。もっと彼女に近付きたい。本能が、そう叫んでいた。両手で胸を押し返されて、ゴドウィンは微かに身を引いた。一瞬、唇が離れた隙に、彼女が抗議しようと口を開く。計算どおりだった。ゴドウィンはふたたび彼女の唇を奪うと、そのあわいから素早く舌を忍ばせた。
彼女の中は絹のようになめらかで、少しざらついた舌は触れると驚くほど熱かった。柔らかで、けれども弾力のあるその感触に、ゴドウィンは夢中で舌を絡ませた。
自分が今、どこで何をしているのか。そんなことはどうでも良かった。指先に触れた艶やかな黒髪を弄び、彼女の肩を、首筋を撫であげて、手のひらで後頭部を包み込む。腕の中で悶える彼女を、決して逃すまいと抱き締めた。
「レティ……」
呻くように囁きが漏れる。白く柔らかな首筋に唇を押し当てると、彼女は空気を求めて喉を喘がせた。襟にあしらわれた真っ白なレースとフリルが邪魔だった。何度も夜会で目を奪われた、幾度となくゴドウィンを悩ませた、あのなめらかな白い肌を、もう一度目にしたかった。
「ああ、レティ……」
耳たぶに、頬に、瞼に口付けて、ふたたび吐息を貪った。ほっそりとした指先が、琥珀色に輝くゴドウィンの髪を梳く。華奢な身体を抱く腕に、よりいっそう力を込めた。
どれほど過去を遡っても、これほどまでに求めた女性はいなかった。ヴァイオレットほどゴドウィンを惑わせるものは、この世に存在しなかった。ゴドウィンは狂おしいほど彼女のすべてを欲していた。
「レティ……きみが——」
ゴドウィンは顔をあげ、彼女の瞳をまっすぐみつめた。情欲に濡れた菫色の瞳がそこにある——はずだった。
けれど、現実は違っていた。ゴドウィンの目に映った彼女の瞳は氷のように凍て付いて、彼の良心を苛むように、まっすぐ彼を睨み付けていた。熟した果実のように紅く腫れた唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……満足した?」
なんということだ。ゴドウィンは低く唸った。彼は、いとも容易く崩壊した己の理性に驚愕した。動揺を隠すことすらままならなかった。
「いや……違うんだ、レティ」そう口にして、彼は咳払いした。「ミス・ヴァイオレット、これは違う。これは……」
ヴァイオレットは熟れた唇を人差し指で拭うと、両腕を胸の下で組んで、冷めた瞳でゴドウィンを見上げた。
「それで、シシリー子爵はどこにいるの? ここに招かれているのかしら?」
予想外の問いに、ゴドウィンはまたしても動揺を隠せなかった。その発想はなかった。その問いが投げ掛けられるとは、思いもしていなかった。
「叔母上に聞いていないのか……?」
「聞いても答えは得られないと思うわ。叔母は子爵以下の貴族には興味がなかったから。それに、シシリー子爵のことを訊いたら、私がまだ結婚を諦めていないと思われてしまうでしょう。それでは困るもの」
素っ気なくそう答えると、彼女は顔をうつむかせた。
完全に想定外だった。キスも抱擁も、ありとあらゆる親密な行為が、まったく許される段階ではなかったことに、ゴドウィンは今更ながらに気が付いた。
「では、きみはまだ気付いていないのか? 私はてっきり……」
ゴドウィンの的を射ない言葉に苛立ったのか、彼女は露骨に眉を顰めた。
「何の話?」
「ミス・メイウッド、シシリーと言うのは——」
柔らかな手のひらが、突然ゴドウィンの口を塞いだ。驚いて彼女を見ると、彼女は唇の前で人差し指を立て、首を横に振っていた。ややあって、人の話し声が近付いてきた。
ゴドウィンは一歩前に進み出て、アルコーブに身を隠した。狭い空間で身体が密着したけれど、この状態でみつかるほうが不味いことは重々承知のようで、彼女は特に文句を言わなかった。
人の声と足音は生垣のすぐ向こう側まで近付いてきたものの、しばらくじっとしていると、そのまま遠ざかっていった。人の気配がすっかり消えると、ゴドウィンはほっと胸を撫で下ろした。
「すまなかった」アルコーブから外に出て、ゴドウィンは言った。「あまり長く姿を消していては要らない憶測を呼んでしまう。そろそろ皆のところに戻ろう」
ヴァイオレットはドレスに付いたツゲの葉を手で払っていたものの、大真面目なゴドウィンの顔を見上げると、突然声をあげて笑い出した。
「勝手にあんなキスしておいてその台詞? 賭けてもいいわ。あなた絶対可笑しいわよ」
ころころと可愛らしい、鈴の音のような笑い声が小道に響く。彼女の笑い声は耳に心地良く、ゴドウィンの胸を酷く締め付けた。引き攣った笑みを顔に貼り付けて、彼は苦々しくつぶやいた。
「ああ、私もそう思う」
——きみといると、おかしくなるんだ。
