滅びゆく竜の物語

柴咲もも

文字の大きさ
上 下
68 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌

秘密③

しおりを挟む
 カーテンに遮られたアーチ状の開口部を潜り抜けると、そこは殺風景な広間になっていた。
 床には滑らかな平たい石が敷き詰められており、部屋の中央には腰掛けるのに丁度良い高さの窪みがある。部屋中を満たす真っ白な湯気から、木枠で囲われたその窪みに張られているのがお湯だとわかった。

「お風呂って言うんだって」

 後方から声を掛けられて、レティシアは驚いて振り返った。隙を見せるわけにはいかないと思っていた矢先だというのに、初めて目にする光景にすっかり我を忘れていた。
 警戒心を剥き出しにしたレティシアと目が合うと、朱紅い髪の女性――マリアンルージュはふわりと柔らかな笑みを見せた。予想外の反応に面食らったレティシアを気に留めるでもなく、捻り上げた長い髪を器用に後頭部で纏めると、彼女はレティシアを手招いた。
 驚くほど無防備で隙だらけのその態度に、嫌でも気が緩んでしまう。
 躊躇いがちに、レティシアはマリアンルージュの傍へ歩み寄った。

「さ、服を脱いで。レティは女の子なんだから、綺麗にしておかなきゃ」

 マリアンルージュに促され、レティシアは自身の身体へ視線を落とした。
 昨夜マリアンルージュに貸し与えられたブラウスは、まだ成長しきっていないその身体には大き過ぎて、まるで丈の短いワンピースのようだ。
 レティシアが躊躇いがちにブラウスを脱いで手渡すと、マリアンルージュはそのブラウスをカーテンの向こうに放り込み、花柄の小瓶を手に戻ってきた。
 木製の小椅子に勧められるままに腰掛けると、マリアンルージュは窪みからたらいでお湯を汲み取り、レティシアの背中を丁寧に流した。柔らかいスポンジで背中をこすられるのがなんともくすぐったくて、レティシアの口から思わず笑い声が溢れる。

「恥ずかしい話、わたしの故郷にはお風呂という習慣がなくてね。どんな季節でも川や湖で水浴びをするのが普通だったから、だから数日前、初めてこの部屋に通されたとき、本当にびっくりしたんだ」

 レティシアが笑ったことに気を良くしたのか、マリアンルージュが楽しそうに言った。
 髪と身体を流し終えたレティシアは、マリアンルージュに言われるがままに窪みに入り、肩までお湯に浸かった。疲れきった身体が芯まで温まるようで、とても気分が良い。
 ほっと息を吐き、レティシアはぼんやりと天井を見上げた。
 程なくして、マリアンルージュが先程の小瓶を持ってやってきた。小首を傾げるレティシアの目の前で、
マリアンルージュは小瓶の蓋を開けてみせた。ほのかに甘い花の香りが、ふわりと浴室に広がっていく。

「これ、香油って言うんだって。良い香りがするし身体の疲れが取れるらしくて、おばさんが勧めてくれたんだ」

 興味津々に小瓶をみつめるレティシアにそう説明すると、マリアンルージュはレティシアの手を取り、手のひらに香油を少量垂らした。
 香油から漂う甘い香りを、レティシアは胸いっぱいに吸い込んだ。

「髪でも身体でも、好きなところに塗って良いんだって。たくさん塗りすぎるとべとべとになるから気をつけてね」

 マリアンルージュの言葉に大きく頷くと、レティシアは指先で香油を掬い取り、馴染ませるように丁寧に素肌に塗り込んだ。マリアンルージュに対して先程まで警戒心を抱いていたことを、レティシアはすっかり忘れていた。
 年相応にはしゃぐレティシアの様子を、マリアンルージュは頬杖をついて嬉しそうに眺めていた。瞳を輝かせて顔を上げたレティシアと目が合うと、無邪気に笑うレティシアに、ゆったりとした優しい口調で語りかけた。

「ねぇ、レティ。リュックが言うように、きみは村を襲った犯人が何者なのか、知ってるんだよね? きっと犯人は盗賊なんかじゃなくて、村を訪れた旅人か何かで、だからきみはすべての人間が信用できない。そうなんだよね?」

 マリアンルージュの話を聞いて、レティシアは動きを止めた。思い出したくない記憶が脳裏にちらついて、胸の奥がざわざわと騒ぎ始めた。マリアンルージュから顔を背け、耳を塞ぐと、レティシアは縮こまるように湯船に身を沈めた。
 明らかに様子が変わったレティシアに、マリアンルージュは親身に話し続けた。

「わたしはきみとリュックを助けたい。でも、一体何からきみたちを守れば良いのかわからないんだ。今すぐにとは言わないから。だから、そのときがきたら、犯人が何者なのか、わたしに教えて欲しいんだ」

 レティシアをみつめ、懇願するようにマリアンルージュは告げた。真剣な眼差しが背に刺さる。心が揺さぶられるようで、レティシアは無意識に小さく頷いていた。
 僅かな間をおいて、冷たい指先が肩に触れた。びくりと身体を震わせて、レティシアは恐る恐る振り返った。
 真っ直ぐにレティシアをみつめるマリアンルージュの視線と、レティシアの視線が交わった。

(もしも話してくれる気になったら、わたしの身体に触れて、わたしの目を見て。そうすればきっと、きみのこえが聞こえるから……)

 不思議な感覚だった。
 その声は、レティシアの精神こころに直接届いたようだった。
 驚いて目を見張るレティシアに再び優しく微笑んでみせると、マリアンルージュはゆっくりと立ち上がり、声を潜めて囁いた。

「わたしの秘密を教えてあげる。だから、わたしとゼノのことを信用してほしい」

 ――秘密?

 意外な言葉にレティシアは首を傾げた。
 マリアンルージュは小さく頷くと、ナイトドレスの胸元の紐を指先でするりと解いた。支えるものを無くしたドレスが、引き寄せられるように床の上にはらりと舞い落ちる。
 曝け出された裸体を前に、レティシアは思わず目を背けた。
 例え同性だとしても、家族でもない大人の女性の裸を見るのはとても恥ずかしいような、後ろめたいような気がした。身体を洗いにきたのだから、何もおかしいことではないはずなのに。

「レティ、ちゃんと見て」

 マリアンルージュに促され、レティシアは躊躇いがちに顔を上げた。
 かたちの良い足先と、程よい筋肉のついたふくらはぎが目に映る。太腿から腰へと至る柔らかな曲線を辿り、引き締まった腹部のその先に視線を向けたレティシアは、息を呑み、両の眼を見開いた。
 マリアンルージュの左側の胸の下。その一部に、鮮血を思わせる朱紅い色の鱗が、びっしりと張り付いていた。

「わたしは人の姿をしているけど、本当は人間じゃないんだ。この鱗がその証拠。……人の姿を真似ることはできても、この鱗だけは隠すことができない。この鱗は言うなればわたしの急所で、唯一の弱点でもあるんだよ」

 呆然とするレティシアに囁くようにそう告げて、マリアンルージュは愛おしむように、その朱紅い鱗を指先でそっと撫でた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。

友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」 貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。 「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」 耳を疑いそう聞き返すも、 「君も、その方が良いのだろう?」 苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。 全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。 絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。 だったのですが。

処理中です...