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 私は昨夜、王城で開催された夜会で、幼馴染みであり婚約者でもあるこの国の王太子フランシスとの婚約を発表するはずだった。『するはずだった』と表現したのは、実際には婚約発表が行われなかったからだ。
 理由は単純なものである。私が精一杯着飾って約束の時間にフランシスの元を訪ねると、彼の部屋には親友の——いや、親友のカレンがいた。彼は私の目の前でカレンの手を取って、そして私に言ったのだ。
「オリヴィア、やはり僕は君とは結婚できない」と。
 私は黙って頷いてその場を去った。理由を知らされることもなく婚約は破棄されてしまったけれど、フランシスの計らいで婚約の話自体まだ公表されていなかったから、私や私の父の名誉が汚されることはなかった。
 婚約を解消したい相手にもそういった情けをかけてくれる。フランシスのそういうところが、私は結構好きだった。

 フランシスがカレンに好意を寄せている。その事実に気がついたのは三年ほど前、王城で開催された夜会で、ふたりを引き合わせたときのことだった。
 この国では、社交の場で異性に白のシャンパンを勧める行為は、『あなたのことを知りたい』『お近付きになりたい』という意味を持っている。
 私がカレンを紹介して、賓客への挨拶回りでその場を離れた隙に、フランシスは白のシャンパンをカレンに勧めていた。私はその瞬間を遠目でちらりと見かけてしまったのだ。
 けれど、そのときの私はフランシスのその行為を別段気にしなかった。王子と公爵令嬢という間柄ではあるものの、フランシスは私よりひとつ歳が若い。それもあって、彼が私に逆らうことは絶対になかったからだ。
 だから、私とカレンの友情が破綻したのは、別にフランシスのせいではない。

 カレンはいわゆる箱入り令嬢で、元々常識のない子だった。
 私たちがまだ幼かった頃、私が可愛がっていた金糸雀をカレンが欲しがったので譲ってあげたのだけど、彼女はたったの三日で飼い猫に金糸雀を食べられてしまったのだ。でもまあ、終わったことは仕方がない。私はそれからもカレンを妹のように可愛がっていた。
 ある日、私のお気に入りの下僕が唐突にうちの屋敷を辞めてしまった。とても寂しい思いで日々を過ごしたその数日後、私はその下僕がカレンの屋敷で働いていることを知った。
 カレンの誕生日パーティーに呼ばれたとき、私は主役であるカレンとドレスの色が被らないように、オリーブ色のドレスを仕立てた。誕生会では薔薇色のドレスを着るのだと、カレンが嬉しそうに話してくれたからだ。けれど、当日、パーティーに顔を出してみると、カレンは私と同じオリーブ色のドレスを着ていた。私は大恥をかいたけれど、皆の白い視線を我慢してカレンの誕生日を祝った。
 そんなわけで、カレンにはとにかく嫌な思いをさせられてきたから。だから、カレンがフランシスに気があると知って、私は父に頼んだのだ。
 フランシスと結婚したい、と。
 けれど、カレンは手を尽くしてフランシスの気持ちを射止めてしまった。その結果、私は昨夜、夜の公園で惨めにひとり涙を流すことになったのだ。


 それで?

 私はまず、目の前に跪く男の手を振り払った。
 男は顔をあげて、驚いたように目を丸くすると、立ち上がり、まっすぐ私を見下ろした。
 男の背は高く、肩幅も広かった。腕や脚も太いし胸板も厚そうだ。精悍な顔付きから、軍人だろうか、と私が考えていると、男はふと表情を和らげて言った。

「つかぬ事をお伺いしますが、貴女は今、酷く傷付いておられるのではありませんか」

 新手の宗教団体の勧誘か何かか?
 男の言葉があまりにも胡散臭いものだったから、私はおそらく渋面になっていたと思う。
 確かに昨夜、私は夜会を抜け出して公園で泣いてみたりもしたけれど、あの涙は失恋による悲しみの涙ではない。カレンに負けたことによる悔し涙だ。
 だから、私が傷付いているだなんて、そんな馬鹿げた話はない。

「私と結婚しましょう、オリヴィア」

 男がまた私の手に触れようとしたので、私は咄嗟に手を引っ込めて、それから慌てて玄関に飛び込んで扉を閉めた。
 危なかった。忠誠のキスでもされるのかと思った。

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