45 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌
狩り②
しおりを挟む
法と秩序の国レジオルディネの国土の東端は深い森に覆われており、王都から続く石畳の街道が森の奥にそびえ立つ要塞――軍事国家ベルンシュタインとの国境へと続いている。
その要塞までの道中に、アーチ状の石造りの橋が架けられた、北から南へと流れる比較的大きな川がある。
レジオルド憲兵隊第十七隊と別れたゼノとマリアンルージュは、その川縁に沿い、三日程かけて森を北上していた。ベルンシュタインに向かう前に、ゼノには行かなければならない場所があったからだ。
ふたりの旅は順調に思われていたが、野宿が続いた昨夜、遂に深刻な問題が発生した。手持ちの食糧が底を尽きたのだ。
「魚でも捕まえられたら良かったんだけど……」
濡れた髪に手櫛を通しながら、マリアンルージュがぽつりと呟いた。
何気ない愚痴とも取れたけれど、その言葉から、ゼノは今朝の彼女の行動をなんとなく把握できてしまった。
おそらく、マリアンルージュが朝から川に出掛けた理由は、水浴びのためだけではなかったのだ。昨夜の話を気にしてひとりで魚を捕まえようと四苦八苦しているうちに、川に落ち、結果的に水浴びをする羽目になってしまったのだろう。
眠ってしまったゼノを起こすわけでもなく火の番を代わっていたことも含め、彼女は何かと気を遣い過ぎている。食糧のことも火の番のことも、一度しっかりと話をするべきだ。
そう考えはしたものの、差し当たり、今すべきことは決まっていた。
「空腹のままでは移動の効率が落ちますし、万が一道に迷ったりしたら取り返しが付きません。茸か木の実でも探しながら川沿いに移動しましょう」
ゼノが提案すると、マリアンルージュは大きく頷いて同意した。
実のところ、ゼノは茸や野草に関してはあまり詳しくなかった。
元々部屋に篭りがちで必要最低限の狩りしか経験しておらず、その数少ない狩りの経験では必ずと言っていいほどイシュナードの協力があった。
言ってみれば、里の外で遊び暮らせていたのはイシュナードの助けがあったからこそのことだったのだ。
幸いにも、竜人族の身体は大半の毒を受け付けない。アルコールの類がそうであるように、それらは体内で無害な状態に分解されるため、万が一、毒のある茸や木の実を口にしてしまったとしても、何ら問題はないのだ。
味や見た目を気にしなければ適当なもので空腹を満たすことができる。なんとも便利なその身体は、今のふたりにとって、この上なく有難いものだった。
道に迷うことのないように川の位置を気にかけながら、ふたりは森の中へと歩を進めていった。
紅や黄に色付いた木の葉が降り積もる森の中では、落葉に隠された獣道が無数に枝分かれしていた。
静まり返ったその空間で、木の葉を踏み締める乾いた音だけが耳に届く。高みから響き渡る鳥のさえずりに耳を澄ましながら、ふたりは時折辺りを見回した。
木の穴蔵から顔を覗かせる小動物や、堅い殻に覆われた木の実など、食べられそうなものは何度か目にしたものの、今の空腹を満たすには、それらはどれも微妙なものだった。
「本当は、食糧が無くなる前に次の街に着けるはずだったんだよね?」
不意に、マリアンルージュが口を開く。
「街に着く前に、わたしに人間の言葉を教えようとしたから、それで予定が狂ってしまった。そうだよね?」
いつものマリアンルージュらしからぬ弱気な物言いだった。
振り返ったゼノの目に、しゅんと肩を落とすマリアンルージュの姿が映った。親に叱られた子供のように、彼女は肩を落とし、ゼノの顔色を窺っていた。
確かに、ゼノは道中、彼女に人間の言葉を教えようとした。けれど、それは精々、歩きながら交わす日常会話を人間の言葉に置き換えた程度のことで、特別に時間を割いたわけではなかった。必要最低限のことしか教えていないにも関わらず既に日常会話が可能なほど、マリアンルージュは物覚えが良かった。
予定が狂ったのは、単純にイシュナードが先導していたあの頃とはペースが違っていた、ただそれだけのことだ。食糧が足りなくなったことに関しても、ひとりならどうとでもなると高を括り、外の世界を甘く見ていたゼノにも落ち度があった。
「貴女が俺に気を遣っている理由は、それですか?」
歩みを止め、ゼノはマリアンルージュに訊ねた。
火の番のことも、食糧のことも、ふたりで協力すれば負担は減る。マリアンルージュが居ることで、ゼノが不利益を被ることはない。それは彼女にとっても同じはずだった。
「マリア、俺は貴女とは対等でありたい。余計な気遣いは必要ありません。何かあれば二人で協力する。それではいけませんか?」
優しい言葉でもかけることができれば良かったが、生憎ゼノは気の利いた言葉が思い付かなかった。
気を遣わないで欲しい。むしろ頼って欲しいのだと、そうマリアンルージュに伝えたかった。それなのに、絶望的なまでに、彼は言葉選びが下手だった。
胸の内の想いを伝えられたかどうか不安を覚えながら、ゼノはマリアンルージュと向き合った。
「……うん。それで良いよ」