彼女は私を受け入れたのだ。ゴドウィンはそう思った。
今日のヴァイオレットは、アーデンの結婚式や王立公園で目にした彼女とは違っていた。ワイン色のタイトなテーラードジャケットとクリノリンを使わないシンプルなスカートに、襟元にフリルとレースをあしらった真っ白なブラウスを合わせていて、緩やかに巻いた髪を一房ずつ両肩に流していた。彼女は相変わらず美しく、溢れ出る活力で漲っていた。
ゴドウィンは彼女に惹かれていた。果実のように赤い唇から発せられる辛辣な物言いも、誰に対しても物怖じすることのない勝気な性格も、常に他人から媚を売られるゴドウィンにとっては、新鮮で魅惑的に感じられた。
彼はどうしても彼女に迷路を案内したかった。彼女にはきっぱりと拒否されてしまったが、彼の辞書に『諦め』の二文字は記されていなかった。
幼い頃、彼はこの庭でトリスタンとよく遊んだ。ここには幼かった彼の夢と、多くの幻想と思い出が詰まっていた。たとえヴァイオレットが嫌がったとしても、彼はどうしてもこの庭園を彼女と歩きたかった。だから彼は、整形式庭園を案内しながら別のルートを辿り、彼女をメイズに誘い込んだ。
「きみが招待を受けてくれてよかった。もう一度、こうして話をしたいと思っていたんだ。結局、今シーズンは最後まで、夜会できみに会うことができなかったからね」
ツゲの生垣に挟まれた煉瓦敷きの小道を進みながら、ゴドウィンはちらりと隣に目をやった。ヴァイオレットは訝しげに周囲を気にしながらも、しっかりとした足取りでゴドウィンの半歩後ろを歩いていた。背筋をぴんと伸ばして誇らしげに顎を上げたその姿には、貴族令嬢さながらの品格が備わっており、彼女の出自を感じさせない。ゴドウィンの視線に気が付いたのか、彼女はつんと顔を背けて、素っ気ない口振りで言った。
「以前にもお話ししたとおりよ。私はもう夜会には出ないと決めたの。父の夢はシャノンが叶えてくれたから、私が無理に背伸びをする必要は無くなったのよ。持参金も全部シャノンに持たせてしまったわ」
やはりそうだ。ゴドウィンは思った。彼女はもう結婚を望んでいない。身の丈に合わない花婿探しはもちろんのこと、同じ中産階級の男との結婚も視野には入れていないようだ。
ゴドウィンにとって、この状況は願ってもないことだった。彼は立場上、自由な結婚が望めない。けれども相手が既婚女性か、あるいは結婚を端から望まない女性であれば、自由恋愛が可能だからだ。
「馬車の旅はどうだった?」
ゴドウィンが話を変えると、ヴァイオレットは澄ました表情で彼を見て、答えた。
「普通よ。でもシャノンには堪えたみたい。今朝話をしたら寝不足だって言っていたわ」
彼女の口振りは相変わらず素っ気なかったものの、ゴドウィンは口角が吊り上がるのを止められなかった。彼女は妹の言葉を疑ってもいないようだが、その寝不足には、おそらく別の原因がある。
「アーデンも寝不足だと言っていた。妹さんの寝不足は馬車の旅のせいではなんじゃないかな」
「どういうこと?」
菫色の瞳を訝しげに細め、彼女は言った。彼女はもしや知らないのだろうか。結婚した男女が、夜、同じベッドで何をするのかを。
「つまり、ふたりは……」
ゴドウィンが言いかけた、そのときだった。そよ風がメイズを吹き抜けて、ヴァイオレットの艶やかな黒髪をふわりと揺らした。薔薇とフルーツのあまい香りに紅茶の香りが微かに混じる、彼女らしい魅惑的な香りがゴドウィンの鼻腔をくすぐった。この心地よい香りを胸いっぱいに吸い込んで、彼女に溺れてしまいたい。そんな不埒な考えが、ゴドウィンの脳裏をふと過ぎった。
二、三歩先に、生垣のアルコーブがあった。ゴドウィンは素早くヴァイオレットの手を引くと、彼女をアルコーブの中に囲い込み、まっすぐに伸びた彼女の背をツゲの茂みに押し付けた。なめらかなたまご型の彼女の顎に、指先でそっと触れる。彼女は大きく目を見開いて、ゴドウィンを見上げた。
菫色の瞳が木漏れ日に揺れていた。小鳥のさえずり以外に物音はなかった。ゴドウィンは人差し指で彼女の顎を掬うと、ゆっくりと身を屈め、鼻先が触れる距離で彼女の瞳を覗き込んだ。
「……教えてあげよう。結婚した男女が、ベッドの中で何をするのかを」
囁くと同時にヴァイオレットが後退る。けれど、ツゲの茂みに動きを妨げられて、彼女は低く唸りをあげた。ゴドウィンは己の衝動に突き動かされるままに、彼女の紅く色づいた唇を奪った。
吐息が混ざり合い、彼女特有のあまい匂いが鼻腔をくすぐる。ふっくらと柔らかい唇の感触に、ゴドウィンの身体はたちまち熱を上げた。もっと彼女に近付きたい。本能が、そう叫んでいた。両手で胸を押し返されて、ゴドウィンは微かに身を引いた。一瞬、唇が離れた隙に、彼女が抗議しようと口を開く。計算どおりだった。ゴドウィンはふたたび彼女の唇を奪うと、そのあわいから素早く舌を忍ばせた。
彼女の中は絹のようになめらかで、少しざらついた舌は触れると驚くほど熱かった。柔らかで、けれども弾力のあるその感触に、ゴドウィンは夢中で舌を絡ませた。
自分が今、どこで何をしているのか。そんなことはどうでも良かった。指先に触れた艶やかな黒髪を弄び、彼女の肩を、首筋を撫であげて、手のひらで後頭部を包み込む。腕の中で悶える彼女を、決して逃すまいと抱き締めた。
「レティ……」
呻くように囁きが漏れる。白く柔らかな首筋に唇を押し当てると、彼女は空気を求めて喉を喘がせた。襟にあしらわれた真っ白なレースとフリルが邪魔だった。何度も夜会で目を奪われた、幾度となくゴドウィンを悩ませた、あのなめらかな白い肌を、もう一度目にしたかった。
「ああ、レティ……」
耳たぶに、頬に、瞼に口付けて、ふたたび吐息を貪った。ほっそりとした指先が、琥珀色に輝くゴドウィンの髪を梳く。華奢な身体を抱く腕に、よりいっそう力を込めた。
どれほど過去を遡っても、これほどまでに求めた女性はいなかった。ヴァイオレットほどゴドウィンを惑わせるものは、この世に存在しなかった。ゴドウィンは狂おしいほど彼女のすべてを欲していた。
「レティ……きみが——」
ゴドウィンは顔をあげ、彼女の瞳をまっすぐみつめた。情欲に濡れた菫色の瞳がそこにある——はずだった。
けれど、現実は違っていた。ゴドウィンの目に映った彼女の瞳は氷のように凍て付いて、彼の良心を苛むように、まっすぐ彼を睨み付けていた。熟した果実のように紅く腫れた唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……満足した?」
なんということだ。ゴドウィンは低く唸った。彼は、いとも容易く崩壊した己の理性に驚愕した。動揺を隠すことすらままならなかった。
「いや……違うんだ、レティ」そう口にして、彼は咳払いした。「ミス・ヴァイオレット、これは違う。これは……」
ヴァイオレットは熟れた唇を人差し指で拭うと、両腕を胸の下で組んで、冷めた瞳でゴドウィンを見上げた。
「それで、シシリー子爵はどこにいるの? ここに招かれているのかしら?」
予想外の問いに、ゴドウィンはまたしても動揺を隠せなかった。その発想はなかった。その問いが投げ掛けられるとは、思いもしていなかった。
「叔母上に聞いていないのか……?」
「聞いても答えは得られないと思うわ。叔母は子爵以下の貴族には興味がなかったから。それに、シシリー子爵のことを訊いたら、私がまだ結婚を諦めていないと思われてしまうでしょう。それでは困るもの」
素っ気なくそう答えると、彼女は顔をうつむかせた。
完全に想定外だった。キスも抱擁も、ありとあらゆる親密な行為が、まったく許される段階ではなかったことに、ゴドウィンは今更ながらに気が付いた。
「では、きみはまだ気付いていないのか? 私はてっきり……」
ゴドウィンの的を射ない言葉に苛立ったのか、彼女は露骨に眉を顰めた。
「何の話?」
「ミス・メイウッド、シシリーと言うのは——」
柔らかな手のひらが、突然ゴドウィンの口を塞いだ。驚いて彼女を見ると、彼女は唇の前で人差し指を立て、首を横に振っていた。ややあって、人の話し声が近付いてきた。
ゴドウィンは一歩前に進み出て、アルコーブに身を隠した。狭い空間で身体が密着したけれど、この状態でみつかるほうが不味いことは重々承知のようで、彼女は特に文句を言わなかった。
人の声と足音は生垣のすぐ向こう側まで近付いてきたものの、しばらくじっとしていると、そのまま遠ざかっていった。人の気配がすっかり消えると、ゴドウィンはほっと胸を撫で下ろした。
「すまなかった」アルコーブから外に出て、ゴドウィンは言った。「あまり長く姿を消していては要らない憶測を呼んでしまう。そろそろ皆のところに戻ろう」
ヴァイオレットはドレスに付いたツゲの葉を手で払っていたものの、大真面目なゴドウィンの顔を見上げると、突然声をあげて笑い出した。
「勝手にあんなキスしておいてその台詞? 賭けてもいいわ。あなた絶対可笑しいわよ」
ころころと可愛らしい、鈴の音のような笑い声が小道に響く。彼女の笑い声は耳に心地良く、ゴドウィンの胸を酷く締め付けた。引き攣った笑みを顔に貼り付けて、彼は苦々しくつぶやいた。
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