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一日目 日曜日 その1
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日曜日の夕方、暇だったから自転車に乗って駅近くの本屋さんへ行ったのがすべての始まりだったように思う。
僕は適当にマンガ雑誌を立ち読みして、お気に入りのマンガの新刊が出ていたのでそれを購入して家へと帰る途中のことだった。
本屋には思ったよりも長居をしてしまって、外に出た時にはもう明るかった空もすっかり暗くなってしまっていた。
明るくて人通りも多い駅前の通りから一本入った裏道へ自転車を走らせる。駅前通りと比べると人通りも少ないし暗い感じもするけれど、逆に自転車はスイスイこぎやすい。
春も終わりかけの五月半ば、寒くもなく暑くもなく気持ちのいい夜だ。
彼女たちを見つけたのは大型パチンコ店の駐車場から死角になるようにある街灯もないくらい裏路地だった。
ストリートファッション系のいかにもな男達に囲まれて一人の女の子が裏路地に連れ込まれようとしていた。
それだけでもただ事じゃない。
人通りが少ないといってもまったくないわけじゃない。僕と同じようにその光景に気がついた人もいたはずだ。けれども誰も気にした様子もなく通り過ぎて行った。
パチンコ店の方にも人影はあるのに誰も気にしない。
僕も迷った。
正直迷ったよ。
このまま家に帰っても今日は少しの罪悪感なんかでテンションはさがるだろうけど、明日になれば、長くても何日かすれば忘れてしまうはずだ。
忘れちゃうはずだ。
もしかしたら仲良しグループだっていう可能性もある。
それでも僕は自転車を止めていた。
子供のころ、強い男にあこがれていた。
かっこいい男になりたかった。
中学に入った僕は、近所の空手道場に通ったりしたものだった。
僕はいわゆる中肉中背というやつで、身長は高くも低くもない一七三センチ。体重も六五キロと身長に対してぴったりなくらいだ。
背が高いわけでも低いわけでもなく、太っているわけでも痩せているわけでもない標準的な普通の子。
それが僕だ。
運動だって得意じゃないけれど、不得意ってわけでもない。
頭の方もそれなりだ。
みんな普通。
だから強くなりたかったのだと思う。単純にヒーローにあこがれていたんだと思う。
格闘技に夢を見たんだ。
毎日のように空手道場に通って、いっぱい練習して、でも僕は強くなれなかった。
空手の師匠曰く「これっぽッちも才能がない」らしかった。
全然上達しない僕の胸を思い切り叩きながら師匠は言ったものだ。
「男気っていうのは、男の強さってのは腕っ節に宿るんじゃない。ここに宿るんだ」
胸を叩かれてむせる僕の背中を何度も何度も手のひらで叩きながら、女性である師匠は笑い声をあげていた。言われた時はただ単に僕を慰めてくれているだけだろうと思っていたけれど、今この瞬間になんとなくわかった気がする。
つまりあれだ。
義を見てせざるは勇無きなり。
というやつだ。
腕っ節は強くなれなかったけれども、道場に通っていて一つだけ免疫というか耐性というか慣れてしまったことがある。
それは師匠をはじめ先輩方などなどなど、本当に強くて怖い人、でも優しいんだけど、そんな人たちに囲まれていたおかげで、そこら辺の不良なんかに絡まれたとしても身がすくむというようなことがなくなったということだ。なんといっても不良なんかよりも何倍も怖い人たちに殴られて蹴られて投げ飛ばされてきたのだから。
裏路地の入口に男が一人通せんぼをするように立っていた。
見張りなのだろうけど、両手をポケットに突っ込んでガムを噛んでいるといういかにもな姿はどうなんだろう。目立つ特徴は鼻のピアス。薄暗い路地でも目立っていた。
まっすぐと路地に向かって歩いていく僕の存在を鼻ピアスはなかなか認識してくれなかった。
鼻ピアスにすれば僕の存在なんて通行人Aと同じなのかもしれない。
それでもどんどんと路地に近づいていくと、さすがに鼻ピアスも僕のことを無視できなくなってきたみたいで、ガラの悪い目つきで上から下、下から上へと視線を這わせるようにして睨みつけてきた。けれども両手はまだポケットに入れたままだ。
完全になめきっている態度だった。僕のことなんて眼中になくて睨みつければそれだけで視線をそらして逃げていく、そう思っているはずだ。
僕は目をそらさない。まっすぐ鼻ピアスに視線を固定して裏路地に向かって歩いていく。
「おいおい兄ちゃん。こっから先は通行止めだぜ」
「……」
「おい、聞こえねえのか? あっちにいけってんだよ!」
お決まりのセリフにお決まりの行動だ。鼻のピアスがくっつくくらいに顔を近づけてきて、覗き込むように僕を睨みつける。
いい気分はしない。こういうタイプの人と長時間見つめ合っていてもいいことは何一つないわけだから、思わず目をそらしたくなってしまう。けれどもここは我慢というわけで、僕は鼻ピアスとお見合いを続けた。
「てめえ、この野郎! ガンつけてんじゃねえぞ」
「………」
僕が無言でいるとあっという間に鼻ピアスの忍耐に限界がきたようだった。
それでもポケットから手を出さないのは、鼻ピアスのプライドか、それとも僕のことをまったく持って脅威に感じていないせいか。
たぶん後者なんだろうな。
「どうかしたんか?」
鼻ピアスの後ろから問いかける声が聞こえてきた。
「いやさ、変なガキがいてよぉ」
「変なガキ? んなもんとっとと追っ払っちまえよ」
鼻ピアスの答えに面倒くさそうな声と返事が返ってきた。
「それがよ、わけわかんねぇンだよ」
困ったような声を出して、鼻ピアスは後ろを振り返る。
本当に僕は眼中にないらしい。いくら僕に格闘技のセンスがまるっきりなかったとしても、ポケットに手を突っこんだまま身体をひねって後ろを向いている状態の鼻ピアスぐらい倒せるはずだ。いくらなんでも油断のしすぎじゃないか。
ある意味チャンスだった。でも奇襲をかけて鼻ピアスを倒したところで状況がわからないのでは仕方がない。
その状況も鼻ピアスの頭が動いたことで、ようやく裏路地の様子が見えた。
女の子がいた。
四人の男に囲まれて壁に追い詰められているようだったけどまだ無事のようだ。
薄暗いのでよくわからないけれど、どうやら僕と同じくらいの年頃の子のようだった。
さて、どうしたものか。
鼻ピアスも合わせて男が五人。まともにケンカになったらどんな間違いが起こっても僕が勝てる見込みは万に一つもないといってよかった。
背も体格もそれ追って僕よりも大きい。柄も悪そうだ。
「ったく、なんだってんだよ。こっちはこれからこの勘違いした姫さんに自分の本当の実力ってやつをわからせてやんだからよ。くだらねぇことで時間くってんじゃねえぞ」
そう言いながらこっちにやってきたのは赤いスタジャンを着た男だった。面倒くさそうな表情をあからさまに浮かべながら鼻ピアスの頭を軽く叩いた。
「で? なによ? なんか用なわけ?」
「用というか……この路地に友達っていうか知り合いが入っていくのが見えたから、どうしたんだろうって様子を見に来ただけだけど」
友達か知り合いどころか、女の子が誰だかわからない状況だ。だけどなるべく自然に聞こえるように、平然と見えるように僕は嘘をついた。
すると思いっきり笑われてしまった。
「おいおい聞いたかよ。このガキそいつの友達だってよ」
「はあ、こいつに友達いるのかよ」
「そりゃ傑作だ」
「この女に友達がいるだなんて、そんな話初めて聞いたぜ」
馬鹿にされているのは僕じゃなかった。
不良たちは女の子に向かって嘲笑をあびせていた。本当に馬鹿にしたように面白おかしく笑い声をあげていた。
女の子は何も言わない。
暗くてよくわからないけど、女の子も僕に気がついたようだった。驚いたような気配が伝わってきた。
「おい兄ちゃんよ。あいつにゃ友達なんているわけないんだ。なにせあいつは鬼の面をかぶった悪魔みたいなやつだからな。だから兄ちゃんの見間違い。人違いさ。わかったらとっとと帰りな」
鼻ピアスはそう言って向こうへ行けとばかりに顎をしゃくった。
僕はわけがわからなかった。
なんなんだろう。この状況はいったいどういうわけだ。
あの女の子は誰なんだ。
「それともちょっと痛い目に合いたいっていうマゾなわけ?」
自分のセリフに鼻ピアスはのけぞるように大笑いした。笑いだしたら止まらないといった感じで涙まで浮かべている。
何がそんなにおかしいんだ。
「別におまえが財布を置いていきたいってんなら遠慮はいらねえぜ。お礼に殴って干し言ってんならいつでも相手をしてやるよ。なあ」
仲間を振り返って鼻ピアスはおどけてみせる。
ここしかない。
それに実は少しばかり頭にもきていた。
僕に対して何の警戒もしていない鼻ピアスを両手で思いっきり突き飛ばした。
「うわっ!」
情けない悲鳴をあげて鼻ピアスが吹っ飛んでいく。油断しまくりなうえに、ポケットに手を突っこんでいるままの状態なので踏ん張りもきかないのだろう。おもしろいくらいあっけなく鼻ピアスは地面に転がった。
それをのんびりと眺めている暇はない。
鼻ピアスのすぐ近くにいたスタジャンに肩からのタックルをしかけた。
鼻ピアス同様、無警戒だったスタジャンの胸にうまくタックルが決まる。そのままの勢いでスタジャンを壁に押し付けた。
「グッ! カッはぁ! グフッ」
壁と僕に挟まれた衝撃でスタジャンは息を吐き出し、胸を押さえて咳込み始めた。
まさか僕から仕掛けるとは誰も思っていなかったはずだ。残りの三人は唖然とした様子で棒立ちになっていた。
「さあ、今のうちに!」
不良たちの間を駆け抜けて女の子に走り寄る。
あれ、この子……。
見覚えがあるような……。
でも今は細かいことを考えている場合じゃない。ここから逃げなければ。
女の子は右手に荷物を持っていた。だから僕は左手をつかんだ。
いかにも女の子らしい小さな手だった。
ここまではうまくいっている。
あとは彼女をここから連れ出すだけ。あとはとにかく走るだけだ。
不良たちが正気を取り戻す前にすべてを終わらせなければならない。
女の子の手をひいて僕は走り出す。
「いってぇ! なにしやがるんだこんちきしょう!」
地面に転がる鼻ピアスが叫んでいる。
「あ、待ちやがれ!」
「逃がすな!」
「追いかけろ!」
鼻ピアスの叫び声で他の奴らの金縛りも解けてしまったみたいだ。
後ろを確認すると不良たちがものすごい形相を浮かべて追いかけてくる。
女の子は……女の子は……なぜか戸惑ったような表情を浮かべていた。
あれ、この女の子って……やっぱり……。
僕も戸惑ってしまった。
私服だったから一瞬分からなかったけれど、僕は彼女を知っていた。
そして彼女はある意味、とても有名人だった。
それよりも今は逃げ切らないとだ。
駅前通りまでいけば、人もたくさんいるしお店もある。駅までいければ交番もある。
そこまでいけば不良たちも追ってこないだろう。
「コラ待てや! 逃げるのか鬼姫!」
鬼姫という不良の怒鳴り声を聞いて僕は間違いじゃないことがわかった。
「やっぱり親の七光りってわけかぁ!」
「卑怯者が!」
怒声が追いかけてくる。
抵抗することなく手を引かれるままについてきていた女の子が急に立ち止まった。
「おっとととと……」
つないでいた手が離れてしまう。全力疾走だったのだ。僕は急に止まれなくて何歩かたたらを踏んでしまった。
女の子は静かにたたずんでいた。
スリムのジーンズに白地のTシャツ、濃いブルーのワークジャケットという姿だった。
色白で凛とした顔立ちで黒くて長いストレートの髪の毛を首のあたりで結んでいる。ごくごく普通の格好だ。
「すぐ終わります。少し待っていてください」
女の子は持っていた荷物を地面に落とすと、もと来た方へ身体を向けた。荷物は僕がさっきまでいた本屋の水色のビニール袋だった。
そうか、彼女も僕と同じ本屋からの帰り道だったのか。
不良たちが向かってくる。だけど僕はもう心配していなかった。
彼女が噂通りなら何の心配もない。というか僕は余計なことをして彼女の邪魔をしてしまったのではないだろうか。
彼女の噂はたくさんある。
そしてそのほとんどが事実だと言われている。
その中で最も有名なのが、鬼塚姫乃はやくざの娘であるということ。
口よりも先に手が出る武闘派だということ。
今までに何人もの不良を病院送りにしているということ。(その中にはただの不良じゃなくて暴力を本職にしている人々も含まれているとかいないとか)
鬼塚姫乃に手を出した人間はただでは済まないということ。
というわけでついたあだ名が「鬼姫」という彼女の名前をもじったものだった。
実際、学校では教師も含めて誰も彼女に寄り付かないし、彼女も誰かに近寄ったりしない。
不良も避ける恐怖の存在だった。
そして実は僕はクラスメートだったりした。
家もそんなに離れていなかったりする。彼女の家は有名なのだ。
でも今まで一度も話したことはなかった。
別に無視していたわけじゃない。話す機会がなかっただけだ。
違うかな。言い訳かもしれないけど、同じクラスだと言っても接点がなかったのだ。
とにかく彼女は半端なく強くて怖いらしい。
それだけは事実だった。
鬼塚姫乃は不良たちに向かって走り出した。躊躇なく走り出した。
不良たちは五人。それに一人で平然と向かっていく。
はじめに追いかけてきたのは、無傷の三人だった。それだって並んで一緒に近づいてきているわけじゃなくて、足の速さもあるのだろうけどバラバラだった。
先頭は坊主頭の背の高い男だ。その後ろに夜だというのにサングラスをかけたやつ、ほぼ並ぶような間隔で金髪の男が続いていた。鼻ピアスはその集団から少し離れた位置にいる。さすがにポケットからは手を出しているようだ。
スタジャンはようやく路地から出てきたところだった。まだ胸を押さえているところをみると、僕のタックルは会
心の一撃だったらしい。
「このくそアマが!」
芸のない怒鳴り声と共に坊主頭が殴りかかった。走りながらの大雑把な右ストレートだ。
案の定彼女は簡単に坊主頭のパンチをよける。それどころか坊主頭の伸びきった右手の手首を左手で掴んで引っ張った。同時に右の掌低を下から上に突き上げるようにして坊主頭の顎に叩き込んだ。
坊主頭の頭がガクンとぶれる。下手したら顎の骨が折れたんじゃないかと思えるくらいの衝撃を与えたようだった。
それだけで坊主頭の身体から力が抜ける。一発で意識を刈り取られえしまったようだ。
それでも彼女は坊主頭の身体を離さなかった。力が抜けて崩れ落ちそうな坊主頭の身体を、掴んでいた右腕を軸にして回転させるように後ろにいたサングラスに向かって投げ飛ばす。
「な、なにし……」
坊主頭とサングラスが抱き合うように正面からぶつかる。そして坊主頭の背中を踏み台のようにして飛び上がると、サングラスの顔面にひざ蹴りをお見舞いした。
それどころか勢いをそのまま利用して身体を反転させると、横にいた金髪の顔面しかも鼻の部分に後ろ回し蹴りで踵を叩きこんだ。
見事すぎる空中殺法だった。
彼女が地上に降り立った時、三人の男が地面に倒れこんでいた。
ほとんど一瞬の出来事だった。
見ていてほれぼれするような連続技だ。
完全な傍観者となっている僕は感動する余裕があったけれど、当事者である鼻ピアスはあまりのあっけなさに茫然としている。
「う、ウソだろ……」
鬼塚姫乃は止まらない。休む間もなく彼女は鼻ピアスに向かって走り寄る。
「チ、チッキショー!」
鼻ピアスはヤケクソ気味に殴りかかった。僕から見ても坊主頭よりも数段落ちる右ストレートだった。当然というかなんというか、鼻ピアスは簡単に右腕をとられてしまった。そして彼女は身体を鼻ピアスの懐に潜り込ませると腕を掴んで投げ飛ばした。いわゆる一本背負いというやつだ。鼻ピアスの身体が宙を舞う。スピードの乗ったきれいな投げ技だった。
「―――ッ!」
受け身もとれずに背中から地面にたたきつけられた鼻ピアスは声も出ないようだ。
その鼻ピアスの頭を、鬼塚姫乃は躊躇なく蹴とばした。
うめいていた鼻ピアスが動かなくなる。
「……おいおい」
この容赦のなさが鬼姫の由来か。
最後に残った一人、スタジャンは戦意をすっかり失ってしまったようだ。
胸を押さえたまま立ち竦んでいる。
鬼塚姫乃はスタジャンに近づいていく。整然としっかりとした足取りで、まるで何事もなかったかのようにスタスタという感じでスタジャンに歩み寄った。
「待ってくれ! 俺たちが悪かった。あんたに手を出すなんて俺たちがどうかしていた。あんたを倒して名を上げようなんて間違ってた。あんたの強さは本物だってことはよくわかったから。もう二度とあんたの前には姿を現さないから。だから許してくれ。なあ頼むよ。金も置いていくし、なんだったら金を集めてあんたに上納したっていい。だから――だから、なあ頼むよ。俺たちが悪かった……」
鬼塚姫乃は問答無用でスタジャンの鳩尾にアッパー気味のボディブローをお見舞いした。
「グフッ……」
スタジャンの身体がくの字に折れ曲がる。頭の位置が彼女の胸の前まで落ちてくると、とどめとばかりに首のあたりに手刀を打ち込んだ。
スタジャンはもう声を上げることもなく地面へと倒れこんだ。
動かない不良たちの身体が五つ、あっという間に地面に転がっていた。
五人を倒す間、彼女はずっと無言だった。何も言わずに躊躇も容赦もしないであっさりと倒してしまった。
鬼塚姫乃は不良たちが動かないのを確認すると僕の方を振り返った。
息一つ乱れていない。男五人を相手に格闘したとは信じられないくらい平然としていた。最初に見たときと変わっているところといえば、後ろで束ねてあった長い髪の毛が肩のあたりにかかっているところくらいか。
軽く頭を振って彼女は髪の毛を後ろに払った。
そして僕の方に歩いてくる。
正直少し怖かった。
「えっと……」
この場合、僕はどうしたらいいのだろう。
とりあえず彼女が落としていった本屋のビニール袋を拾ってみた。落ちた時の衝撃のせいか中の本がビニール袋から飛び出していた。
本のタイトルが見える。
そこには、
「よろこんでもらえるお弁当の作り方!」
と書いてあった。
「……えっと」
なんというか意外だった。
意外すぎる。たった今の一方的なバトルを見て「鬼姫」という二つ名は伊達じゃないということがわかったばかりだ。それも容赦もなく圧倒的に強いということもわかった。
噂以上だと思った。
それが料理?
それも「よろこんでもらえるお弁当の作り方」という女の子すぎる料理本とは……。彼女の噂の中で料理がうまいとか家庭的だというのはなかったと思うけど……。
気がつくと彼女は僕の目の前に戻ってきていた。
少し頬が上気しているように見える。簡単に倒したように見えたけど、やっぱり少しは体温も上がっているのだろうか。
「あの、加藤さん。ありがとうございました」
いきなりお礼を言われてしまった。
そして鬼塚姫乃さんが僕のことを知っているらしいことに驚いた。
僕はよっぽど驚いた顔をしていたらしい。彼女は鬼姫らしからぬ自信なさげな様子で訊ねてきた。
「加藤優太さんで間違っていないですよね?」
僕は戸惑いっぱなしだ。
鬼塚姫乃さんの話し方は鬼姫のイメージとはかけ離れていて優しげで丁寧だった。さっきのバトルを見た後だけにとても違和感があった。
「あの……」
「あ、はい、加藤優太で間違いないけれど……でもあれ? なんで僕の名前を知っているの?」
僕の疑問に彼女はうろたえたように辺りを見回すという不審な行動をとってから、何か思いついたように両手を胸の前で合わせた。
「だって、その、ほら、クラスメートじゃないですか!」
驚いた。びっくりして固まってしまうくらい驚いた。
そんな僕に彼女はどことなく不安そうな表情を向けてくる。それに僕はまた驚く。学校での彼女はいつも無表情だからだ。こんなにいろいろと表情を変える鬼姫の姿ははじめて見る。といっても僕はほとんど噂でしか彼女のことを知らないのだけれども。
「……だよね」
僕は誤魔化すように笑みを浮かべた。
それにしても彼女からクラスメートと認識されていたとは驚きだ。彼女は学校のことなんて無関心だと思っていたからだ。それに僕はクラスの中でそこまで目立つほうじゃない。
でも考えてみればクラスこそ一緒になったことはなかったけれど、小、中、高と同じ学校だったっけ。だったらいくら無関心だって名前くらいは知っていてもおかしくないか。
とりあえず今はそれで納得しておくことにしよう。
「それであの、助けていただいて本当にありがとうございました」
と、彼女、鬼塚姫乃さんは改めてお礼を言うと僕に向かって頭を下げた。
なんか調子が狂うな。それに、
「助けたっていうか、逆に邪魔しちゃったというか迷惑かけちゃったんじゃないかな?」
「いえ、そんなことはありません! 加藤さんのおかげで楽に倒すことができましたから」
「……そうなの?」
「はい! 一対多数で戦う場合、いかに状況を一対一に持ち込めるかが勝負の分かれ目ですから。例えば今回みたいにはじめ逃げて、相手がバラバラに追ってきたところを先頭の一人ずつ倒すという方法があります。人の脚力はそれぞれですから、どうしても逃げた相手を追いかけようとすればバラつきが出てきます。そこで先頭の一人を倒し、また逃げ出し、次の先頭の一人を倒すというようにすれば楽に戦いを進めることができます。今回の相手は大したことがなかったのであっさり方がつきましたが。これも加藤さんが相手の気をひいて私をあの場所から連れ出してくれたおかげですよ」
「まあ、少しでも役に立てたならそれでいいけど……」
僕が変にちょっかいを出さなくてもあの感じだったらあっさり返り討ちにしていたような気もするけど、助かったと言ってくれるのだしよしとしよう。
「それにわたしは、その、誰かに助けてもらったということが今までなかったのでとてもうれしかったです」
おや?
「それと、わたしのことを、と、とも、その、友達と言ってもらえたことはとてもとても、言葉では言い表せないくらい、うれしかったです」
おやおや?
「あの場に加藤さんが現われて、わたしのことを友達だからと心配してくれて……わたしには……友達はいないと思っていたので……。加藤さんに友達だと思ってもらえていたなんて感激です」
おやおやおや?
僕の目の前には鬼姫こと鬼塚姫乃さんが頬を赤くして立っている。感激といった彼女の言葉は嘘じゃないようで瞳を潤ませていて今にも泣き出しそうな雰囲気だ。
あれれ?
なんだかおかしな方向に話が進んでいるぞ。僕の中の鬼姫のイメージがどんどんと崩れていく。僕の知っている鬼姫はもっとクールなはずだ。
それに、重大な問題がある。
彼女はものすごい勘違いをしている。
とんでもない勘違いだ。
だって僕は鬼塚姫のだと知っていて助けに入ったわけじゃないのだから。
彼女が鬼姫だと気付いたのは連れ出してからだし。
もし最初から裏路地に連れ込まれた女の子が鬼塚姫のだとわかっていたら、様子はうかがったかもしれないけど手出しはしなかったかもしれない。
でも言えない。
学校では無表情で感情がないんじゃないかと思えるくらいなのに、僕の前で嬉しそうにしている鬼塚姫乃さんにそれが勘違いだなんてとてもじゃないけど訂正できない。できるわけがないじゃないか。
今の僕の顔はひきつっていると思う。
だけどそれでも無理矢理笑みを浮かべて僕は答えた。
「だって僕たちクラスメートだしね」
鬼塚姫乃さんはうれしそうにほほ笑んだ。
笑顔なんて初めて見た。
そして僕はその笑顔に見惚れてしまった。
僕は適当にマンガ雑誌を立ち読みして、お気に入りのマンガの新刊が出ていたのでそれを購入して家へと帰る途中のことだった。
本屋には思ったよりも長居をしてしまって、外に出た時にはもう明るかった空もすっかり暗くなってしまっていた。
明るくて人通りも多い駅前の通りから一本入った裏道へ自転車を走らせる。駅前通りと比べると人通りも少ないし暗い感じもするけれど、逆に自転車はスイスイこぎやすい。
春も終わりかけの五月半ば、寒くもなく暑くもなく気持ちのいい夜だ。
彼女たちを見つけたのは大型パチンコ店の駐車場から死角になるようにある街灯もないくらい裏路地だった。
ストリートファッション系のいかにもな男達に囲まれて一人の女の子が裏路地に連れ込まれようとしていた。
それだけでもただ事じゃない。
人通りが少ないといってもまったくないわけじゃない。僕と同じようにその光景に気がついた人もいたはずだ。けれども誰も気にした様子もなく通り過ぎて行った。
パチンコ店の方にも人影はあるのに誰も気にしない。
僕も迷った。
正直迷ったよ。
このまま家に帰っても今日は少しの罪悪感なんかでテンションはさがるだろうけど、明日になれば、長くても何日かすれば忘れてしまうはずだ。
忘れちゃうはずだ。
もしかしたら仲良しグループだっていう可能性もある。
それでも僕は自転車を止めていた。
子供のころ、強い男にあこがれていた。
かっこいい男になりたかった。
中学に入った僕は、近所の空手道場に通ったりしたものだった。
僕はいわゆる中肉中背というやつで、身長は高くも低くもない一七三センチ。体重も六五キロと身長に対してぴったりなくらいだ。
背が高いわけでも低いわけでもなく、太っているわけでも痩せているわけでもない標準的な普通の子。
それが僕だ。
運動だって得意じゃないけれど、不得意ってわけでもない。
頭の方もそれなりだ。
みんな普通。
だから強くなりたかったのだと思う。単純にヒーローにあこがれていたんだと思う。
格闘技に夢を見たんだ。
毎日のように空手道場に通って、いっぱい練習して、でも僕は強くなれなかった。
空手の師匠曰く「これっぽッちも才能がない」らしかった。
全然上達しない僕の胸を思い切り叩きながら師匠は言ったものだ。
「男気っていうのは、男の強さってのは腕っ節に宿るんじゃない。ここに宿るんだ」
胸を叩かれてむせる僕の背中を何度も何度も手のひらで叩きながら、女性である師匠は笑い声をあげていた。言われた時はただ単に僕を慰めてくれているだけだろうと思っていたけれど、今この瞬間になんとなくわかった気がする。
つまりあれだ。
義を見てせざるは勇無きなり。
というやつだ。
腕っ節は強くなれなかったけれども、道場に通っていて一つだけ免疫というか耐性というか慣れてしまったことがある。
それは師匠をはじめ先輩方などなどなど、本当に強くて怖い人、でも優しいんだけど、そんな人たちに囲まれていたおかげで、そこら辺の不良なんかに絡まれたとしても身がすくむというようなことがなくなったということだ。なんといっても不良なんかよりも何倍も怖い人たちに殴られて蹴られて投げ飛ばされてきたのだから。
裏路地の入口に男が一人通せんぼをするように立っていた。
見張りなのだろうけど、両手をポケットに突っ込んでガムを噛んでいるといういかにもな姿はどうなんだろう。目立つ特徴は鼻のピアス。薄暗い路地でも目立っていた。
まっすぐと路地に向かって歩いていく僕の存在を鼻ピアスはなかなか認識してくれなかった。
鼻ピアスにすれば僕の存在なんて通行人Aと同じなのかもしれない。
それでもどんどんと路地に近づいていくと、さすがに鼻ピアスも僕のことを無視できなくなってきたみたいで、ガラの悪い目つきで上から下、下から上へと視線を這わせるようにして睨みつけてきた。けれども両手はまだポケットに入れたままだ。
完全になめきっている態度だった。僕のことなんて眼中になくて睨みつければそれだけで視線をそらして逃げていく、そう思っているはずだ。
僕は目をそらさない。まっすぐ鼻ピアスに視線を固定して裏路地に向かって歩いていく。
「おいおい兄ちゃん。こっから先は通行止めだぜ」
「……」
「おい、聞こえねえのか? あっちにいけってんだよ!」
お決まりのセリフにお決まりの行動だ。鼻のピアスがくっつくくらいに顔を近づけてきて、覗き込むように僕を睨みつける。
いい気分はしない。こういうタイプの人と長時間見つめ合っていてもいいことは何一つないわけだから、思わず目をそらしたくなってしまう。けれどもここは我慢というわけで、僕は鼻ピアスとお見合いを続けた。
「てめえ、この野郎! ガンつけてんじゃねえぞ」
「………」
僕が無言でいるとあっという間に鼻ピアスの忍耐に限界がきたようだった。
それでもポケットから手を出さないのは、鼻ピアスのプライドか、それとも僕のことをまったく持って脅威に感じていないせいか。
たぶん後者なんだろうな。
「どうかしたんか?」
鼻ピアスの後ろから問いかける声が聞こえてきた。
「いやさ、変なガキがいてよぉ」
「変なガキ? んなもんとっとと追っ払っちまえよ」
鼻ピアスの答えに面倒くさそうな声と返事が返ってきた。
「それがよ、わけわかんねぇンだよ」
困ったような声を出して、鼻ピアスは後ろを振り返る。
