19 / 40
連載
子どものわがまま
しおりを挟む
実際のところ、エッカルト国王にとっても、アレクシアがスウィングラー辺境伯家から追放されたことは、完全に想定外の出来事だったらしい。
ブリュンヒルデが、軽く指先で頬に触れて言う。
「スウィングラーにいた頃のあなたは、それは立派な後継者ぶりでしたもの。いくら私たちが離縁したところで、まさか辺境伯がろくな教育も施していない子どもを新たな後継者に据えるとは、本当に思ってもみなかったのですわ」
ため息交じりの言葉に、フェルディナントが真顔でうなずく。
「ええ。自分も、ブリュンヒルデさまの手の者による報告を拝見しておりましたから、スウィングラー辺境伯家からあなたが追放されたと聞いたときは、開いた口がふさがりませんでした」
スウィングラー辺境伯家を出る前の一年間、自らの働きに関する報告を完全に失念していたアレクシアは、若干いたたまれない気分になる。
と、それまで沈黙を保っていたウィルフレッドが、ブリュンヒルデに向けて口を開いた。
「ブリュンヒルデさま。貴族の家において、家長の命令は絶対です。だから、あなたが生まれたばかりのアレクシアさまをデズモンドさまに奪われても、抗うことができなかったのもわかります。けれど、オレは――今まで、手紙のひとつすら送ってこなかったあなたが、アレクシアさまのことを気にかけていると言われても、とても信じることができません」
低く冷ややかな声で、彼は言う。
「これからエッカルト王国のために働くあなたが、この国で生きていくことを選んだアレクシアさまに、一体何ができるというのですか? あなたの自己満足と自己弁護のために、オレの主の心を弄ぶような真似はしないでいただきたい」
ひどく攻撃的な言葉に、しかしブリュンヒルデはどこか嬉しそうにほほえんだ。
「……そう。あなたは、アレクシアのために心から怒ってくれる子なのですね」
ありがとう、と彼女は目を逸らさずにウィルフレッドに告げる。
「私は、この子の母親になることはできませんでした。ですが、十月十日この子をお腹で育てたのは、私なのですもの。遠い異国からこの子の幸せを祈るくらいは、どうか許してください」
そう言って、ブリュンヒルデは小首をかしげた。
「女性が赤子を産むというのは、本当に命がけなのですよ。子作りという一大事において、殿方は種付けをしてしまえばそこでお役御免ですけれど、女性はそこからが本番なのです。つわりがひどくて何も食べられないときや、陣痛の際の体が裂けるような痛みに耐えているときには、半ば以上本気でエイドリアンさまに殺意を覚えてしまいましたもの」
(種付けって……)
身も蓋もない彼女の言いように、アレクシアはなんとも言い難い気分になる。しかし、ウィルフレッドやフェルディナントは、それ以上に身の置き所がない様子だ。男性にとって、妊娠出産の話題は馴染みがないものなのだろう。
ブリュンヒルデが、どこまでも穏やかな口調で言う。
「ウィルフレッド・オブライエン。あなたがアレクシアのそばにいてくれること、とても心強く、また大変ありがたく思っています。もしあなたが望むなら、アレクシアともども私たちの養子に迎える用意があったのですけれど……」
そこで彼女は、小さく笑った。
「今のあなた方に必要なのは、きっとシンフィールド学園で同世代の子どもたちと過ごす、他愛ない時間なのでしょう。ただ――もしも、あなた方が本当に困った事態に陥ったときは、迷わず私とフェルディナントの名を使ってください。どれほど惨めな思いをしても、周り中からみっともないと言われようとも、生きることを簡単に諦めたりだけはしないでほしいのです」
お願いです、と言うブリュンヒルデの声が、わずかに揺れる。
「どうか、生きてください。この国の銀行に預けてある私の個人資産は、すべてアレクシア名義に変更しておきましたから、学園の卒業後も生活に困ることはないでしょう。もちろん、あなた方が将来的にエッカルトで暮らしたいと思うことがあったなら、いつでも歓迎いたします」
切々と語られた言葉を、アレクシアは咄嗟に理解し損ねる。
(……ブリュンヒルデさまの個人資産、すべて?)
アレクシアは、おそるおそるブリュンヒルデに問う。
「あの……ブリュンヒルデさま。それはもしや、あなたがエイドリアンさまとご結婚されていた間、スウィングラー辺境伯家から支給されていた生活費の残額すべて、ということでございますか?」
たとえ夫婦関係が崩壊していたとしても、ブリュンヒルデは紛れもなくエイドリアンの妻だったのだ。スウィングラー辺境伯家の別邸で慎ましく暮らしていた彼女には、毎月莫大な生活費が支給されていたはずである。ブリュンヒルデが、そのうちのどれほどを実際に使っていたのかは、わからない。だが、夜会や茶会にほとんど顔を出していなかった彼女は、豪奢なドレスや宝石を新たに買い求める必要もなかったはずだ。
密かに冷や汗をかいていたアレクシアに、ブリュンヒルデはあっさりと言う。
「えぇ、その通りです。それに加え、私がエイドリアンさまに嫁ぐとき、エッカルト王家から渡された持参金もそのまま残してあります。小さな城程度でしたら、問題なく手に入れることができると思いますよ」
(なんと……っ)
ブリュンヒルデの結婚持参金。それはおそらく、スウィングラー辺境伯家が彼女に渡していた生活費を、軽く凌駕する金額だ。
若干めまいを覚えたアレクシアの隣で、ウィルフレッドがぼそりと呟く。
「アレクシアさまは、こんなところまで母君に似ていらっしゃるのか……」
その言葉に、身に覚えがありすぎる彼女は身を縮める。
アレクシアもまた、スウィングラーにいた頃に与えられていた生活費の余剰分や、さまざまな祝いの席で贈られた個人的なプレゼントを売却した代金を、すべてウィルフレッド名義にして王都の銀行に預けておいたのだ。その存在を、シンフィールド学園に入学するまで彼女はうっかり忘れていたため、ウィルフレッドによけいな苦労をかけてしまった。
スウィングラー辺境伯家から出奔してから孤児院で世話になるまで、彼は生活費をぎりぎりまで切り詰めていたらしい。銀行で預金残高を確認したあと、アレクシアはきっちり彼に叱られた。彼女自身はさほど苦を感じていなかったのだが、行軍中でもないのに主に充分な食事を提供できないというのは、ウィルフレッドにとって大変な屈辱だったらしい。……空腹を覚えたら、その辺の山で狩りをすればいい、という生活を密かに楽しんでいたことは、今後も彼には伝えないでおこうと思う。
現在、ウィルフレッドは「オレは、アレクシアさまの財産を管理してるだけですから!」と言い張って、それに手をつけることなく、学園から支給されるふたりぶんの生活費をやりくりしてくれている。彼名義の貯金は、アレクシアの将来に備えて取っておくとのことだったが――
(……うむ。それだけあれば、一個大隊規模の傭兵を余裕で養えるな。最新鋭の魔導武器も選び放題だ。ブラジェナ国王の喉笛に噛みついてやれる日が、思いのほか早く来るかもしれん)
突如として、彼女はおそらくこの国で最も裕福な十五歳になってしまった。
その事実を認識して受け入れたアレクシアは、自分よりも少し高い位置にあるブリュンヒルデの目を、まっすぐに見る。
『母親』とはどんな存在なのか、彼女は書物から得た知識でしか知らない。だから、自分を産んでくれた女性にも、その事実に対する感謝しか抱くことができなかった。
それでも、この短い邂逅の中で、わかったことがある。
「ブリュンヒルデさま。我々に対する過分なお気遣い、大変ありがたく存じます。ご温情に対する感謝を胸に、これからもウィルフレッドとともに生きて参ります」
――アレクシアは、ブリュンヒルデのことを『母親』だとは思えない。何しろ、ほぼ初対面の相手である。ほんの少し会話を交わしただけで、人となりを理解するなど不可能だ。
ただ、彼女がアレクシアに対し、誠実に向き合おうとしているのは感じられた。
『どうか、生きてください』
先ほどブリュンヒルデが口にした、アレクシアへの願い。それは、ウィルフレッドの母親が、最後に彼に残した言葉と同じものだ。
生きてほしい。
