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第二部 嗣子は鵬雛に憂う
第227話 黎明 其の二
しおりを挟む勅命は香彩の中で、見事な心の拠り所となった。どこか腹立だしい気持ちも確かにあったが、大義名分に出来ると思った。
凪いでしまった冷ややかな心は、そう簡単に戻ってくることはない。
だが『雨神の儀』までに出来ることをしようと思ったのもまた、事実だった。
(……ああでもいざとなれば)
朱門の茶屋で聞いた言葉が脳裏を過る。
(あの男達が言ってみたいに、お強請りとご奉仕をしてみればいい)
それで果たして雨神と雪神が願いを聞き入れ、召喚に応じてくれるのかは、甚だ疑問だ。だがこの身体の奥底、一番深いところにあるかもしれない極上の『術力』を探して暴くという遊戯というなら、狩猟本能の強い彼らは現れてくれるかもしれない。
くすりと香彩は笑う。
そうじゃないと、そんなの嫌だと嘆く心の悲鳴が、消されては凪いでいく。
僅かに燻る感情を誤魔化しながら、香彩はふと外から差し込む仄かな光を見た。
部屋の少し開いた引き戸から、皓々と月の光が差し込んで、灯りの灯していない部屋に長い影が出来ている。
香彩は除に立ち上がると部屋の引き戸と、中庭に出る為の障子戸を開けた。
月と夜空に染められた中庭と纏う空気が、何とも澄み渡った蒼色をしている。
その光に、空気に誘われるようにして、香彩は裸足のまま、中庭に降りた。
土と砂利、そして草の感触が何とも心地良い。
(……まだ早いのに)
目が覚めてしまったのかと、そんなことを思う。
だがもう眠れそうになかった。
兆しの雨、そして覚醒の颶風が吹いてから七日後の早朝。
まさに今日の朝こそが、『雨神の儀』の吉日とされる日だ。
あともう少しすれば、自分は叶からの勅命のままに、潔斎の場へ出仕しなければならない。
香彩は小さく息をついて笑うと、懐から正方形の布紙を取り出し、地に置いた。
右手の人差し指と中指とで中心を押さえ、左手は胸の前。精神を集中させて『力』が布紙に集まるようにする。
ほのかにだが、『力』が集まっていくような気がした。
見計らって。
震える唇から、紡がれゆく、言葉。
「……宿」
「動……」
「……翔」
「──行!」
『力』は……静かに、消え失せた。
式を呼ぶ術だ。
自分の影に控え、自分の思いのままに動かすことの出来る式達は、主を選ぶ。
今の主の『術力』の無さに、召喚に応じる理由など無いとでも思ったのだろうか。
(……『力』が戻らないまま)
勅命に従い儀式に挑むしかない愚かな自分を、どこかで嗤っているのだろうか。
「──本当にこの身一つ、捧げないといけないかも……ね」
くすくす、くすくすと。
香彩は己を嗤う。
凪いだ心は気付いていなかった。
自分自身の頬を伝う、静かな涙を。
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