ほっと表情を綻ばせ、マリアンルージュが頷いた。ふたたび獣道を進み始めた彼女の足取りは、心持ち軽くなっているような気がした。
その要塞までの道中に、アーチ状の石造りの橋が架けられた、北から南へと流れる比較的大きな川がある。
レジオルド憲兵隊第十七隊と別れたゼノとマリアンルージュは、その川縁に沿い、三日程かけて森を北上していた。ベルンシュタインに向かう前に、ゼノには行かなければならない場所があったからだ。
ふたりの旅は順調に思われていたが、野宿が続いた昨夜、遂に深刻な問題が発生した。手持ちの食糧が底を尽きたのだ。
「魚でも捕まえられたら良かったんだけど……」
濡れた髪に手櫛を通しながら、マリアンルージュがぽつりと呟いた。
何気ない愚痴とも取れたけれど、その言葉から、ゼノは今朝の彼女の行動をなんとなく把握できてしまった。
おそらく、マリアンルージュが朝から川に出掛けた理由は、水浴びのためだけではなかったのだ。昨夜の話を気にしてひとりで魚を捕まえようと四苦八苦しているうちに、川に落ち、結果的に水浴びをする羽目になってしまったのだろう。
眠ってしまったゼノを起こすわけでもなく火の番を代わっていたことも含め、彼女は何かと気を遣い過ぎている。食糧のことも火の番のことも、一度しっかりと話をするべきだ。
そう考えはしたものの、差し当たり、今すべきことは決まっていた。
「空腹のままでは移動の効率が落ちますし、万が一道に迷ったりしたら取り返しが付きません。茸か木の実でも探しながら川沿いに移動しましょう」
ゼノが提案すると、マリアンルージュは大きく頷いて同意した。
実のところ、ゼノは茸や野草に関してはあまり詳しくなかった。
元々部屋に篭りがちで必要最低限の狩りしか経験しておらず、その数少ない狩りの経験では必ずと言っていいほどイシュナードの協力があった。
言ってみれば、里の外で遊び暮らせていたのはイシュナードの助けがあったからこそのことだったのだ。
幸いにも、竜人族の身体は大半の毒を受け付けない。アルコールの類がそうであるように、それらは体内で無害な状態に分解されるため、万が一、毒のある茸や木の実を口にしてしまったとしても、何ら問題はないのだ。
味や見た目を気にしなければ適当なもので空腹を満たすことができる。なんとも便利なその身体は、今のふたりにとって、この上なく有難いものだった。
道に迷うことのないように川の位置を気にかけながら、ふたりは森の中へと歩を進めていった。
紅や黄に色付いた木の葉が降り積もる森の中では、落葉に隠された獣道が無数に枝分かれしていた。
静まり返ったその空間で、木の葉を踏み締める乾いた音だけが耳に届く。高みから響き渡る鳥のさえずりに耳を澄ましながら、ふたりは時折辺りを見回した。
木の穴蔵から顔を覗かせる小動物や、堅い殻に覆われた木の実など、食べられそうなものは何度か目にしたものの、今の空腹を満たすには、それらはどれも微妙なものだった。
「本当は、食糧が無くなる前に次の街に着けるはずだったんだよね?」
不意に、マリアンルージュが口を開く。
「街に着く前に、わたしに人間の言葉を教えようとしたから、それで予定が狂ってしまった。そうだよね?」
いつものマリアンルージュらしからぬ弱気な物言いだった。
振り返ったゼノの目に、しゅんと肩を落とすマリアンルージュの姿が映った。親に叱られた子供のように、彼女は肩を落とし、ゼノの顔色を窺っていた。
確かに、ゼノは道中、彼女に人間の言葉を教えようとした。けれど、それは精々、歩きながら交わす日常会話を人間の言葉に置き換えた程度のことで、特別に時間を割いたわけではなかった。必要最低限のことしか教えていないにも関わらず既に日常会話が可能なほど、マリアンルージュは物覚えが良かった。
予定が狂ったのは、単純にイシュナードが先導していたあの頃とはペースが違っていた、ただそれだけのことだ。食糧が足りなくなったことに関しても、ひとりならどうとでもなると高を括り、外の世界を甘く見ていたゼノにも落ち度があった。
「貴女が俺に気を遣っている理由は、それですか?」
歩みを止め、ゼノはマリアンルージュに訊ねた。
火の番のことも、食糧のことも、ふたりで協力すれば負担は減る。マリアンルージュが居ることで、ゼノが不利益を被ることはない。それは彼女にとっても同じはずだった。
「マリア、俺は貴女とは対等でありたい。余計な気遣いは必要ありません。何かあれば二人で協力する。それではいけませんか?」
優しい言葉でもかけることができれば良かったが、生憎ゼノは気の利いた言葉が思い付かなかった。
気を遣わないで欲しい。むしろ頼って欲しいのだと、そうマリアンルージュに伝えたかった。それなのに、絶望的なまでに、彼は言葉選びが下手だった。
胸の内の想いを伝えられたかどうか不安を覚えながら、ゼノはマリアンルージュと向き合った。
「……うん。それで良いよ」
ほっと表情を綻ばせ、マリアンルージュが頷いた。ふたたび獣道を進み始めた彼女の足取りは、心持ち軽くなっているような気がした。
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる