22 / 67
第8話 階下での食事
①
しおりを挟む
ロランに噂の話を聞いてから数日が過ぎた。未だヴィルジールは沙汰を下しておらず、セルジュは一介の騎士と同じく訓練に明け暮れる日々を送っていた。
西の空が茜色に染まる夕暮れどき、一日の訓練を終えた騎士達が宿舎へと戻っていく。赤い地面に伸びる長い影を眺めながら、セルジュは列の最後尾を歩いていた。
このあと夕食を取り、いつもどおりコレットとの訓練をこなせば一日が終わる。小さく息を吐いて、先程まで剣の柄を握っていた己の手のひらをみつめた。
騎士のそれらしく節くれだった太い指。分厚い皮に覆われた手のひらは硬く、がさついていた。この、触れたものを端から傷付けそうな厳つい手で、セルジュは毎晩コレットの手を握っているのだ。
柔らかな手のひらと、ほっそりと伸びた指を思い浮かべ、セルジュは薄らと瞼を閉じた。
夕陽に紅く染まるこの時間は、セルジュにとって非常に厄介なものだった。小さな手のひらと、ほっそりとした指先の記憶が、少年の頃から続く悪夢の記憶を呼び醒すからだ。
毎晩の訓練でコレットに対して邪な考えを抱いたことはなかった。けれど、こうして夕陽を浴びていると、あの日の記憶に否応無く劣情を煽られてしまう。
こんなことがコレットに知れてしまえば、毎晩の訓練など、たちまち取り止めになってしまうに違いない。
「セルジュさん」
媚びるようにセルジュを見上げる潤んだ榛色の瞳が今でも脳裏に焼き付いていた。細い指がセルジュのものをたどたどしく撫であげて、ぬめりを帯びて絡みつく。
いくらでも拒むことはできたはずだ。けれど、あのときセルジュは、あろうことか、果実のように潤った柔らかな唇に更なる期待を寄せて――。
唐突に服の端を引っ張られて、セルジュは目を見開いた。心臓が口から飛び出そうなほど跳ね上がり、おかしな声が喉から出掛かった。
慌てて振り返った視界に上衣の裾を握る白い指が映る。心臓が、また大きく跳ね上がった。
「セルジュさんてば」
少しばかり不機嫌な顔のコレットが、セルジュを見上げていた。慌てて周囲を見回すと、辺りは既に薄闇がかり、目の前の宿舎の窓から漏れた明かりが青味がかった地面を照らしていた。
「もう、何回も呼んでるのに。何か考え事でもしてたんですか?」
「す……すまん。ちょっとな」
ぷうっと頬を膨らませて拗ねた顔をするコレットに、セルジュは慌てて頭を下げた。直前まで如何わしい想像をしていたこともあり、今日のセルジュは弱腰だった。
いつもの尊大さが見る影もないその態度に、コレットが怪訝そうに首を傾げる。
「本当にどうしちゃったんですか?」
「いや、特に……と言うか、何故お前がここに居る?」
セルジュが切り返すと、コレットはたちまち表情を翳らせて。いつになく深刻な様子で重々しく口を開いた。
「あのですね……さっき食堂で女中さんに聞いたんですけど。……なんか、セルジュさんが毎晩女性を部屋に連れ込んでるって、城中で噂になってるみたいで……」
もじもじとしながらコレットが視線を彷徨わせる。例の噂がようやくコレットの耳にも届いたようだ。
意外に遅かったな、などと思いながら、セルジュは顔を綻ばせた。
「その件なら問題ない。女性恐怖症についてはロランに話しておいた。じきに皆にも伝わる。噂もすぐに忘れられるだろう」
穏やかに声を掛ける。宥めるつもりで口にしたはずが、セルジュの言葉は更にコレットの不安を煽ったようだった。
「話した……って、良いんですか? 女性恐怖症のせいで任務に支障が出る可能性があると知れたら、セルジュさんのことを良く思ってない人がそれを理由に殿下に護衛騎士の解任を進言するかもしれないんですよ?」
「それを殿下が受け入れたなら従うしかないだろう。護衛騎士の任は解かれるかもしれんが、騎士を辞めるわけではない。それに、お前の純潔を散らしたと誤解されて責任を取れと迫られるよりは幾分マシだ」
ニッと笑ってそう言うと、コレットは浮かない顔で「……笑いごとじゃないですよ」と俯いた。
普段は能天気なくせに。らしくない、しおらしい態度に思わず笑みが零れる。
しょげかえった亜麻色の頭をぽんぽんと撫でてやると、コレットは顔をあげて、ほっと表情を和らげた。
「それよりも、そろそろ晩餐の時間だろう。食堂に向かわなくて良いのか?」
「そうですね、急がないと。……て言うか、セルジュさんも行きますよね?」
「着替えたらな」
警護のために食堂の隅に立つだけの仕事とはいえ、訓練で汗をかいたままで行けるはずもない。
セルジュが指先で襟元をつまんで肩を竦めてみせると、コレットはこくりと頷いてセルジュに背を向けて、居館へと続く小道を小走りに駆けていった。
白いエプロンとヘッドドレスが、蝶のように薄闇をひらひらと舞う。コレットが無事に居館に入るのを見届けて、セルジュは足早に宿舎に戻った。
西の空が茜色に染まる夕暮れどき、一日の訓練を終えた騎士達が宿舎へと戻っていく。赤い地面に伸びる長い影を眺めながら、セルジュは列の最後尾を歩いていた。
このあと夕食を取り、いつもどおりコレットとの訓練をこなせば一日が終わる。小さく息を吐いて、先程まで剣の柄を握っていた己の手のひらをみつめた。
騎士のそれらしく節くれだった太い指。分厚い皮に覆われた手のひらは硬く、がさついていた。この、触れたものを端から傷付けそうな厳つい手で、セルジュは毎晩コレットの手を握っているのだ。
柔らかな手のひらと、ほっそりと伸びた指を思い浮かべ、セルジュは薄らと瞼を閉じた。
夕陽に紅く染まるこの時間は、セルジュにとって非常に厄介なものだった。小さな手のひらと、ほっそりとした指先の記憶が、少年の頃から続く悪夢の記憶を呼び醒すからだ。
毎晩の訓練でコレットに対して邪な考えを抱いたことはなかった。けれど、こうして夕陽を浴びていると、あの日の記憶に否応無く劣情を煽られてしまう。
こんなことがコレットに知れてしまえば、毎晩の訓練など、たちまち取り止めになってしまうに違いない。
「セルジュさん」
媚びるようにセルジュを見上げる潤んだ榛色の瞳が今でも脳裏に焼き付いていた。細い指がセルジュのものをたどたどしく撫であげて、ぬめりを帯びて絡みつく。
いくらでも拒むことはできたはずだ。けれど、あのときセルジュは、あろうことか、果実のように潤った柔らかな唇に更なる期待を寄せて――。
唐突に服の端を引っ張られて、セルジュは目を見開いた。心臓が口から飛び出そうなほど跳ね上がり、おかしな声が喉から出掛かった。
慌てて振り返った視界に上衣の裾を握る白い指が映る。心臓が、また大きく跳ね上がった。
「セルジュさんてば」
少しばかり不機嫌な顔のコレットが、セルジュを見上げていた。慌てて周囲を見回すと、辺りは既に薄闇がかり、目の前の宿舎の窓から漏れた明かりが青味がかった地面を照らしていた。
「もう、何回も呼んでるのに。何か考え事でもしてたんですか?」
「す……すまん。ちょっとな」
ぷうっと頬を膨らませて拗ねた顔をするコレットに、セルジュは慌てて頭を下げた。直前まで如何わしい想像をしていたこともあり、今日のセルジュは弱腰だった。
いつもの尊大さが見る影もないその態度に、コレットが怪訝そうに首を傾げる。
「本当にどうしちゃったんですか?」
「いや、特に……と言うか、何故お前がここに居る?」
セルジュが切り返すと、コレットはたちまち表情を翳らせて。いつになく深刻な様子で重々しく口を開いた。
「あのですね……さっき食堂で女中さんに聞いたんですけど。……なんか、セルジュさんが毎晩女性を部屋に連れ込んでるって、城中で噂になってるみたいで……」
もじもじとしながらコレットが視線を彷徨わせる。例の噂がようやくコレットの耳にも届いたようだ。
意外に遅かったな、などと思いながら、セルジュは顔を綻ばせた。
「その件なら問題ない。女性恐怖症についてはロランに話しておいた。じきに皆にも伝わる。噂もすぐに忘れられるだろう」
穏やかに声を掛ける。宥めるつもりで口にしたはずが、セルジュの言葉は更にコレットの不安を煽ったようだった。
「話した……って、良いんですか? 女性恐怖症のせいで任務に支障が出る可能性があると知れたら、セルジュさんのことを良く思ってない人がそれを理由に殿下に護衛騎士の解任を進言するかもしれないんですよ?」
「それを殿下が受け入れたなら従うしかないだろう。護衛騎士の任は解かれるかもしれんが、騎士を辞めるわけではない。それに、お前の純潔を散らしたと誤解されて責任を取れと迫られるよりは幾分マシだ」
ニッと笑ってそう言うと、コレットは浮かない顔で「……笑いごとじゃないですよ」と俯いた。
普段は能天気なくせに。らしくない、しおらしい態度に思わず笑みが零れる。
しょげかえった亜麻色の頭をぽんぽんと撫でてやると、コレットは顔をあげて、ほっと表情を和らげた。
「それよりも、そろそろ晩餐の時間だろう。食堂に向かわなくて良いのか?」
「そうですね、急がないと。……て言うか、セルジュさんも行きますよね?」
「着替えたらな」
警護のために食堂の隅に立つだけの仕事とはいえ、訓練で汗をかいたままで行けるはずもない。
セルジュが指先で襟元をつまんで肩を竦めてみせると、コレットはこくりと頷いてセルジュに背を向けて、居館へと続く小道を小走りに駆けていった。
白いエプロンとヘッドドレスが、蝶のように薄闇をひらひらと舞う。コレットが無事に居館に入るのを見届けて、セルジュは足早に宿舎に戻った。
0
お気に入りに追加
375
あなたにおすすめの小説
社長の奴隷
星野しずく
恋愛
セクシー系の商品を販売するネットショップを経営する若手イケメン社長、茂手木寛成のもとで、大のイケメン好き藤巻美緒は仕事と称して、毎日エッチな人体実験をされていた。そんな二人だけの空間にある日、こちらもイケメン大学生である信楽誠之助がアルバイトとして入社する。ただでさえ異常な空間だった社内は、信楽が入ったことでさらに混乱を極めていくことに・・・。(途中、ごくごく軽いBL要素が入ります。念のため)
帰らなければ良かった
jun
恋愛
ファルコン騎士団のシシリー・フォードが帰宅すると、婚約者で同じファルコン騎士団の副隊長のブライアン・ハワードが、ベッドで寝ていた…女と裸で。
傷付いたシシリーと傷付けたブライアン…
何故ブライアンは溺愛していたシシリーを裏切ったのか。
*性被害、レイプなどの言葉が出てきます。
気になる方はお避け下さい。
・8/1 長編に変更しました。
・8/16 本編完結しました。
皇帝陛下は皇妃を可愛がる~俺の可愛いお嫁さん、今日もいっぱい乱れてね?~
一ノ瀬 彩音
恋愛
ある国の皇帝である主人公は、とある理由から妻となったヒロインに毎日のように夜伽を命じる。
だが、彼女は恥ずかしいのか、いつも顔を真っ赤にして拒むのだ。
そんなある日、彼女はついに自分から求めるようになるのだが……。
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
義妹が大事だと優先するので私も義兄を優先する事にしました
さこの
恋愛
婚約者のラウロ様は義妹を優先する。
私との約束なんかなかったかのように…
それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。
そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね…
分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる