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「は、はいっ」
未子は返事をして、ドアを開けた。そこには、穏やかな表情を浮かべている忠行が立っていた。
「未子ちゃん、ちょっと話があるんだ。下に降りてきてくれるかな」
一見穏やかだが、未子は見抜いてしまう。何か、深刻な話だ。
リビングルームに入ると、芳江が麦茶を用意して待っていた。
「座りなさい」
忠行に促されて、未子はソファに座った。忠行も、芳江の隣に座る。忠行は未子の顔をまっすぐに見据えて、話を切り出した。
「さっき、学校の担任の先生から電話があった。学祭で何があったのかを聞いたよ。それで、先生は、未子ちゃんと私たちに直接謝罪したいって言うんだ」
「謝罪……」
未子はとまどった。もともと、担任の教師には何も期待していない。謝罪など必要ない。
学祭のことは、未子も話さなければならないと思っていた。先程、紫藤がこっちに来ると言ったから。紫藤に話したことを、芳江はともかく、忠行には隠せないと思った。波間の友人である忠行には。
「それで、どうする、未子ちゃん。謝罪を受けるかい?」
「……それは、正直、どっちでもいいというか。これ以上、大事にならないようにしたいです」
「……そうだね。いじめの話を聞いたとき、普通なら、すぐにでも学校に相談しなければならないところだったと思う。でも、騒ぎ立てた結果、未子ちゃんにとって不都合なことが起こってはならないと思ってね」
未子は、忠行の判断に感謝した。いじめを公にしたとき、いじめの噂が広まるリスクが生じる。
未子は山下家に来ることによって、自分の存在を知る者たちから逃げた。山下家は、未子にとって隠れ家である。ここでの生活が、未子を知る者たちに知られてしまったら。また、私利私欲に駆られた人間に利用されるか、または、都合の悪いことを記憶されているからといって殺されるかもしれない。
「……おじさん、あの、紫藤先生から聞いたんですけど。波間さんが、追われているらしいです」
忠行はぴくりと眉を動かした。
「……波間さんが」
忠行が反芻するのを聞いて、芳江は怪訝そうな表情を浮かべた。
「波間さんって、あなたが現役時代、懇意にしていた方だったわよね」
「ああ」
忠行は元弁護士である。現役時代は東京に個人事務所をかまえて、主に刑事事件に携わり、それも被告人側の弁護人として法廷に立っていた。
できるだけ依頼者のためになる弁護をするためには、事件にかかわる情報を網羅しなければならない。ほんのささいなことでも、何がどうつながっていくかわからない。砂漠の砂を一粒一粒拾い上げるくらいの気持ちで、情報を集め、整理し、検討する。
そのとき、主に情報提供をしていたのが、波間だった。情報屋の波間は、仕事外での人付き合いをする人間ではなかったが、唯一、忠行とだけは気が合った。お互い、金のため、生活のために、世間一般では「悪に加担している」と思われるようなことでもしなくてはならない場面が多々あった。仕事に対する信念、葛藤、報われない悲哀など、職種は違えど通じるものがあった。
弁護士を引退し、生まれ故郷である広島に引っ越すときも、忠行は新しい住所と連絡先を波間に教えていた。それが、未子と出会う鍵になるとは知らずに。
「それで、あの、波間さんを探している人たちが、私のことも探しているらしくて……。私が、波間さんについて、何か知っているんじゃないかって思っているんだと思います。しかも、その、探している人たち――組織はいくつかあるらしくて。
とにかく、紫藤先生が、明日の朝にこっちに来るそうです」
「明日の朝か」
「はい。……あ、あの、迷惑をかけてしまってごめんなさい」
未子は頭を下げた。
自分の身が危険にさらされるということは、自分に関わる人間も危険な目に遭わせるかもしれないということ。一番の標的を射止めるために、まわりを利用するのはよくあること。
……私をひきとったばっかりに。
でも、このリスクもわかっていて、おじさんとおばさんは私をひきとった。それもわかってる。だって、今も、2人とも私のことをちっとも責めていないの。
「未子ちゃん、顔を上げて」
芳江に言われて、未子はゆっくりと顔を上げた。忠行も芳江も穏やかに微笑んでいる。
「私たちは、未子ちゃんが安心して毎日を過ごしてくれたらいいんだ。未子ちゃんが幸せになることが、私たちの願いなんだから」
「未子ちゃん、私は、あなたを本当の娘だと思ってるの。娘のためなら、なんでも受け止めるわ」
……この人たちは、心から、私のためにって想ってくれているんだ。
心の声が聞こえることは、人の悪意をつぶさに知ってしまうことだと思っていた。表面上では愛想よくしていても、心の中では悪態をついているなんてよくあること。音にすれば聞くに堪えない罵詈雑言も、あちこち飛び交っている。
人を陥れようと画策することも、あげく人殺しの計画を立てることも、心の声が聞こえるから、わかってしまう。そんな自分の能力を、未子は呪ってきた。
知らなくていいことを、知ってきた。
でも、知ることができたら、心に羽根が生えて空をどこまでも飛んでいけそうなほど、嬉しくなることがあることも知った。心の声を聞くことができる未子だから、忠行と芳江の愛情を、取りこぼすことなく受け取れる。
未子は、涙を堪えて言った。
「……ありがとう、ございます……」
