46 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌
狩り③
しおりを挟む
流石に里の男衆に紛れて狩りに出ていただけはある。
足場の悪さに四苦八苦しながら後に続くゼノとは違い、マリアンルージュは軽々と道の先を進む。急な坂をしばらく登り、ふたりは微かに耳に届く川のせせらぎから現在地と川までの距離を確認した。
大小の石や地表を這う木の根で歩き難かった獣道はいつの間にかなだらかになり、周囲の茂みは枝葉が圧し折られて拓けた道になっていた。それらの状況からは、何か大きな動物がこの辺りに住み着いていることが容易に想像できた。
大樹の根元にしゃがみ込み、草のあいだを確認すると、マリアンルージュは顔を上げてゼノを手招いた。
「……これを見て。岩豚だよ。この辺りに生息してるんだ」
マリアンルージュが指し示す草むらをゼノが覗き込むと、そこには異様な存在感を放つ動物の糞がこんもりと落ちていた。眉を顰めて息を詰めるゼノに、マリアンルージュが期待を込めた眼差しを送る。彼女は勢い良く立ち上がり、瞳を輝かせてゼノに詰め寄った。
「狩ろう!」
「狩ろう……って、道具はあるんですか? そんな大きな手荷物には見えませんが……」
「流石に弓は持って来れなかったけどね。でも、こんなときのことを考えて……」
弾んだ声でそう言うと、マリアンルージュは背負っていた袋を下ろし、中から長い紐を取り出した。動物の毛を編んで作った丈夫な紐は中央が幅広くなっており、片側の先端が輪になっていた。
「なるほど、投石紐ですか」
呟いたゼノに、マリアンルージュは大きく頷いた。
スリング――片手で握れる程度の大きさの石や金属の塊等を遠くへ投げ飛ばす道具だ。
射程距離が長く、鉄の鏃を必要とする弓矢に比べて弾の補給が容易なため、鳥や小動物の狩りの際に用いられる。だが、狙いどおりの距離・方向に投石するためには紐を放すタイミングを正確に見極める必要があり、実用できるほどの技を修得するのは難しく、暇を持て余した竜人族の中でも実用している者は稀だった。
スリングの片端を手首に掛けてくるくると回してみせると、マリアンルージュは鼻歌を歌いながら、足元に転がる石を物色しはじめた。手頃なものを幾つか拾い上げ、岩豚の通った形跡を辿りながら、彼女は森の奥へと進む。
延々と続くかに思われた木々の切れ目、陽の光の射す拓けた場所で、それは悠々と草を食んでいた。ゼノの胸の高さほどあるその身体は、頭部のごく一部を除き、岩のような鱗で覆われていた。
本来、岩豚の捕獲は非常に難易度が高い。
頑強なその鎧を飛び道具で貫くのは非常に困難であり、竜の里の男衆は竜気を纏わせた近接武器で直接傷を負わせる狩猟法を用いていた。
狩り人自身が危険に晒されるためか、率先して岩豚猟に出るものは少なく、岩豚の肉は非常に希少な食材とされていた。当然ながら、ゼノがその肉を口にできた試しは一度もない。
「すごく美味しいんだよ」
ゼノを振り返って嬉しそうに告げると、マリアンルージュはひらりと茂みを飛び越えて、岩豚の前に躍り出た。
唐突な自殺行為を目の当たりにして、ゼノの顔が一瞬にして青ざめた。
大抵の草食動物は天敵を前にすると逃げ出すものだ。けれど、その身に強固な鎧を纏う岩豚はそこらの被食獣とは違う。狩猟者と対峙した際、真っ先に臨戦態勢に移るのである。
案の定、マリアンルージュに気付いた岩豚は草むらから顔をあげ、鼻息を荒げながら蹄で地表を掻き毟りはじめた。力強く地面を蹴って勢いに乗り、前方のマリアンルージュへ向かって突進する。
空回りする頭では何の対策もできず、ゼノは目を見開いたまま全身を強張らせた。対するマリアンルージュの表情は涼しいもので、迫り来る岩豚を前に余裕の笑みを浮かべている。
