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捻くれ子爵の不本意な結婚

◎21

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「それで、そのシシリー子爵ってどんな方なの?」
 シャノンが訊ねると、レティは軽く肩を竦めて困ったような笑顔で言った。
「わからないのよ。あれっきり夜会には出ていないから情報収集なんてできないし、伯母様に聞いたら余計な憶測をされるだけでしょう?」
「そうね。それに伯母様は伯爵以上の爵位にしか興味がなかったから、訊いても何もわからなかったかもしれないわ」
 シャノンが言うと、レティも「そうね」と笑ってうなずいた。
 伯母はレティの結婚相手は伯爵以上と決めていたらしく、子爵以下の貴族に関してはあまり詳しくないようだった。社交界にデビューした当初は高望みが過ぎるのではないかと思っていたけれど、実際にレティの崇拝者の中には公爵家の血筋の者もいたし、侯爵や伯爵の爵位を持つ者もいた。何より、あのラーズクリフ伯爵までもが熱心に手紙を寄越していた。
 父が用意した持参金のすべてをシャノンの結婚に費やしたことで、社交界から身を引くことを決めてしまったようだけれど、持参金なんかなくたって、レティなら華やかな貴族の一員に加わることができたのではないかとシャノンは思っていた。だから、レティからシシリー子爵との約束の話を聞いたとき、シャノンは素直に喜んだ。
 素性の知れない相手ではあるけれど、レティに見せてもらった手紙の筆跡は堂々と力強く、身分卑しからぬといった印象を受けるものだった。待ち合わせの場所だって人目のある昼間の公園だし、レティは従僕のダンも連れている。心配がないとは言い切れないが、それほど危険はないはずだ。何より、久しぶりにお粧ししたレティを見ることができて、シャノンはとても嬉しかった。それもこれも、シシリー子爵がレティを薔薇園に誘ってくれたおかげだ。

 ——レティが私を頼ってくれてよかった。
 シャノンはとても救われた思いで、ちらりと隣のレティを見た。今日のレティはラベンダー色の絹タフタのツーピースドレスを着ていた。パゴダ袖のジャケットにはサテンのリボン飾りが付いていて、きゅっと絞られた腰の後ろに襞飾りが寄せてある。ふんわりと膨らんだスカートの裾には繊細なレースの装飾が施されていた。質素なドレスを着ていてもレティはとても綺麗だけれど、華やかなドレスで着飾った彼女は生き生きとした魅力にあふれ、周りの景色までをも輝かせていた。
 数日前、カワードテラスにレティからの手紙が届けられたとき、シャノンは一人で部屋に篭り、すっかり塞ぎ込んでいた。初夜をふたりで過ごしてから、アーデンが一切シャノンの寝室に立ち寄っていないだけでなく、彼は日中もほとんど家を空けていて、シャノンとは顔を合わせようともしていなかったからだ。
 初夜のアリバイ工作で、彼がシャノンとの約束を厳守するつもりでいることは理解できた。急激な心の変化に戸惑っていたこともあって、シャノンは内心ほっとしていた。けれど、夫婦の営みを求めない、その代わりに、別の女性を求めるなんて。
 悔しさに涙が滲んで、シャノンはきゅっと唇を噛んだ。
 レティが言っていたとおりだ。彼が約束を守っている限り、シャノンは彼の行動に干渉することができない。彼が望んでくれるなら、シャノンは身体を許すつもりでいたのに。あのときだって、嫌だなんて思っていないと伝えようとしたのに。彼はシャノンに何の相談もなく、毎晩のように美しい愛人のところへ出掛けているのだ。
 シャノンが一言彼に望めば、愛人との関係も終わらせてくれるかもしれない。けれど、結婚の誓いを破って他の女性を抱いたその腕に、今更抱かれて素直に喜べるだろうか。

「シャノン、どうかした?」
 澄んだ菫色の瞳に覗き込まれて、シャノンははっと顔をあげた。慌ててあたりを見回すと、馬車はいつかアーデンと訪れた公園の脇道に停められていた。常緑樹の青々とした葉が生い茂り、歩道に影を落としている。小鳥の囀りがあたりに響き、時折り心地よい風が木々の合間を吹き抜けていた。
「良いお天気だわ」
 シャノンはにっこり笑い、小首を傾げるレティを置いて馬車からぴょんと飛び降りた。
「どんな男性が現れるか楽しみね」
 くるりと振り返ってレティに言うと、ドレスと揃いの白い日傘を差して、石畳の歩道を歩き出した。
 クリノリンを使わないデイドレスはお洒落で軽くて歩きやすくて、こんな晴れの日の散歩には持ってこいだ。初めてふたりで出掛けた日にアーデンが買ってくれたこのドレスは、今でもシャノンの一番のお気に入りだった。このドレスを着ていると、シャノンでも一端の貴婦人に見える。レティと並んで歩いていても、侍女だと思われたりしない。
 レティとこんなふうに散歩をしたい。ずっとそう思っていたことに、シャノンは今更気が付いた。似てないから、美人のレティと比べられるのが嫌だからと好きでもない服を着て、自ら地味を装っていた。なんて馬鹿なことをしていたのだろう。レティは一度だってシャノンを見下したりしなかったのに、周囲の評価を真に受けて勝手に卑屈になっていた。
 アーデンのおかげだ、とシャノンは思った。彼が褒めてくれたから——レティと比べたりせずに、ひとりの女性としてシャノンのことを見てくれたから、こうして自信を持つことができた。堂々とお洒落をして、レティと並んで歩くことができるようになったのだ。
 皮肉な言葉を口にしていても、アーデンはいつもシャノンに優しかった。いつのまにかアーデンは、シャノンにとってかけがえのないひとになっていた。

 しばらく散歩道を歩いていくと、芳しい薔薇の香りが漂ってきた。紅い花を纏った巨大な緑の檻が、生垣の向こうに佇んでいるのが見える。
「斬新なデザインね」
 にこやかにレティが笑う。ふたりは顔を見合わせて、薔薇園へと続く小道を進んだ。
 蔓薔薇のアーチをくぐり、緑のトンネルを抜けた先で、シャノンはぴたりと足を止めた。開けた広場の片隅に白いベンチが置かれていて、トップハットを被った紳士が座っているのが見えた。
 シャノンはほっと息を吐くと、ふたたびレティを振り返った。
「しばらく外を歩いてくるわ」
「ひとりで大丈夫? よかったら彼を連れて行って」
 後方に控える従僕のダンに、レティがちらりと目を向ける。シャノンは笑って首を振った。
「ありがとう。でも大丈夫、ひとりでも散歩くらいできるわ」
 その場に控えておくようダンに言い付けて、シャノンはひとりで薔薇園を出た。そうしてぼんやり通りを眺めながら、公園を囲う鉄柵に沿って歩いた。やがて緑の屋根が途切れると、まばゆい陽の光があたり一面にあふれだし、緑の芝生に覆われた緩やかな斜面が目の前に広がった。
 シャノンは目を閉じて、緑あふれる公園の爽やかな空気を吸い込んだ。陽の光に目を細め、美しく刈り込まれた緑の絨毯を眺めていると、遠くから白い何かが一目散に向かってくるのが見えた。大型の犬レトリバーだ。シャノンがぼんやり立ち尽くしていると、毛むくじゃらで大きなその犬は、躊躇うことなくシャノンの白いドレスにじゃれついてきた。
「驚いたわ。あなたどこからきたの? ご主人様は?」
 シャノンはその場にしゃがみ込み、擦り寄せられた犬の頭を優しく撫でた。艶やかな長毛は隅々まで手入れが行き届いているようで、身体のどこを触っても指通りが良くなめらかだった。つぶらな瞳は穏やかで、人懐っこく愛らしい。
 シャノンがご機嫌で犬を撫でていると、芝生を踏み締める誰かの足音が近付いてきた。シャノンは顔をあげ、犬の飼い主と思しきその人物を仰ぎ見た。
 少し乱れた暗褐色の髪が風に揺れる。濃い色の睫毛に縁取られた瞼から覗く珈琲色の瞳がシャノンの姿を映していた。
「トリスタン……」
 シャノンがつぶやくと、彼は目を細め、穏やかに微笑んだ。
「やあ、奇遇だな」
 どこか嬉しそうにそう言って、彼はシャノンの隣にやってきた。くつろげたシャツの胸元から、ほんのりと汗ばんだ肌が覗いている。慌てて顔をうつむかせて、シャノンは赤らんだ頬を隠した。
「……外の空気が吸いたくて、散歩にきたの」
「付き添いもなしにか? 不用心だな」
 アーデンが眉を顰める。シャノンは小首を傾げ、黙って犬の頭を撫でた。アーデンもそれ以上何も言わなかった。彼はその場に留まって、シャノンと犬の様子を眺めているようだった。いつまでたっても彼は無言で、どこにも行こうとしなかったので、シャノンは帽子の鍔の陰からこっそり彼を覗き見た。
 煮詰めた珈琲色の瞳が、シャノンの視線を真っ直ぐ捉える。彼特有のざらついた低音が、シャノンの耳を優しく掠めた。
「ぼくの犬だ」
 シャノンは驚いた。二、三度目を瞬かせて、それから犬とアーデンのあいだで何度か視線を行き来させた。
「まあ、そうなの? 犬を飼っていただなんて知らなかったわ」
「普段はぼくの書斎にいるし、吠えないように躾けてあるからね。気が付かなくても不思議じゃない」
 アーデンは穏やかに笑ってそう言うと、ちらりと芝生に視線を投げた。
「ボールを取りに行かせたのに」
 肩を竦めてぼやいたあと、近くの芝生に転がっていた皮製のボールを拾いあげた。
「きみの匂いを覚えていたんだな。ぼくより先にきみの居場所を嗅ぎ付けるなんて、好色な犬だよ、こいつは」
 アーデンの言い草がなんだかおかしくて、シャノンはくすくす笑いだした。彼は口の端を吊り上げて、それからシャノンのそばにやってくると、身を屈ませて犬の耳の付け根を撫でた。犬は気持ちよさそうに目を細め、喉を鳴らしてアーデンの手に擦り寄っている。シャノンは芝生に腰を下ろすと、両脚を抱え、膝に頬を預けて、改めてアーデンを仰ぎ見た。
「残念ね。さっきまでレティと一緒だったのよ」
「へえ」
 彼がさして興味がない様子でうなずいたので、シャノンは少し意地悪な気分になった。
「会いたかったでしょう?」
「きみの姉さんに?」目をまるくしてそう言うと、彼は大袈裟に笑って言った。「よしてくれ。こんな明るいうちから刺されるなんて、まっぴらごめんだ」
 そうね、レティでなくとも、あなたには優しくて綺麗な愛人がいるものね。口にはできなかったけれど、その代わりに、シャノンはぷいとそっぽを向いた。
 シャノンの機嫌を知ってか知らずか、アーデンは黙って隣に腰を下ろすと、犬にボールを投げ与えた。皮のボールは噛み心地が良いようで、犬は嬉しそうにボールを噛んで遊びだした。
 しばらく経って、アーデンが口を開いた。
「ひとつ訊いてもいいかな」
「ええ、もちろん。何かしら」
「きみの姉さんとラーズクリフのことなんだけど、何か知ってることがあったら教えて欲しいんだ」
「レティとラーズクリフ伯爵? 何も聞いていないわ。たぶん、式のときに顔を合わせたきりではないかしら」
「そうか、ありがとう」
 アーデンが穏やかに笑ったので、シャノンはにっこりした。ふたりはしばらくのあいだ、そのまま並んで座っていた。

 太陽がわずかに陰りを見せはじめた頃、アーデンが不意に立ち上がった。
「さてと、ぼくはそろそろ帰ろうかな」
 誰にともなくそう言って、彼はシャノンを振り返った。
「きみはどうする?」
「……え?」
「一緒に散歩でもどうかと思ったけど、きみは馬車で来たんだよね」
「ええ、そうよ。お誘いは嬉しいけど、を待たなくてはならないし、もう少しここでのんびりしていくわ」
 シャノンが笑ってそう答えると、アーデンはさりげなく周囲の様子を窺って、躊躇いがちにシャノンに告げた。
「きみにとやかく言う権利なんて僕にはないけど、火遊びはほどほどにしてくれよ」
 含みのある口調でそう言うと、彼は犬の口から皮のボールを取り上げて、おおきく振りかぶってそれを投げた。鮮やかな弧を描き、ボールが彼方へと飛んでいく。走り出した犬の後を追って、アーデンは風のように走り去った。

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