追放された最強令嬢は、新たな人生を自由に生きる

灯乃

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子どものわがまま

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 実際のところ、エッカルト国王にとっても、アレクシアがスウィングラー辺境伯家から追放されたことは、完全に想定外の出来事だったらしい。
 ブリュンヒルデが、軽く指先で頬に触れて言う。

「スウィングラーにいた頃のあなたは、それは立派な後継者ぶりでしたもの。いくら私たちが離縁したところで、まさか辺境伯がろくな教育も施していない子どもを新たな後継者に据えるとは、本当に思ってもみなかったのですわ」

 ため息交じりの言葉に、フェルディナントが真顔でうなずく。

「ええ。自分も、ブリュンヒルデさまの手の者による報告を拝見しておりましたから、スウィングラー辺境伯家からあなたが追放されたと聞いたときは、開いた口がふさがりませんでした」

 スウィングラー辺境伯家を出る前の一年間、自らの働きに関する報告を完全に失念していたアレクシアは、若干いたたまれない気分になる。
 と、それまで沈黙を保っていたウィルフレッドが、ブリュンヒルデに向けて口を開いた。

「ブリュンヒルデさま。貴族の家において、家長の命令は絶対です。だから、あなたが生まれたばかりのアレクシアさまをデズモンドさまに奪われても、抗うことができなかったのもわかります。けれど、オレは――今まで、手紙のひとつすら送ってこなかったあなたが、アレクシアさまのことを気にかけていると言われても、とても信じることができません」

 低く冷ややかな声で、彼は言う。

「これからエッカルト王国のために働くあなたが、この国で生きていくことを選んだアレクシアさまに、一体何ができるというのですか? あなたの自己満足と自己弁護のために、オレの主の心を弄ぶような真似はしないでいただきたい」

 ひどく攻撃的な言葉に、しかしブリュンヒルデはどこか嬉しそうにほほえんだ。

「……そう。あなたは、アレクシアのために心から怒ってくれる子なのですね」

 ありがとう、と彼女は目を逸らさずにウィルフレッドに告げる。

「私は、この子の母親になることはできませんでした。ですが、十月十日この子をお腹で育てたのは、私なのですもの。遠い異国からこの子の幸せを祈るくらいは、どうか許してください」

 そう言って、ブリュンヒルデは小首をかしげた。

「女性が赤子を産むというのは、本当に命がけなのですよ。子作りという一大事において、殿方は種付けをしてしまえばそこでお役御免ですけれど、女性はそこからが本番なのです。つわりがひどくて何も食べられないときや、陣痛の際の体が裂けるような痛みに耐えているときには、半ば以上本気でエイドリアンさまに殺意を覚えてしまいましたもの」
(種付けって……)

 身も蓋もない彼女の言いように、アレクシアはなんとも言い難い気分になる。しかし、ウィルフレッドやフェルディナントは、それ以上に身の置き所がない様子だ。男性にとって、妊娠出産の話題は馴染みがないものなのだろう。
 ブリュンヒルデが、どこまでも穏やかな口調で言う。

「ウィルフレッド・オブライエン。あなたがアレクシアのそばにいてくれること、とても心強く、また大変ありがたく思っています。もしあなたが望むなら、アレクシアともども私たちの養子に迎える用意があったのですけれど……」

 そこで彼女は、小さく笑った。

「今のあなた方に必要なのは、きっとシンフィールド学園で同世代の子どもたちと過ごす、他愛ない時間なのでしょう。ただ――もしも、あなた方が本当に困った事態に陥ったときは、迷わず私とフェルディナントの名を使ってください。どれほど惨めな思いをしても、周り中からみっともないと言われようとも、生きることを簡単に諦めたりだけはしないでほしいのです」

 お願いです、と言うブリュンヒルデの声が、わずかに揺れる。

「どうか、生きてください。この国の銀行に預けてある私の個人資産は、すべてアレクシア名義に変更しておきましたから、学園の卒業後も生活に困ることはないでしょう。もちろん、あなた方が将来的にエッカルトで暮らしたいと思うことがあったなら、いつでも歓迎いたします」

 切々と語られた言葉を、アレクシアは咄嗟に理解し損ねる。

(……ブリュンヒルデさまの個人資産、すべて?)

 アレクシアは、おそるおそるブリュンヒルデに問う。

「あの……ブリュンヒルデさま。それはもしや、あなたがエイドリアンさまとご結婚されていた間、スウィングラー辺境伯家から支給されていた生活費の残額すべて、ということでございますか?」

 たとえ夫婦関係が崩壊していたとしても、ブリュンヒルデは紛れもなくエイドリアンの妻だったのだ。スウィングラー辺境伯家の別邸で慎ましく暮らしていた彼女には、毎月莫大な生活費が支給されていたはずである。ブリュンヒルデが、そのうちのどれほどを実際に使っていたのかは、わからない。だが、夜会や茶会にほとんど顔を出していなかった彼女は、豪奢なドレスや宝石を新たに買い求める必要もなかったはずだ。
 密かに冷や汗をかいていたアレクシアに、ブリュンヒルデはあっさりと言う。

「えぇ、その通りです。それに加え、私がエイドリアンさまに嫁ぐとき、エッカルト王家から渡された持参金もそのまま残してあります。小さな城程度でしたら、問題なく手に入れることができると思いますよ」
(なんと……っ)

 ブリュンヒルデの結婚持参金。それはおそらく、スウィングラー辺境伯家が彼女に渡していた生活費を、軽く凌駕する金額だ。
 若干めまいを覚えたアレクシアの隣で、ウィルフレッドがぼそりと呟く。

「アレクシアさまは、こんなところまで母君に似ていらっしゃるのか……」

 その言葉に、身に覚えがありすぎる彼女は身を縮める。
 アレクシアもまた、スウィングラーにいた頃に与えられていた生活費の余剰分や、さまざまな祝いの席で贈られた個人的なプレゼントを売却した代金を、すべてウィルフレッド名義にして王都の銀行に預けておいたのだ。その存在を、シンフィールド学園に入学するまで彼女はうっかり忘れていたため、ウィルフレッドによけいな苦労をかけてしまった。

 スウィングラー辺境伯家から出奔してから孤児院で世話になるまで、彼は生活費をぎりぎりまで切り詰めていたらしい。銀行で預金残高を確認したあと、アレクシアはきっちり彼に叱られた。彼女自身はさほど苦を感じていなかったのだが、行軍中でもないのに主に充分な食事を提供できないというのは、ウィルフレッドにとって大変な屈辱だったらしい。……空腹を覚えたら、その辺の山で狩りをすればいい、という生活を密かに楽しんでいたことは、今後も彼には伝えないでおこうと思う。

 現在、ウィルフレッドは「オレは、アレクシアさまの財産を管理してるだけですから!」と言い張って、それに手をつけることなく、学園から支給されるふたりぶんの生活費をやりくりしてくれている。彼名義の貯金は、アレクシアの将来に備えて取っておくとのことだったが――

(……うむ。それだけあれば、一個大隊規模の傭兵を余裕で養えるな。最新鋭の魔導武器も選び放題だ。ブラジェナ国王の喉笛に噛みついてやれる日が、思いのほか早く来るかもしれん)

 突如として、彼女はおそらくこの国で最も裕福な十五歳になってしまった。
 その事実を認識して受け入れたアレクシアは、自分よりも少し高い位置にあるブリュンヒルデの目を、まっすぐに見る。

『母親』とはどんな存在なのか、彼女は書物から得た知識でしか知らない。だから、自分を産んでくれた女性にも、その事実に対する感謝しか抱くことができなかった。
 それでも、この短い邂逅の中で、わかったことがある。

「ブリュンヒルデさま。我々に対する過分なお気遣い、大変ありがたく存じます。ご温情に対する感謝を胸に、これからもウィルフレッドとともに生きて参ります」

 ――アレクシアは、ブリュンヒルデのことを『母親』だとは思えない。何しろ、ほぼ初対面の相手である。ほんの少し会話を交わしただけで、人となりを理解するなど不可能だ。
 ただ、彼女がアレクシアに対し、誠実に向き合おうとしているのは感じられた。

『どうか、生きてください』

 先ほどブリュンヒルデが口にした、アレクシアへの願い。それは、ウィルフレッドの母親が、最後に彼に残した言葉と同じものだ。
 生きてほしい。
 そして叶うことなら、どうか幸せに。たとえその幸福な姿を、自分自身の目で見ることができなくても。

