滅びゆく竜の物語

柴咲もも

文字の大きさ
上 下
81 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌

竜の鱗①

しおりを挟む
 自由都市アルティジエに夜の帳が下りる。
 夜空に瞬く星のように街の明かりが灯るなか、夕食時を終えた『羊の安らぎ亭』は、昨夜の慌ただしさとは一変した静かなときを迎えていた。

 夕刻に廃坑を包囲していたアルティジエ自警団は、その後、レティシアとマリアンルージュを襲った数名のレジオルディネの憲兵隊員、及びそれに協力したと思わしき同隊員を、街の留置施設へと連行した。
 結果的にレジオルド憲兵隊の全隊員が連行されたことで、『羊の安らぎ亭』の客室のほぼ全てが空き部屋になってしまった。

 廃坑から戻ったゼノは、女将のヴァネッサの指示のもと、使用済みの客室の後片付けを任されていた。
 右手にモップ、左手に木製のバケツを提げ、客室棟一階の廊下を奥へと進む。一階の清掃は大方片付き、あとは最奥の一室が残るのみだ。
 廊下の突き当たりに位置する部屋の前で立ち止まると、ゼノはふと天井を見上げた。

 丁度この真上に位置する部屋で、今、マリアンルージュが休んでいる。引き裂かれた衣服や泥に塗れた身体から状況を察したヴァネッサが気を利かせ、空元気を出してみせるマリアンルージュに、今夜はゆっくり休むようにと言いつけたからだ。
 廃坑から戻った後も、マリアンルージュはリュックやレティシアに対し気丈に振舞うばかりだった。ヴァネッサが止めなければ、今も一緒に客室を片付けて回っていた事だろう。

 涙で頬を濡らした、怯えた瞳のマリアンルージュの顔を思い出し、ゼノは奥歯を噛み締めた。

 廃坑の暗がりのなかで、マリアンルージュがあの男に何をされたのか。
 その全てを聞き出すことが、ゼノにはできなかった。その件については、ゼノが触れてはならないような気がしたからだ。
 あの男に鱗を見られ、触れられた。それだけでも耐え難い屈辱だったに違いない。それにも関わらず、追い討ちをかけるように、ゼノも彼女の鱗を見てしまったのだ。
 不本意とはいえ、傷口に塩を塗ったようなものだ。

 己の首の後ろ側、うなじの下にあたるその部位に、ゼノは無意識に指で触れた。



***


 客室の清掃を終え、厨房に戻ったゼノを迎え入れたのは、いつもより小洒落たティーポットを手にしたヴァネッサだった。
 揃いのカップとソーサーを載せたトレイにポットを置き、ゼノに差し出して、ヴァネッサは笑顔で言った。

「おつかれさん。今夜はもう上がっていいよ」
「どうも」

 軽く頭を下げてトレイを受け取ったゼノの鼻腔を、ポットから漂う嗅ぎ慣れない匂いがくすぐった。優しくて甘い香りだ。
 一日の仕事の終わりに、ヴァネッサは毎晩温かいお湯を沸かしてくれていた。けれど、今夜のポットの中身はいつものお湯ではない。それなりに拘ったハーブが使われているようだった。

「珍しいですね」

 軽く蓋を持ちあげて、ポットの中を覗きながらゼノが言うと、ヴァネッサは小さく息を吐いた。

「あんたにじゃないよ。……ほら、あんなことがあったあとだろう? あの子には元気になって欲しいんだ」

 察しろと言いたげに、ヴァネッサがゼノを見上げる。

「あの子って……俺に、これを運べってことですか?」
「何おどろいてんだい。当然だろう?」

 ヴァネッサの言う『あの子』がマリアンルージュのことだと瞬時に理解し、ゼノは慌てて首を振った。
 行動を共にする仲間とはいえ、ゼノは歴とした男だ。あのようなことがあった後なのだから、廃坑でマリアンルージュを襲った連中と同類に思われていてもおかしくない。
 こういう場合は同性に世話を任せたほうが無難なはずだ。
 
「それならレティシアのほうが適任でしょう。同性ですし、きっとマリアも安心できます」
「ひでぇなぁ。レティだって被害者なんだぜ?」

 唐突に背後から声をかけられ、ゼノが慌てて後方を振り返ると、厨房の入り口で呆れたように肩を竦めるリュックと目が合った。

「マリアはレティの前で弱音を吐けないだろ。要らない気を遣って辛い気持ちを抱え込んで、余計に疲れるだけだ」

 リュックがゼノに歩み寄り、ぽんと肩を叩く。ゼノが恐る恐るヴァネッサに目を向けると、同意を促すように大きく頷かれた。そしてとどめを刺すように、その一言が告げられた。

「あんなことがあったんだ。独りじゃ心細いってもんだよ」


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

美しい姉と痩せこけた妹

サイコちゃん
ファンタジー
若き公爵は虐待を受けた姉妹を引き取ることにした。やがて訪れたのは美しい姉と痩せこけた妹だった。姉が夢中でケーキを食べる中、妹はそれがケーキだと分からない。姉がドレスのプレゼントに喜ぶ中、妹はそれがドレスだと分からない。公爵はあまりに差のある姉妹に疑念を抱いた――

処理中です...