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act40 夏の気配

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「で、今日の地獄はどうだったの?」


匠が食後のミルクたっぷりのぬるい珈琲を啜りながら
面白そうに訊く。


ベートーヴェンのソナタ「悲愴」第1楽章みたいでした!

重々しく沈鬱なイントロから一気にクライマックスに駆け上がる曲だ。
短調ながら、大団円のカタルシスがある。


「ふーん、そうなんだ?」


虚を突かれて匠が曖昧な返事をするのは、
彼がクラッシックには疎いからである。
そして、生徒たちと最初で最後に心が通じ合ったあの瞬間の
余韻に浸りたい蛍子にはそのほうが好都合である。
まだ言葉にすることができないほど、情報はホットなのだ。
匠はいずれ襲い来る蛍子の言葉のシャワーを覚悟しないといけないことを
知っているので、敢えて聞き出そうともしない。
奥さんがご機嫌ならばそれでよい。
果たして蛍子は鼻歌混じりで匠の座るソファの隣に身を沈め、
黙ってコーヒー味のキスをねだった。
でも、今夜は軽いキスとハグだけ。
次の日にいくらでも寝坊ができる学生時代とは
わけが違う。
それでも蛍子は匠の腕の中で深い喜びに満ちていた。


子どもの頃観て、さっぱり意味のわからなかったあの映画の
テーマは、こういうことではなかったかしら。

匠の体温を感じながら、蛍子は今日起きたセレンディピティを
ひとりでゆっくり咀嚼し、反芻した。


あの地獄のような数時間はこの一瞬のためにあったのかもしれない。
だとしたら、報われた気分だ。

もうあんなクラス、二度とご免だけどね!

心の中で小さく毒づいてみたものの、もう生徒たちが
愛らしく思い出されて仕方がない。





そろそろ梅雨明けだろうか。
雨はぱらつくが、雲の切れ間から光が差している。

虹が出るといいのに

出不精の蛍子は特に雨の日が嫌いだ。
こんな不快指数の高い季節は、家でエアコンをかけて
ピアノでも弾いて過ごしていたい。
少しでも気分を上げたくて、傘をピンクにしているが、
今日は足取りは軽い。
蛍子はお気に入りの傘を揺らして、
水たまりを避けながら校門に向かう。


一昨日の興奮も冷めやらぬままに、
最後の授業である。

国際科の生徒たちは来年卒業し、恐らく大半は進学する。
ちょうど蛍子が匠と会った頃と同じ年になるわけだ。


こんな子どもだったのか。

蛍子は一抹の驚きをもって、親しみ深い視線を送ってくるクラスを眺める。
彼らもこれから蛍子と匠のような恋愛や失恋を経験していくのだろうか。
滞りなく課題を終え、もうじきチャイムが鳴るという頃合いで、
クラスで一番のイケメン君が、隣の女子生徒に突かれて立ち上がった。


「先生、短い時間でしたがお世話になってありがとうございました。
これからもダンナさんとラブラブで居てください!」

そうかしこまって、ノート型になった色紙を贈呈してくれた。

蛍子が礼を言うのに、声を詰まらせるとみんなで大喜びである。
感動の安売りが大好きだよね、若い子たちは、と苦笑いしつつも、
この心意気はうれしいものである。


気持ちのいい虚脱感に襲われながら、非常勤部屋で荷物をまとめ、
職員室に教材を返却し、教頭に挨拶をする。


「本当にお世話になりました。助かりました」

いつものように教頭が深々と頭を下げるのに、蛍子も倣う。


「また機会がありましたら、是非お願いします」

こちらこそ、と蛍子は満面の笑みで応えた。
嘘ではない。
すぐにでもやめたい、お給料に熨斗つけて返してもいいから、と
思っていたのに、喉元過ぎれば、というやつだろうか。
学校でしか得られない美しい体験というものがあることを、
蛍子は改めて知ってしまったのだ。

これだから、教師稼業はやめられない。

次の機会はいつになるかはわからない。
だが可能ならば、蛍子はこの学校の生徒たちと再びまみえたいと
心から思った。
この劇的な刺激を求めて。


よせばいいのにね

事務室で退職の手続きをしながら、蛍子は思う。


たいへんな仕事のほうが報酬感情が高いだけだよ

そうひとりごちた。


さあ。
いよいよこの学校ともお別れだ。
蛍子が玄関に向かうと、パタパタとスリッパの音が追ってきた。
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