(……わたしには、無理だな)

 今の彼女にとって、誰よりも何よりも大切なのはウィルフレッドだ。彼が幸福になるためならなんでもすると、アレクシアは自分に誓った。
 けれど――たとえそうすることがウィルフレッドの幸福につながるのだとしても、彼の手を離すことだけは、きっとできない。
 そっと息をつき、アレクシアはフェルディナントに向けてにこりとほほえむ。

「フェルディナントさま。今日はエッカルトの英雄たるあなたさまにご挨拶できて、嬉しゅうございました。そろそろ、認識阻害の魔術を解除していただけますか? おふたりに挨拶されたがっている方々が、いい加減しびれを切らす頃合いでしょう」
「……アレクシア嬢。失礼を承知で申し上げる。あなたは、本当にブリュンヒルデさまによく似ていらっしゃる。あなた方は哀れなほどに、強く聡い。それでも、あなたはまだ十五歳の少女なのだということを、どうかお忘れにならないでいただきたい」

 フェルディナントのダークブルーの瞳が、まっすぐにアレクシアを映す。

「わがままを言うのは、子どもの特権です。そして、子どものわがままに付き合うのは、周囲にいる大人の義務です。スウィングラー辺境伯家を出るまで、あなたの周囲にはろくな大人がいらっしゃらなかったようですが――」

 一度言葉を切り、フェルディナントは笑って続けた。

「自分は、あなたのわがままに付き合うくらいの度量はあるつもりです。アレクシア嬢。あなたはこの園遊会で、何かなさりたいことがあるのではありませんか?」
「……なぜ、そのように思われるのですか? フェルディナントさま」

 慎重に向けた彼女の問いに、エッカルトの英雄は少し困った顔で応じる。

「自分があなたの立場なら、この国の国王とスウィングラー辺境伯家の方々が、大勢の前で顔を揃えるこの場を、利用しないという選択肢はないからです。あなたが報告書で拝見した通りの人物なら、今後彼らに自分自身と従者を利用させないための策を、何か用意していらっしゃるのだろうと推察しました」
「そうですか……」

 なんとも、苦笑するしかない話だ。今日はじめて顔を合わせる相手が、ここまで自分自身の思考を正しく追えるとは思わなかった。

 少し、残念だ。ブリュンヒルデが最初から彼と結婚していれば、アレクシアはこの世に生まれてこなくとも済んだのに。自分の手を人の血で汚すこともなく、ウィルフレッドを地獄に引きずり込む罪を犯すこともなかったはずだ。
 そんな彼女に、フェルディナントは穏やかに静かな声で言う。

「自分たちを信じろ、とは申しません。ですが、今の自分たちは、あなたの不利になる言動は断じてできない立場です。――利用なさい、アレクシア嬢。エッカルト王国友好使節団の代表たる自分と、あなたの『母』を。あなたの大切な従者を、守るために」

 その言葉に、アレクシアは一拍置いてゆるりとほほえむ。
 悪くない。エッカルトの英雄の申し出は、彼女の好奇心を実に上手にくすぐってくる。この男の口車にならば、乗せられてみるのも面白そうだ。

「……言われずとも」

 たおやかに可憐な淑女の笑みを浮かべたまま、彼女は告げた。

「あなた方のことは、最初から利用させていただくつもりでした。よけいな手出しはご無用、と申し上げようかとも思いましたが、ここは子どもらしくお言葉に甘え、おふたりにもお付き合いいただきましょうか。――わたしとウィルが、この国で自由に生きていくための、一世一代の茶番劇に」

 それまでの軽やかな淑女の声から、落ち着き払った兵士の声に変えたアレクシアを、ブリュンヒルデは楽しげに、フェルディナントは愉快そうに見つめてくる。
 ウィルフレッドが苦笑するのを横目に見ながら、可憐な仕草で小首をかしげて彼女は言う。

「それでは、ブリュンヒルデさま。フェルディナントさま。さっそく、ひとつお願いを聞いていただきたく存じます。この園遊会が終わるまで、おふたりのことを『お母さま』、『お父さま』と呼ぶことを許していただけますか?」

 エッカルトの英雄とその妻が、固まった。
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