そして叶うことなら、どうか幸せに。たとえその幸福な姿を、自分自身の目で見ることができなくても。
(……わたしには、無理だな)
今の彼女にとって、誰よりも何よりも大切なのはウィルフレッドだ。彼が幸福になるためならなんでもすると、アレクシアは自分に誓った。
けれど――たとえそうすることがウィルフレッドの幸福につながるのだとしても、彼の手を離すことだけは、きっとできない。
そっと息をつき、アレクシアはフェルディナントに向けてにこりとほほえむ。
「フェルディナントさま。今日はエッカルトの英雄たるあなたさまにご挨拶できて、嬉しゅうございました。そろそろ、認識阻害の魔術を解除していただけますか? おふたりに挨拶されたがっている方々が、いい加減しびれを切らす頃合いでしょう」
「……アレクシア嬢。失礼を承知で申し上げる。あなたは、本当にブリュンヒルデさまによく似ていらっしゃる。あなた方は哀れなほどに、強く聡い。それでも、あなたはまだ十五歳の少女なのだということを、どうかお忘れにならないでいただきたい」
フェルディナントのダークブルーの瞳が、まっすぐにアレクシアを映す。
「わがままを言うのは、子どもの特権です。そして、子どものわがままに付き合うのは、周囲にいる大人の義務です。スウィングラー辺境伯家を出るまで、あなたの周囲にはろくな大人がいらっしゃらなかったようですが――」
一度言葉を切り、フェルディナントは笑って続けた。
「自分は、あなたのわがままに付き合うくらいの度量はあるつもりです。アレクシア嬢。あなたはこの園遊会で、何かなさりたいことがあるのではありませんか?」
「……なぜ、そのように思われるのですか? フェルディナントさま」
慎重に向けた彼女の問いに、エッカルトの英雄は少し困った顔で応じる。
「自分があなたの立場なら、この国の国王とスウィングラー辺境伯家の方々が、大勢の前で顔を揃えるこの場を、利用しないという選択肢はないからです。あなたが報告書で拝見した通りの人物なら、今後彼らに自分自身と従者を利用させないための策を、何か用意していらっしゃるのだろうと推察しました」
「そうですか……」
なんとも、苦笑するしかない話だ。今日はじめて顔を合わせる相手が、ここまで自分自身の思考を正しく追えるとは思わなかった。
少し、残念だ。ブリュンヒルデが最初から彼と結婚していれば、アレクシアはこの世に生まれてこなくとも済んだのに。自分の手を人の血で汚すこともなく、ウィルフレッドを地獄に引きずり込む罪を犯すこともなかったはずだ。
そんな彼女に、フェルディナントは穏やかに静かな声で言う。
「自分たちを信じろ、とは申しません。ですが、今の自分たちは、あなたの不利になる言動は断じてできない立場です。――利用なさい、アレクシア嬢。エッカルト王国友好使節団の代表たる自分と、あなたの『母』を。あなたの大切な従者を、守るために」
その言葉に、アレクシアは一拍置いてゆるりとほほえむ。
悪くない。エッカルトの英雄の申し出は、彼女の好奇心を実に上手にくすぐってくる。この男の口車にならば、乗せられてみるのも面白そうだ。
「……言われずとも」
たおやかに可憐な淑女の笑みを浮かべたまま、彼女は告げた。
「あなた方のことは、最初から利用させていただくつもりでした。よけいな手出しはご無用、と申し上げようかとも思いましたが、ここは子どもらしくお言葉に甘え、おふたりにもお付き合いいただきましょうか。――わたしとウィルが、この国で自由に生きていくための、一世一代の茶番劇に」
それまでの軽やかな淑女の声から、落ち着き払った兵士の声に変えたアレクシアを、ブリュンヒルデは楽しげに、フェルディナントは愉快そうに見つめてくる。
ウィルフレッドが苦笑するのを横目に見ながら、可憐な仕草で小首をかしげて彼女は言う。
「それでは、ブリュンヒルデさま。フェルディナントさま。さっそく、ひとつお願いを聞いていただきたく存じます。この園遊会が終わるまで、おふたりのことを『お母さま』、『お父さま』と呼ぶことを許していただけますか?」
エッカルトの英雄とその妻が、固まった。
ブリュンヒルデが、軽く指先で頬に触れて言う。
「スウィングラーにいた頃のあなたは、それは立派な後継者ぶりでしたもの。いくら私たちが離縁したところで、まさか辺境伯がろくな教育も施していない子どもを新たな後継者に据えるとは、本当に思ってもみなかったのですわ」
ため息交じりの言葉に、フェルディナントが真顔でうなずく。
「ええ。自分も、ブリュンヒルデさまの手の者による報告を拝見しておりましたから、スウィングラー辺境伯家からあなたが追放されたと聞いたときは、開いた口がふさがりませんでした」
スウィングラー辺境伯家を出る前の一年間、自らの働きに関する報告を完全に失念していたアレクシアは、若干いたたまれない気分になる。
と、それまで沈黙を保っていたウィルフレッドが、ブリュンヒルデに向けて口を開いた。
「ブリュンヒルデさま。貴族の家において、家長の命令は絶対です。だから、あなたが生まれたばかりのアレクシアさまをデズモンドさまに奪われても、抗うことができなかったのもわかります。けれど、オレは――今まで、手紙のひとつすら送ってこなかったあなたが、アレクシアさまのことを気にかけていると言われても、とても信じることができません」
低く冷ややかな声で、彼は言う。
「これからエッカルト王国のために働くあなたが、この国で生きていくことを選んだアレクシアさまに、一体何ができるというのですか? あなたの自己満足と自己弁護のために、オレの主の心を弄ぶような真似はしないでいただきたい」
ひどく攻撃的な言葉に、しかしブリュンヒルデはどこか嬉しそうにほほえんだ。
「……そう。あなたは、アレクシアのために心から怒ってくれる子なのですね」
ありがとう、と彼女は目を逸らさずにウィルフレッドに告げる。
「私は、この子の母親になることはできませんでした。ですが、十月十日この子をお腹で育てたのは、私なのですもの。遠い異国からこの子の幸せを祈るくらいは、どうか許してください」
そう言って、ブリュンヒルデは小首をかしげた。
「女性が赤子を産むというのは、本当に命がけなのですよ。子作りという一大事において、殿方は種付けをしてしまえばそこでお役御免ですけれど、女性はそこからが本番なのです。つわりがひどくて何も食べられないときや、陣痛の際の体が裂けるような痛みに耐えているときには、半ば以上本気でエイドリアンさまに殺意を覚えてしまいましたもの」
(種付けって……)
身も蓋もない彼女の言いように、アレクシアはなんとも言い難い気分になる。しかし、ウィルフレッドやフェルディナントは、それ以上に身の置き所がない様子だ。男性にとって、妊娠出産の話題は馴染みがないものなのだろう。
ブリュンヒルデが、どこまでも穏やかな口調で言う。
「ウィルフレッド・オブライエン。あなたがアレクシアのそばにいてくれること、とても心強く、また大変ありがたく思っています。もしあなたが望むなら、アレクシアともども私たちの養子に迎える用意があったのですけれど……」
そこで彼女は、小さく笑った。
「今のあなた方に必要なのは、きっとシンフィールド学園で同世代の子どもたちと過ごす、他愛ない時間なのでしょう。ただ――もしも、あなた方が本当に困った事態に陥ったときは、迷わず私とフェルディナントの名を使ってください。どれほど惨めな思いをしても、周り中からみっともないと言われようとも、生きることを簡単に諦めたりだけはしないでほしいのです」
お願いです、と言うブリュンヒルデの声が、わずかに揺れる。
「どうか、生きてください。この国の銀行に預けてある私の個人資産は、すべてアレクシア名義に変更しておきましたから、学園の卒業後も生活に困ることはないでしょう。もちろん、あなた方が将来的にエッカルトで暮らしたいと思うことがあったなら、いつでも歓迎いたします」
切々と語られた言葉を、アレクシアは咄嗟に理解し損ねる。
(……ブリュンヒルデさまの個人資産、すべて?)
アレクシアは、おそるおそるブリュンヒルデに問う。
「あの……ブリュンヒルデさま。それはもしや、あなたがエイドリアンさまとご結婚されていた間、スウィングラー辺境伯家から支給されていた生活費の残額すべて、ということでございますか?」
たとえ夫婦関係が崩壊していたとしても、ブリュンヒルデは紛れもなくエイドリアンの妻だったのだ。スウィングラー辺境伯家の別邸で慎ましく暮らしていた彼女には、毎月莫大な生活費が支給されていたはずである。ブリュンヒルデが、そのうちのどれほどを実際に使っていたのかは、わからない。だが、夜会や茶会にほとんど顔を出していなかった彼女は、豪奢なドレスや宝石を新たに買い求める必要もなかったはずだ。
密かに冷や汗をかいていたアレクシアに、ブリュンヒルデはあっさりと言う。
「えぇ、その通りです。それに加え、私がエイドリアンさまに嫁ぐとき、エッカルト王家から渡された持参金もそのまま残してあります。小さな城程度でしたら、問題なく手に入れることができると思いますよ」
(なんと……っ)
ブリュンヒルデの結婚持参金。それはおそらく、スウィングラー辺境伯家が彼女に渡していた生活費を、軽く凌駕する金額だ。
若干めまいを覚えたアレクシアの隣で、ウィルフレッドがぼそりと呟く。
「アレクシアさまは、こんなところまで母君に似ていらっしゃるのか……」
その言葉に、身に覚えがありすぎる彼女は身を縮める。
アレクシアもまた、スウィングラーにいた頃に与えられていた生活費の余剰分や、さまざまな祝いの席で贈られた個人的なプレゼントを売却した代金を、すべてウィルフレッド名義にして王都の銀行に預けておいたのだ。その存在を、シンフィールド学園に入学するまで彼女はうっかり忘れていたため、ウィルフレッドによけいな苦労をかけてしまった。
スウィングラー辺境伯家から出奔してから孤児院で世話になるまで、彼は生活費をぎりぎりまで切り詰めていたらしい。銀行で預金残高を確認したあと、アレクシアはきっちり彼に叱られた。彼女自身はさほど苦を感じていなかったのだが、行軍中でもないのに主に充分な食事を提供できないというのは、ウィルフレッドにとって大変な屈辱だったらしい。……空腹を覚えたら、その辺の山で狩りをすればいい、という生活を密かに楽しんでいたことは、今後も彼には伝えないでおこうと思う。
現在、ウィルフレッドは「オレは、アレクシアさまの財産を管理してるだけですから!」と言い張って、それに手をつけることなく、学園から支給されるふたりぶんの生活費をやりくりしてくれている。彼名義の貯金は、アレクシアの将来に備えて取っておくとのことだったが――
(……うむ。それだけあれば、一個大隊規模の傭兵を余裕で養えるな。最新鋭の魔導武器も選び放題だ。ブラジェナ国王の喉笛に噛みついてやれる日が、思いのほか早く来るかもしれん)
突如として、彼女はおそらくこの国で最も裕福な十五歳になってしまった。
その事実を認識して受け入れたアレクシアは、自分よりも少し高い位置にあるブリュンヒルデの目を、まっすぐに見る。
『母親』とはどんな存在なのか、彼女は書物から得た知識でしか知らない。だから、自分を産んでくれた女性にも、その事実に対する感謝しか抱くことができなかった。
それでも、この短い邂逅の中で、わかったことがある。
「ブリュンヒルデさま。我々に対する過分なお気遣い、大変ありがたく存じます。ご温情に対する感謝を胸に、これからもウィルフレッドとともに生きて参ります」
――アレクシアは、ブリュンヒルデのことを『母親』だとは思えない。何しろ、ほぼ初対面の相手である。ほんの少し会話を交わしただけで、人となりを理解するなど不可能だ。
ただ、彼女がアレクシアに対し、誠実に向き合おうとしているのは感じられた。
『どうか、生きてください』
先ほどブリュンヒルデが口にした、アレクシアへの願い。それは、ウィルフレッドの母親が、最後に彼に残した言葉と同じものだ。
生きてほしい。
そして叶うことなら、どうか幸せに。たとえその幸福な姿を、自分自身の目で見ることができなくても。
(……わたしには、無理だな)
今の彼女にとって、誰よりも何よりも大切なのはウィルフレッドだ。彼が幸福になるためならなんでもすると、アレクシアは自分に誓った。
けれど――たとえそうすることがウィルフレッドの幸福につながるのだとしても、彼の手を離すことだけは、きっとできない。
そっと息をつき、アレクシアはフェルディナントに向けてにこりとほほえむ。
「フェルディナントさま。今日はエッカルトの英雄たるあなたさまにご挨拶できて、嬉しゅうございました。そろそろ、認識阻害の魔術を解除していただけますか? おふたりに挨拶されたがっている方々が、いい加減しびれを切らす頃合いでしょう」
「……アレクシア嬢。失礼を承知で申し上げる。あなたは、本当にブリュンヒルデさまによく似ていらっしゃる。あなた方は哀れなほどに、強く聡い。それでも、あなたはまだ十五歳の少女なのだということを、どうかお忘れにならないでいただきたい」
フェルディナントのダークブルーの瞳が、まっすぐにアレクシアを映す。
「わがままを言うのは、子どもの特権です。そして、子どものわがままに付き合うのは、周囲にいる大人の義務です。スウィングラー辺境伯家を出るまで、あなたの周囲にはろくな大人がいらっしゃらなかったようですが――」
一度言葉を切り、フェルディナントは笑って続けた。
「自分は、あなたのわがままに付き合うくらいの度量はあるつもりです。アレクシア嬢。あなたはこの園遊会で、何かなさりたいことがあるのではありませんか?」
「……なぜ、そのように思われるのですか? フェルディナントさま」
慎重に向けた彼女の問いに、エッカルトの英雄は少し困った顔で応じる。
「自分があなたの立場なら、この国の国王とスウィングラー辺境伯家の方々が、大勢の前で顔を揃えるこの場を、利用しないという選択肢はないからです。あなたが報告書で拝見した通りの人物なら、今後彼らに自分自身と従者を利用させないための策を、何か用意していらっしゃるのだろうと推察しました」
「そうですか……」
なんとも、苦笑するしかない話だ。今日はじめて顔を合わせる相手が、ここまで自分自身の思考を正しく追えるとは思わなかった。
少し、残念だ。ブリュンヒルデが最初から彼と結婚していれば、アレクシアはこの世に生まれてこなくとも済んだのに。自分の手を人の血で汚すこともなく、ウィルフレッドを地獄に引きずり込む罪を犯すこともなかったはずだ。
そんな彼女に、フェルディナントは穏やかに静かな声で言う。
「自分たちを信じろ、とは申しません。ですが、今の自分たちは、あなたの不利になる言動は断じてできない立場です。――利用なさい、アレクシア嬢。エッカルト王国友好使節団の代表たる自分と、あなたの『母』を。あなたの大切な従者を、守るために」
その言葉に、アレクシアは一拍置いてゆるりとほほえむ。
悪くない。エッカルトの英雄の申し出は、彼女の好奇心を実に上手にくすぐってくる。この男の口車にならば、乗せられてみるのも面白そうだ。
「……言われずとも」
たおやかに可憐な淑女の笑みを浮かべたまま、彼女は告げた。
「あなた方のことは、最初から利用させていただくつもりでした。よけいな手出しはご無用、と申し上げようかとも思いましたが、ここは子どもらしくお言葉に甘え、おふたりにもお付き合いいただきましょうか。――わたしとウィルが、この国で自由に生きていくための、一世一代の茶番劇に」
それまでの軽やかな淑女の声から、落ち着き払った兵士の声に変えたアレクシアを、ブリュンヒルデは楽しげに、フェルディナントは愉快そうに見つめてくる。
ウィルフレッドが苦笑するのを横目に見ながら、可憐な仕草で小首をかしげて彼女は言う。
「それでは、ブリュンヒルデさま。フェルディナントさま。さっそく、ひとつお願いを聞いていただきたく存じます。この園遊会が終わるまで、おふたりのことを『お母さま』、『お父さま』と呼ぶことを許していただけますか?」
エッカルトの英雄とその妻が、固まった。
93
お気に入りに追加
4,494
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
死んだ王妃は二度目の人生を楽しみます お飾りの王妃は必要ないのでしょう?
なか
恋愛
「お飾りの王妃らしく、邪魔にならぬようにしておけ」
かつて、愛を誓い合ったこの国の王。アドルフ・グラナートから言われた言葉。
『お飾りの王妃』
彼に振り向いてもらうため、
政務の全てうけおっていた私––カーティアに付けられた烙印だ。
アドルフは側妃を寵愛しており、最早見向きもされなくなった私は使用人達にさえ冷遇された扱いを受けた。
そして二十五の歳。
病気を患ったが、医者にも診てもらえず看病もない。
苦しむ死の間際、私の死をアドルフが望んでいる事を知り、人生に絶望して孤独な死を迎えた。
しかし、私は二十二の歳に記憶を保ったまま戻った。
何故か手に入れた二度目の人生、もはやアドルフに尽くすつもりなどあるはずもない。
だから私は、後悔ない程に自由に生きていく。
もう二度と、誰かのために捧げる人生も……利用される人生もごめんだ。
自由に、好き勝手に……私は生きていきます。
戻ってこいと何度も言ってきますけど、戻る気はありませんから。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私に姉など居ませんが?
山葵
恋愛
「ごめんよ、クリス。僕は君よりお姉さんの方が好きになってしまったんだ。だから婚約を解消して欲しい」
「婚約破棄という事で宜しいですか?では、構いませんよ」
「ありがとう」
私は婚約者スティーブと結婚破棄した。
書類にサインをし、慰謝料も請求した。
「ところでスティーブ様、私には姉はおりませんが、一体誰と婚約をするのですか?」
ここは私の邸です。そろそろ出て行ってくれます?
藍川みいな
恋愛
「マリッサ、すまないが婚約は破棄させてもらう。俺は、運命の人を見つけたんだ!」
9年間婚約していた、デリオル様に婚約を破棄されました。運命の人とは、私の義妹のロクサーヌのようです。
そもそもデリオル様に好意を持っていないので、婚約破棄はかまいませんが、あなたには莫大な慰謝料を請求させていただきますし、借金の全額返済もしていただきます。それに、あなたが選んだロクサーヌは、令嬢ではありません。
幼い頃に両親を亡くした私は、8歳で侯爵になった。この国では、爵位を継いだ者には18歳まで後見人が必要で、ロクサーヌの父で私の叔父ドナルドが後見人として侯爵代理になった。
叔父は私を冷遇し、自分が侯爵のように振る舞って来ましたが、もうすぐ私は18歳。全てを返していただきます!
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。