未子は返事をして、ドアを開けた。そこには、穏やかな表情を浮かべている忠行が立っていた。
「未子ちゃん、ちょっと話があるんだ。下に降りてきてくれるかな」
一見穏やかだが、未子は見抜いてしまう。何か、深刻な話だ。
リビングルームに入ると、芳江が麦茶を用意して待っていた。
「座りなさい」
忠行に促されて、未子はソファに座った。忠行も、芳江の隣に座る。忠行は未子の顔をまっすぐに見据えて、話を切り出した。
「さっき、学校の担任の先生から電話があった。学祭で何があったのかを聞いたよ。それで、先生は、未子ちゃんと私たちに直接謝罪したいって言うんだ」
「謝罪……」
未子はとまどった。もともと、担任の教師には何も期待していない。謝罪など必要ない。
学祭のことは、未子も話さなければならないと思っていた。先程、紫藤がこっちに来ると言ったから。紫藤に話したことを、芳江はともかく、忠行には隠せないと思った。波間の友人である忠行には。
「それで、どうする、未子ちゃん。謝罪を受けるかい?」
「……それは、正直、どっちでもいいというか。これ以上、大事にならないようにしたいです」
「……そうだね。いじめの話を聞いたとき、普通なら、すぐにでも学校に相談しなければならないところだったと思う。でも、騒ぎ立てた結果、未子ちゃんにとって不都合なことが起こってはならないと思ってね」
未子は、忠行の判断に感謝した。いじめを公にしたとき、いじめの噂が広まるリスクが生じる。
未子は山下家に来ることによって、自分の存在を知る者たちから逃げた。山下家は、未子にとって隠れ家である。ここでの生活が、未子を知る者たちに知られてしまったら。また、私利私欲に駆られた人間に利用されるか、または、都合の悪いことを記憶されているからといって殺されるかもしれない。
「……おじさん、あの、紫藤先生から聞いたんですけど。波間さんが、追われているらしいです」
忠行はぴくりと眉を動かした。
「……波間さんが」
忠行が反芻するのを聞いて、芳江は怪訝そうな表情を浮かべた。
「波間さんって、あなたが現役時代、懇意にしていた方だったわよね」
「ああ」
忠行は元弁護士である。現役時代は東京に個人事務所をかまえて、主に刑事事件に携わり、それも被告人側の弁護人として法廷に立っていた。
できるだけ依頼者のためになる弁護をするためには、事件にかかわる情報を網羅しなければならない。ほんのささいなことでも、何がどうつながっていくかわからない。砂漠の砂を一粒一粒拾い上げるくらいの気持ちで、情報を集め、整理し、検討する。
そのとき、主に情報提供をしていたのが、波間だった。情報屋の波間は、仕事外での人付き合いをする人間ではなかったが、唯一、忠行とだけは気が合った。お互い、金のため、生活のために、世間一般では「悪に加担している」と思われるようなことでもしなくてはならない場面が多々あった。仕事に対する信念、葛藤、報われない悲哀など、職種は違えど通じるものがあった。
弁護士を引退し、生まれ故郷である広島に引っ越すときも、忠行は新しい住所と連絡先を波間に教えていた。それが、未子と出会う鍵になるとは知らずに。
「それで、あの、波間さんを探している人たちが、私のことも探しているらしくて……。私が、波間さんについて、何か知っているんじゃないかって思っているんだと思います。しかも、その、探している人たち――組織はいくつかあるらしくて。
とにかく、紫藤先生が、明日の朝にこっちに来るそうです」
「明日の朝か」
「はい。……あ、あの、迷惑をかけてしまってごめんなさい」
未子は頭を下げた。
自分の身が危険にさらされるということは、自分に関わる人間も危険な目に遭わせるかもしれないということ。一番の標的を射止めるために、まわりを利用するのはよくあること。
……私をひきとったばっかりに。
でも、このリスクもわかっていて、おじさんとおばさんは私をひきとった。それもわかってる。だって、今も、2人とも私のことをちっとも責めていないの。
「未子ちゃん、顔を上げて」
芳江に言われて、未子はゆっくりと顔を上げた。忠行も芳江も穏やかに微笑んでいる。
「私たちは、未子ちゃんが安心して毎日を過ごしてくれたらいいんだ。未子ちゃんが幸せになることが、私たちの願いなんだから」
「未子ちゃん、私は、あなたを本当の娘だと思ってるの。娘のためなら、なんでも受け止めるわ」
……この人たちは、心から、私のためにって想ってくれているんだ。
心の声が聞こえることは、人の悪意をつぶさに知ってしまうことだと思っていた。表面上では愛想よくしていても、心の中では悪態をついているなんてよくあること。音にすれば聞くに堪えない罵詈雑言も、あちこち飛び交っている。
人を陥れようと画策することも、あげく人殺しの計画を立てることも、心の声が聞こえるから、わかってしまう。そんな自分の能力を、未子は呪ってきた。
知らなくていいことを、知ってきた。
でも、知ることができたら、心に羽根が生えて空をどこまでも飛んでいけそうなほど、嬉しくなることがあることも知った。心の声を聞くことができる未子だから、忠行と芳江の愛情を、取りこぼすことなく受け取れる。
未子は、涙を堪えて言った。
「……ありがとう、ございます……」
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