本当に僕は眼中にないらしい。いくら僕に格闘技のセンスがまるっきりなかったとしても、ポケットに手を突っこんだまま身体をひねって後ろを向いている状態の鼻ピアスぐらい倒せるはずだ。いくらなんでも油断のしすぎじゃないか。
ある意味チャンスだった。でも奇襲をかけて鼻ピアスを倒したところで状況がわからないのでは仕方がない。
その状況も鼻ピアスの頭が動いたことで、ようやく裏路地の様子が見えた。
女の子がいた。
四人の男に囲まれて壁に追い詰められているようだったけどまだ無事のようだ。
薄暗いのでよくわからないけれど、どうやら僕と同じくらいの年頃の子のようだった。
さて、どうしたものか。
鼻ピアスも合わせて男が五人。まともにケンカになったらどんな間違いが起こっても僕が勝てる見込みは万に一つもないといってよかった。
背も体格もそれ追って僕よりも大きい。柄も悪そうだ。
「ったく、なんだってんだよ。こっちはこれからこの勘違いした姫さんに自分の本当の実力ってやつをわからせてやんだからよ。くだらねぇことで時間くってんじゃねえぞ」
そう言いながらこっちにやってきたのは赤いスタジャンを着た男だった。面倒くさそうな表情をあからさまに浮かべながら鼻ピアスの頭を軽く叩いた。
「で? なによ? なんか用なわけ?」
「用というか……この路地に友達っていうか知り合いが入っていくのが見えたから、どうしたんだろうって様子を見に来ただけだけど」
友達か知り合いどころか、女の子が誰だかわからない状況だ。だけどなるべく自然に聞こえるように、平然と見えるように僕は嘘をついた。
すると思いっきり笑われてしまった。
「おいおい聞いたかよ。このガキそいつの友達だってよ」
「はあ、こいつに友達いるのかよ」
「そりゃ傑作だ」
「この女に友達がいるだなんて、そんな話初めて聞いたぜ」
馬鹿にされているのは僕じゃなかった。
不良たちは女の子に向かって嘲笑をあびせていた。本当に馬鹿にしたように面白おかしく笑い声をあげていた。
女の子は何も言わない。
暗くてよくわからないけど、女の子も僕に気がついたようだった。驚いたような気配が伝わってきた。
「おい兄ちゃんよ。あいつにゃ友達なんているわけないんだ。なにせあいつは鬼の面をかぶった悪魔みたいなやつだからな。だから兄ちゃんの見間違い。人違いさ。わかったらとっとと帰りな」
鼻ピアスはそう言って向こうへ行けとばかりに顎をしゃくった。
僕はわけがわからなかった。
なんなんだろう。この状況はいったいどういうわけだ。
あの女の子は誰なんだ。
「それともちょっと痛い目に合いたいっていうマゾなわけ?」
自分のセリフに鼻ピアスはのけぞるように大笑いした。笑いだしたら止まらないといった感じで涙まで浮かべている。
何がそんなにおかしいんだ。
「別におまえが財布を置いていきたいってんなら遠慮はいらねえぜ。お礼に殴って干し言ってんならいつでも相手をしてやるよ。なあ」
仲間を振り返って鼻ピアスはおどけてみせる。
ここしかない。
それに実は少しばかり頭にもきていた。
僕に対して何の警戒もしていない鼻ピアスを両手で思いっきり突き飛ばした。
「うわっ!」
情けない悲鳴をあげて鼻ピアスが吹っ飛んでいく。油断しまくりなうえに、ポケットに手を突っこんでいるままの状態なので踏ん張りもきかないのだろう。おもしろいくらいあっけなく鼻ピアスは地面に転がった。
それをのんびりと眺めている暇はない。
鼻ピアスのすぐ近くにいたスタジャンに肩からのタックルをしかけた。
鼻ピアス同様、無警戒だったスタジャンの胸にうまくタックルが決まる。そのままの勢いでスタジャンを壁に押し付けた。
「グッ! カッはぁ! グフッ」
壁と僕に挟まれた衝撃でスタジャンは息を吐き出し、胸を押さえて咳込み始めた。
まさか僕から仕掛けるとは誰も思っていなかったはずだ。残りの三人は唖然とした様子で棒立ちになっていた。
「さあ、今のうちに!」
不良たちの間を駆け抜けて女の子に走り寄る。
あれ、この子……。
見覚えがあるような……。
でも今は細かいことを考えている場合じゃない。ここから逃げなければ。
女の子は右手に荷物を持っていた。だから僕は左手をつかんだ。
いかにも女の子らしい小さな手だった。
ここまではうまくいっている。
あとは彼女をここから連れ出すだけ。あとはとにかく走るだけだ。
不良たちが正気を取り戻す前にすべてを終わらせなければならない。
女の子の手をひいて僕は走り出す。
「いってぇ! なにしやがるんだこんちきしょう!」
地面に転がる鼻ピアスが叫んでいる。
「あ、待ちやがれ!」
「逃がすな!」
「追いかけろ!」
鼻ピアスの叫び声で他の奴らの金縛りも解けてしまったみたいだ。
後ろを確認すると不良たちがものすごい形相を浮かべて追いかけてくる。
女の子は……女の子は……なぜか戸惑ったような表情を浮かべていた。
あれ、この女の子って……やっぱり……。
僕も戸惑ってしまった。
私服だったから一瞬分からなかったけれど、僕は彼女を知っていた。
そして彼女はある意味、とても有名人だった。
それよりも今は逃げ切らないとだ。
駅前通りまでいけば、人もたくさんいるしお店もある。駅までいければ交番もある。
そこまでいけば不良たちも追ってこないだろう。
「コラ待てや! 逃げるのか鬼姫!」
鬼姫という不良の怒鳴り声を聞いて僕は間違いじゃないことがわかった。
「やっぱり親の七光りってわけかぁ!」
「卑怯者が!」
怒声が追いかけてくる。
抵抗することなく手を引かれるままについてきていた女の子が急に立ち止まった。
「おっとととと……」
つないでいた手が離れてしまう。全力疾走だったのだ。僕は急に止まれなくて何歩かたたらを踏んでしまった。
女の子は静かにたたずんでいた。
スリムのジーンズに白地のTシャツ、濃いブルーのワークジャケットという姿だった。
色白で凛とした顔立ちで黒くて長いストレートの髪の毛を首のあたりで結んでいる。ごくごく普通の格好だ。
「すぐ終わります。少し待っていてください」
女の子は持っていた荷物を地面に落とすと、もと来た方へ身体を向けた。荷物は僕がさっきまでいた本屋の水色のビニール袋だった。
そうか、彼女も僕と同じ本屋からの帰り道だったのか。
不良たちが向かってくる。だけど僕はもう心配していなかった。
彼女が噂通りなら何の心配もない。というか僕は余計なことをして彼女の邪魔をしてしまったのではないだろうか。
彼女の噂はたくさんある。
そしてそのほとんどが事実だと言われている。
その中で最も有名なのが、鬼塚姫乃はやくざの娘であるということ。
口よりも先に手が出る武闘派だということ。
今までに何人もの不良を病院送りにしているということ。(その中にはただの不良じゃなくて暴力を本職にしている人々も含まれているとかいないとか)
鬼塚姫乃に手を出した人間はただでは済まないということ。
というわけでついたあだ名が「鬼姫」という彼女の名前をもじったものだった。
実際、学校では教師も含めて誰も彼女に寄り付かないし、彼女も誰かに近寄ったりしない。
不良も避ける恐怖の存在だった。
そして実は僕はクラスメートだったりした。
家もそんなに離れていなかったりする。彼女の家は有名なのだ。
でも今まで一度も話したことはなかった。
別に無視していたわけじゃない。話す機会がなかっただけだ。
違うかな。言い訳かもしれないけど、同じクラスだと言っても接点がなかったのだ。
とにかく彼女は半端なく強くて怖いらしい。
それだけは事実だった。
鬼塚姫乃は不良たちに向かって走り出した。躊躇なく走り出した。
不良たちは五人。それに一人で平然と向かっていく。
はじめに追いかけてきたのは、無傷の三人だった。それだって並んで一緒に近づいてきているわけじゃなくて、足の速さもあるのだろうけどバラバラだった。
先頭は坊主頭の背の高い男だ。その後ろに夜だというのにサングラスをかけたやつ、ほぼ並ぶような間隔で金髪の男が続いていた。鼻ピアスはその集団から少し離れた位置にいる。さすがにポケットからは手を出しているようだ。
スタジャンはようやく路地から出てきたところだった。まだ胸を押さえているところをみると、僕のタックルは会
心の一撃だったらしい。
「このくそアマが!」
芸のない怒鳴り声と共に坊主頭が殴りかかった。走りながらの大雑把な右ストレートだ。
案の定彼女は簡単に坊主頭のパンチをよける。それどころか坊主頭の伸びきった右手の手首を左手で掴んで引っ張った。同時に右の掌低を下から上に突き上げるようにして坊主頭の顎に叩き込んだ。
坊主頭の頭がガクンとぶれる。下手したら顎の骨が折れたんじゃないかと思えるくらいの衝撃を与えたようだった。
それだけで坊主頭の身体から力が抜ける。一発で意識を刈り取られえしまったようだ。
それでも彼女は坊主頭の身体を離さなかった。力が抜けて崩れ落ちそうな坊主頭の身体を、掴んでいた右腕を軸にして回転させるように後ろにいたサングラスに向かって投げ飛ばす。
「な、なにし……」
坊主頭とサングラスが抱き合うように正面からぶつかる。そして坊主頭の背中を踏み台のようにして飛び上がると、サングラスの顔面にひざ蹴りをお見舞いした。
それどころか勢いをそのまま利用して身体を反転させると、横にいた金髪の顔面しかも鼻の部分に後ろ回し蹴りで踵を叩きこんだ。
見事すぎる空中殺法だった。
彼女が地上に降り立った時、三人の男が地面に倒れこんでいた。
ほとんど一瞬の出来事だった。
見ていてほれぼれするような連続技だ。
完全な傍観者となっている僕は感動する余裕があったけれど、当事者である鼻ピアスはあまりのあっけなさに茫然としている。
「う、ウソだろ……」
鬼塚姫乃は止まらない。休む間もなく彼女は鼻ピアスに向かって走り寄る。
「チ、チッキショー!」
鼻ピアスはヤケクソ気味に殴りかかった。僕から見ても坊主頭よりも数段落ちる右ストレートだった。当然というかなんというか、鼻ピアスは簡単に右腕をとられてしまった。そして彼女は身体を鼻ピアスの懐に潜り込ませると腕を掴んで投げ飛ばした。いわゆる一本背負いというやつだ。鼻ピアスの身体が宙を舞う。スピードの乗ったきれいな投げ技だった。
「―――ッ!」
受け身もとれずに背中から地面にたたきつけられた鼻ピアスは声も出ないようだ。
その鼻ピアスの頭を、鬼塚姫乃は躊躇なく蹴とばした。
うめいていた鼻ピアスが動かなくなる。
「……おいおい」
この容赦のなさが鬼姫の由来か。
最後に残った一人、スタジャンは戦意をすっかり失ってしまったようだ。
胸を押さえたまま立ち竦んでいる。
鬼塚姫乃はスタジャンに近づいていく。整然としっかりとした足取りで、まるで何事もなかったかのようにスタスタという感じでスタジャンに歩み寄った。
「待ってくれ! 俺たちが悪かった。あんたに手を出すなんて俺たちがどうかしていた。あんたを倒して名を上げようなんて間違ってた。あんたの強さは本物だってことはよくわかったから。もう二度とあんたの前には姿を現さないから。だから許してくれ。なあ頼むよ。金も置いていくし、なんだったら金を集めてあんたに上納したっていい。だから――だから、なあ頼むよ。俺たちが悪かった……」
鬼塚姫乃は問答無用でスタジャンの鳩尾にアッパー気味のボディブローをお見舞いした。
「グフッ……」
スタジャンの身体がくの字に折れ曲がる。頭の位置が彼女の胸の前まで落ちてくると、とどめとばかりに首のあたりに手刀を打ち込んだ。
スタジャンはもう声を上げることもなく地面へと倒れこんだ。
動かない不良たちの身体が五つ、あっという間に地面に転がっていた。
五人を倒す間、彼女はずっと無言だった。何も言わずに躊躇も容赦もしないであっさりと倒してしまった。
鬼塚姫乃は不良たちが動かないのを確認すると僕の方を振り返った。
息一つ乱れていない。男五人を相手に格闘したとは信じられないくらい平然としていた。最初に見たときと変わっているところといえば、後ろで束ねてあった長い髪の毛が肩のあたりにかかっているところくらいか。
軽く頭を振って彼女は髪の毛を後ろに払った。
そして僕の方に歩いてくる。
正直少し怖かった。
「えっと……」
この場合、僕はどうしたらいいのだろう。
とりあえず彼女が落としていった本屋のビニール袋を拾ってみた。落ちた時の衝撃のせいか中の本がビニール袋から飛び出していた。
本のタイトルが見える。
そこには、
「よろこんでもらえるお弁当の作り方!」
と書いてあった。
「……えっと」
なんというか意外だった。
意外すぎる。たった今の一方的なバトルを見て「鬼姫」という二つ名は伊達じゃないということがわかったばかりだ。それも容赦もなく圧倒的に強いということもわかった。
噂以上だと思った。
それが料理?
それも「よろこんでもらえるお弁当の作り方」という女の子すぎる料理本とは……。彼女の噂の中で料理がうまいとか家庭的だというのはなかったと思うけど……。
気がつくと彼女は僕の目の前に戻ってきていた。
少し頬が上気しているように見える。簡単に倒したように見えたけど、やっぱり少しは体温も上がっているのだろうか。
「あの、加藤さん。ありがとうございました」
いきなりお礼を言われてしまった。
そして鬼塚姫乃さんが僕のことを知っているらしいことに驚いた。
僕はよっぽど驚いた顔をしていたらしい。彼女は鬼姫らしからぬ自信なさげな様子で訊ねてきた。
「加藤優太さんで間違っていないですよね?」
僕は戸惑いっぱなしだ。
鬼塚姫乃さんの話し方は鬼姫のイメージとはかけ離れていて優しげで丁寧だった。さっきのバトルを見た後だけにとても違和感があった。
「あの……」
「あ、はい、加藤優太で間違いないけれど……でもあれ? なんで僕の名前を知っているの?」
僕の疑問に彼女はうろたえたように辺りを見回すという不審な行動をとってから、何か思いついたように両手を胸の前で合わせた。
「だって、その、ほら、クラスメートじゃないですか!」
驚いた。びっくりして固まってしまうくらい驚いた。
そんな僕に彼女はどことなく不安そうな表情を向けてくる。それに僕はまた驚く。学校での彼女はいつも無表情だからだ。こんなにいろいろと表情を変える鬼姫の姿ははじめて見る。といっても僕はほとんど噂でしか彼女のことを知らないのだけれども。
「……だよね」
僕は誤魔化すように笑みを浮かべた。
それにしても彼女からクラスメートと認識されていたとは驚きだ。彼女は学校のことなんて無関心だと思っていたからだ。それに僕はクラスの中でそこまで目立つほうじゃない。
でも考えてみればクラスこそ一緒になったことはなかったけれど、小、中、高と同じ学校だったっけ。だったらいくら無関心だって名前くらいは知っていてもおかしくないか。
とりあえず今はそれで納得しておくことにしよう。
「それであの、助けていただいて本当にありがとうございました」
と、彼女、鬼塚姫乃さんは改めてお礼を言うと僕に向かって頭を下げた。
なんか調子が狂うな。それに、
「助けたっていうか、逆に邪魔しちゃったというか迷惑かけちゃったんじゃないかな?」
「いえ、そんなことはありません! 加藤さんのおかげで楽に倒すことができましたから」
「……そうなの?」
「はい! 一対多数で戦う場合、いかに状況を一対一に持ち込めるかが勝負の分かれ目ですから。例えば今回みたいにはじめ逃げて、相手がバラバラに追ってきたところを先頭の一人ずつ倒すという方法があります。人の脚力はそれぞれですから、どうしても逃げた相手を追いかけようとすればバラつきが出てきます。そこで先頭の一人を倒し、また逃げ出し、次の先頭の一人を倒すというようにすれば楽に戦いを進めることができます。今回の相手は大したことがなかったのであっさり方がつきましたが。これも加藤さんが相手の気をひいて私をあの場所から連れ出してくれたおかげですよ」
「まあ、少しでも役に立てたならそれでいいけど……」
僕が変にちょっかいを出さなくてもあの感じだったらあっさり返り討ちにしていたような気もするけど、助かったと言ってくれるのだしよしとしよう。
「それにわたしは、その、誰かに助けてもらったということが今までなかったのでとてもうれしかったです」
おや?
「それと、わたしのことを、と、とも、その、友達と言ってもらえたことはとてもとても、言葉では言い表せないくらい、うれしかったです」
おやおや?
「あの場に加藤さんが現われて、わたしのことを友達だからと心配してくれて……わたしには……友達はいないと思っていたので……。加藤さんに友達だと思ってもらえていたなんて感激です」
おやおやおや?
僕の目の前には鬼姫こと鬼塚姫乃さんが頬を赤くして立っている。感激といった彼女の言葉は嘘じゃないようで瞳を潤ませていて今にも泣き出しそうな雰囲気だ。
あれれ?
なんだかおかしな方向に話が進んでいるぞ。僕の中の鬼姫のイメージがどんどんと崩れていく。僕の知っている鬼姫はもっとクールなはずだ。
それに、重大な問題がある。
彼女はものすごい勘違いをしている。
とんでもない勘違いだ。
だって僕は鬼塚姫のだと知っていて助けに入ったわけじゃないのだから。
彼女が鬼姫だと気付いたのは連れ出してからだし。
もし最初から裏路地に連れ込まれた女の子が鬼塚姫のだとわかっていたら、様子はうかがったかもしれないけど手出しはしなかったかもしれない。
でも言えない。
学校では無表情で感情がないんじゃないかと思えるくらいなのに、僕の前で嬉しそうにしている鬼塚姫乃さんにそれが勘違いだなんてとてもじゃないけど訂正できない。できるわけがないじゃないか。
今の僕の顔はひきつっていると思う。
だけどそれでも無理矢理笑みを浮かべて僕は答えた。
「だって僕たちクラスメートだしね」
鬼塚姫乃さんはうれしそうにほほ笑んだ。
笑顔なんて初めて見た。
そして僕はその笑顔に見惚れてしまった。
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