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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第37話 竜紅人と紫雨 其の二
しおりを挟む毅い視線が身体中に突き刺さり、圧に押し潰されそうだと思った。彼が一体どんな表情をしているのか、頭を下げている為見ることは出来ない。
だが紫雨からすれば竜紅人のその要望は、有り得ないものだったに違いなかった。
今は雪神と雨神が、光の玉を抑えていてくれるからいい。だがいつ覚醒の颶風が吹くか分からない状況だ。なるべく早く成人の儀を済ませて、『術力』を安定させ、『核』と光の玉から『術力』を護りたい気持ちは良く分かる。
『力』の安定は心の安定にも繋がっている。特に『力』そのものを心の拠り所にしてきた香彩《かさい》にとっては、『力』が消えてしまうかもしれない事実を知るだけで、心が不安定になってしまうだろう。
紫雨は護りたいのだ。
香彩を。
その心と『力』を。
──苦しませることになるのなら、早い方がいいと思うがな。
先程の紫雨の言葉が脳裏に浮かんだ。
ぎっ、と奥歯を食い締める力が強くなる。
嫉妬と己の不甲斐なさに、竜紅人は床に付く拳を握り締めた。
護りたいのは自分も同じだ。
だが心の奥底、理性と欲望の境目のような深淵には、確かに昏い心が存在する。『核』と光の玉が結び付き、『力』を失ってもなお快楽に溺れながら、孕めとその胎内に熱を注ぎ続けたいと思う自分がいる。拠り所を、その存在意義を無くし、心不安定になってしまったあの深翠の虚ろう目が、自分だけを映してくれたのなら、どれほどの至福だろう。
この昏い感情が嫉妬からくるものだと、竜紅人は理解していた。そして本来であればゆっくりと心の準備をしてから挑む成人の儀を、早めるような事態を招いてしまったのは、全て己の嫉妬心と執着心だ。
桜香を生み出してしまったこと。
いずれ目の前の男に明け渡すのだと、心の隅で分かっていながらも嫉妬に駆られ、香彩を手酷く抱いたこと。そんな中で発情期に似た状態になって、無意識の内に胎内に『核』を埋め込んでしまったこと。
その『核』に光の玉が結び付こうとしていること。
桜香は竜紅人の分身のようなものだ。香彩の胎内に『核』があるのなら、それに惹かれるのは当然のことのように思える。
だがそれすらもいまの竜紅人にとって、嬉しい反面、忌々しくもあった。
(……何よりこんなこと考えてる俺が)
一番、忌々しい。
そして、不甲斐ない。
「香彩が目覚めたら俺から……説明する。『核』のことも……成人の儀式のことも……だから……!」
今だけは……!
ゆっくりと休ませてやってほしい。
竜紅人の口調が掠れる。
紫雨に訴える緊張さで、口の中の水分を全て持って行かれたような渇きを覚えた。
それ対して手の平は、じわりと汗を掻いている。汗を握り潰すように更に力を込めて拳を握り、竜紅人は頭蓋を床の上に圧し付けた。
どれほどの沈黙が流れたのか分からない。
耳が痛い程の静寂の中、頭上から降ってきたのは、深い深いため息だった。
「頭を上げろ竜紅人。お前は最近俺にどんな印象を持ってるんだ。濃厚なお前の神気の漂うこの場所で、しかも事後間もない相手に対して儀式を執り行うほど、鬼になったつもりはないんだがな」
紫雨のその言葉に、竜紅人は反射的に顔を上げた。
「──けどなるべく早い方がいいって紫雨が言っ……」
「お前が紫雨と呼ぶな。さっきも呼んでいただろう。背筋が冷たくなるからやめろ気色が悪い」
「はぁ!? 普段おっさん呼びすると怒るだろうがっ!?」
「別に怒ってなどいないさ。ただお前におっさんだと言われたくないだけだ」
「……なっ……!」
言いかけて竜紅人は口を噤む。
くつくつと笑いながら紫雨は、悠然と長い足を組み変え、立てとばかりに顎をしゃくった。
憮然とした表情を浮かべたまま、竜紅人が素直に立ち上がる。その様子を見ていた紫雨もまた、座っていた長椅子から立ち上がった。
ゆっくりとした動作で彼は、竜紅人の横を通り過ぎ、この部屋を出ようとする。
驚いて竜紅人は、敏速に紫雨の方へ向き直った。
「──っ、どこへ……っ!」
「帰る。俺の用はもう済んだ。ここへは先程あったことを、詳細に説明しに来ただけだ。なんせ蜜月のお前達のことだ。放っておくと、いつ中枢楼閣に戻ってくるのか分からんからな」
「……っ!」
言葉に詰まる竜紅人の様子に、紫雨は再び面白そうに、くつくつと笑う。
「手遅れになる前にと出向いたが……あまり無粋な真似はしたくないものだ。俺にお前への言伝と荷物を預けた療が、何とも憎らしい」
荷物……と竜紅人が口の中で小さく呟く。
「そこの卓子の上にある包みだ。療が持たせてくれた、香彩の着替えが入っている。と言っても、元は桜香の物だがな。療曰く、竜形のまま香彩を掴んで飛んでいった興奮冷め止らぬ『竜ちゃん』が、わざわざ人形に戻って丁寧に服を脱がすはずがない。きっと爪でびりびりにしている、だそうだ」
「……っ!」
背筋をぞくりとした冷たいものが、這い上がっていくような気がした。
低い声色で、療特有の竜紅人の呼び方でもある『竜ちゃん』をわざわざ強調して言う辺り、先程の意趣返しも含まれているのだろう。
だが図星なこともあって何も言えず、ただ嫌そうな表情を見せた竜紅人に、紫雨は質の悪い笑みを顔面に貼り付かせて近付く。
やけに距離が近いと思った刹那。
──俺の愛しい子供を、あまり啼かせてくれるな。
まるで揶揄うような殺気を含んだ、低い声色を耳に吹き込まれて、竜紅人は慄然として唾を呑んだ。
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