片手でスリングを回転させながら、彼女は悠然と構えを取った。
――ひゅっ。
空を裂く鋭い音と共に、放たれた石が岩豚の眉間に直撃する。猛進していた岩豚は身を仰け反らせ、空回りする足に踊らされるまま前方の大樹へと激突した。
岩豚の突進をかわしたマリアンルージュは倒れ込んだ巨体に駆け寄ると、岩豚が気絶していることを確認し、呆然と立ち尽くすゼノを晴れやかな笑顔で手招いた。
「なんと言うか……、お見事でした」
ひとこと口にするのがやっとだった。まさか彼女が、男でも苦労する岩豚狩りをいとも容易く成し遂げてしまうとは。
ゼノが想像していたよりも遙かに、マリアンルージュは逞しかったようだ。
岩豚の傍で手を振るマリアンルージュの元へ向かおうと一歩踏み出した、その刹那、ゼノは何者かの気配を察した。
――後方の茂みの奥に、誰かが居る。
素知らぬ顔でマリアンルージュの側へと駆け寄ると、ゼノは彼女の傍らに膝をつき、こっそり耳打ちした。
「振り返らずに聞いてください。後方の茂みに何者かが潜んでいます」
袋から取り出した縄で岩豚の前脚を括っていたマリアンルージュは、振り返ることなく平然とゼノの言葉に頷いた。
「うん。悪意は感じないけど、ずっとつけられてる」
「ずっと……ですか?」
「朝から何度か気付いてはいたんだ」
「朝から……」
マリアンルージュの言葉に眉を顰めると、ゼノは足元の石を拾い上げた。そのまま上体を捻って大きく振り被り、後方の茂みに向けて思い切り石を投げつける。
直線を描くように突き進んだその石は、茂みの中へと姿を消した。その直後、小さな悲鳴がふたりの耳に届いた。
足場の悪さに四苦八苦しながら後に続くゼノとは違い、マリアンルージュは軽々と道の先を進む。急な坂をしばらく登り、ふたりは微かに耳に届く川のせせらぎから現在地と川までの距離を確認した。
大小の石や地表を這う木の根で歩き難かった獣道はいつの間にかなだらかになり、周囲の茂みは枝葉が圧し折られて拓けた道になっていた。それらの状況からは、何か大きな動物がこの辺りに住み着いていることが容易に想像できた。
大樹の根元にしゃがみ込み、草のあいだを確認すると、マリアンルージュは顔を上げてゼノを手招いた。
「……これを見て。岩豚だよ。この辺りに生息してるんだ」
マリアンルージュが指し示す草むらをゼノが覗き込むと、そこには異様な存在感を放つ動物の糞がこんもりと落ちていた。眉を顰めて息を詰めるゼノに、マリアンルージュが期待を込めた眼差しを送る。彼女は勢い良く立ち上がり、瞳を輝かせてゼノに詰め寄った。
「狩ろう!」
「狩ろう……って、道具はあるんですか? そんな大きな手荷物には見えませんが……」
「流石に弓は持って来れなかったけどね。でも、こんなときのことを考えて……」
弾んだ声でそう言うと、マリアンルージュは背負っていた袋を下ろし、中から長い紐を取り出した。動物の毛を編んで作った丈夫な紐は中央が幅広くなっており、片側の先端が輪になっていた。
「なるほど、投石紐ですか」
呟いたゼノに、マリアンルージュは大きく頷いた。
スリング――片手で握れる程度の大きさの石や金属の塊等を遠くへ投げ飛ばす道具だ。
射程距離が長く、鉄の鏃を必要とする弓矢に比べて弾の補給が容易なため、鳥や小動物の狩りの際に用いられる。だが、狙いどおりの距離・方向に投石するためには紐を放すタイミングを正確に見極める必要があり、実用できるほどの技を修得するのは難しく、暇を持て余した竜人族の中でも実用している者は稀だった。
スリングの片端を手首に掛けてくるくると回してみせると、マリアンルージュは鼻歌を歌いながら、足元に転がる石を物色しはじめた。手頃なものを幾つか拾い上げ、岩豚の通った形跡を辿りながら、彼女は森の奥へと進む。
延々と続くかに思われた木々の切れ目、陽の光の射す拓けた場所で、それは悠々と草を食んでいた。ゼノの胸の高さほどあるその身体は、頭部のごく一部を除き、岩のような鱗で覆われていた。
本来、岩豚の捕獲は非常に難易度が高い。
頑強なその鎧を飛び道具で貫くのは非常に困難であり、竜の里の男衆は竜気を纏わせた近接武器で直接傷を負わせる狩猟法を用いていた。
狩り人自身が危険に晒されるためか、率先して岩豚猟に出るものは少なく、岩豚の肉は非常に希少な食材とされていた。当然ながら、ゼノがその肉を口にできた試しは一度もない。
「すごく美味しいんだよ」
ゼノを振り返って嬉しそうに告げると、マリアンルージュはひらりと茂みを飛び越えて、岩豚の前に躍り出た。
唐突な自殺行為を目の当たりにして、ゼノの顔が一瞬にして青ざめた。
大抵の草食動物は天敵を前にすると逃げ出すものだ。けれど、その身に強固な鎧を纏う岩豚はそこらの被食獣とは違う。狩猟者と対峙した際、真っ先に臨戦態勢に移るのである。
案の定、マリアンルージュに気付いた岩豚は草むらから顔をあげ、鼻息を荒げながら蹄で地表を掻き毟りはじめた。力強く地面を蹴って勢いに乗り、前方のマリアンルージュへ向かって突進する。
空回りする頭では何の対策もできず、ゼノは目を見開いたまま全身を強張らせた。対するマリアンルージュの表情は涼しいもので、迫り来る岩豚を前に余裕の笑みを浮かべている。
片手でスリングを回転させながら、彼女は悠然と構えを取った。
――ひゅっ。
空を裂く鋭い音と共に、放たれた石が岩豚の眉間に直撃する。猛進していた岩豚は身を仰け反らせ、空回りする足に踊らされるまま前方の大樹へと激突した。
岩豚の突進をかわしたマリアンルージュは倒れ込んだ巨体に駆け寄ると、岩豚が気絶していることを確認し、呆然と立ち尽くすゼノを晴れやかな笑顔で手招いた。
「なんと言うか……、お見事でした」
ひとこと口にするのがやっとだった。まさか彼女が、男でも苦労する岩豚狩りをいとも容易く成し遂げてしまうとは。
ゼノが想像していたよりも遙かに、マリアンルージュは逞しかったようだ。
岩豚の傍で手を振るマリアンルージュの元へ向かおうと一歩踏み出した、その刹那、ゼノは何者かの気配を察した。
――後方の茂みの奥に、誰かが居る。
素知らぬ顔でマリアンルージュの側へと駆け寄ると、ゼノは彼女の傍らに膝をつき、こっそり耳打ちした。
「振り返らずに聞いてください。後方の茂みに何者かが潜んでいます」
袋から取り出した縄で岩豚の前脚を括っていたマリアンルージュは、振り返ることなく平然とゼノの言葉に頷いた。
「うん。悪意は感じないけど、ずっとつけられてる」
「ずっと……ですか?」
「朝から何度か気付いてはいたんだ」
「朝から……」
マリアンルージュの言葉に眉を顰めると、ゼノは足元の石を拾い上げた。そのまま上体を捻って大きく振り被り、後方の茂みに向けて思い切り石を投げつける。
直線を描くように突き進んだその石は、茂みの中へと姿を消した。その直後、小さな悲鳴がふたりの耳に届いた。
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
美しい姉と痩せこけた妹
サイコちゃん
ファンタジー
若き公爵は虐待を受けた姉妹を引き取ることにした。やがて訪れたのは美しい姉と痩せこけた妹だった。姉が夢中でケーキを食べる中、妹はそれがケーキだと分からない。姉がドレスのプレゼントに喜ぶ中、妹はそれがドレスだと分からない。公爵はあまりに差のある姉妹に疑念を抱いた――
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる