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二十五 懐柔
しおりを挟む翠繍の食攻めはなおも数日続いた。五日目にもなってくると、さすがの紅鴛と楊楓も辛くなってくる。二人は終日じっと動かず、余計な体力を消耗しないよう努めた。
紅鴛にとってもう一つ気がかりだったのは、毒に蝕まれて内力の大半が失われてしまったことだった。内功はあらゆる武術の根幹だ。これ無くしては、牢を抜け出しても翠繍と渡り合えない。それどころか今の状態では、武林の二流の使い手にも劣るだろう。
紅鴛の知る限り、きちんと修行をしていれば内力が一時失われてもまた回復することが出来る。ところが翠繍から受けた毒は何か特殊な効力があるようで、消えた内力はいつまでも回復の兆しがなかった。解毒の後、何度か趺坐して一門の内功を試してみたが、これもうまくいかない。武当へ戻り、師匠達の知恵を借りて修行をやり直さない限り、もとには戻らないかもしれなかった。楊楓を不安にさせないため、このことは黙っていたが、武功が無くては手足をもがれたも同じで、不安は日に日に大きくなるばかりだった。
翠繍が食事を運んできた。やはり、紅鴛達には餅が一枚と水だけだ。もう一つの盆には白飯のお椀、肉と菜っ葉、干した小魚の小鉢がついている。言うまでもなく柯士慧の分だ。
「いつまで、こんなことを続けるつもりなんだ」
楊楓が食ってかかる。と、これまでは無視に徹していた翠繍が、淡い笑みを浮かべて答えた。
「どうして私に怒るの? あなた達で助け合えば済むことじゃなくて?」
そうして、ちらりと柯士慧へ流し目を送る。が、彼の方は盆を受け取るなり背を向け、黙々と飯をかき込み始めた。
翠繍が楊楓に応じたのは、この次の段階へ進めようと考えているからに違いない。紅鴛はそう判断して、自分も口を開いた。
「あなたの狙いは、私達と柯六侠を仲違いさせることだったのでしょう?」
「もう”士慧さん”と呼ぶのはやめたの?」
「質問に答えて」
紅鴛が声を強めると、翠繍は肩をすくめた。
「別に、何か考えがあったわけじゃないの。結果がそうなっただけ。柯六侠がどんな人間か、姉さんもよくわかったはずだわ」
「あなたが追い詰めなければ、こうはならなかったかもしれない」
「そう? 追い詰めた時にこそ、人の本性が出るものだって、私は思うわ。武術の腕がどれだけ立っても、人品まで保証してくれるわけではないのね」
「あなたが殊更に柯六侠を貶めるのは、彼に棄てられたから? だから私との縁談も壊そうとしたの?」
「私のしたことが誰のためかは、いずれ姉さんもわかってくれるわ」
きびすを返しかけたところで、楊楓が身を乗り出した。
「まだ俺の話が終わっていないぞ。いつまでこんなことを続けるんだ? 飢え死にするまでか?」
翠繍が振り向く。
「確かにね。私も、この先のことを考えてたの」
牢に近づくと、腰帯から鍵を抜いて錠を外した。これは予想外の行動で、紅鴛も楊楓も呆気にとられた。
「楊師弟、少し話があるから、ついて来て。姉さんはここで待ってちょうだい」
楊楓が一瞬、紅鴛を見た。力尽くで牢を抜け出す千載一遇の機会だ。姉弟子が飛び出すのを期待したのかもしれなかった。しかし、紅鴛は動かなかった。恐らく翠繍は、紅鴛が解毒をしても内力がまるで回復していないことをわかっている。そうでなくとも、今は飢えのせいで体力が無い。動くだけ、無駄だ。
紅鴛はそれよりも、もと妹弟子が楊楓を連れ出し、何を吹き込むつもりなのかが気になった。とはいえ、彼と一緒にこのまま牢へ閉じこもっていても、状況が良くなる見込みはない。ここは弟弟子が機転を利かしてくれることを祈って、送り出すべきだろう。紅鴛は頷いて、促した。
「行って。私は待っているから」
「はい」
楊楓が牢を出ると、翠繍はすぐに鍵をかけた。
そうして、二人は洞窟の奥へ消えていった。残された紅鴛は、餅と水で飢えを満たした。
柯士慧といえば、既に食事を終えて横になり、紅鴛達の話などまるで耳に入っていないかのようだった。
楊楓が連れてこられたのは、洞窟の奥にある部屋だった。どうやら翠繍が住まいとして使っているらしく、きちんと整えられた寝床と卓椅子が置かれている。棚には沢山の薬剤があり、きつい匂いを放っていた。殆どは毒の類いだろう。壁には剣や銀鞭などの得物が磨かれた状態で立てかけてある。体力が存分にあれば、隙を見て奪い取り、この裏切り者へ一太刀浴びせてやるのに……。
「どうぞ。座って」
翠繍がにっこり笑って椅子を示す。楊楓は従わず、立ったままだった。
卓上には白飯とおかずが置かれている。冷めてはいたが、見るだけで食欲をそそった。楊楓はちらっと見ただけで、すぐに目をそらした。翠繍は目敏く気がついて、また笑った。
「お腹が空いているでしょう。私の分だけど、良かったら食べて」
これまでとは打って変わり、まるで客人のような扱いだ。楊楓はむしろ警戒し、一層気を引き締めた。
「師姐が飢えているのに、俺だけが食うことは出来ない。それと、俺を呼んで何を企んでいるか知らないが、師姐の不利になるようなことは、絶対にしない。それだけは、先に言っておく」
「本当に、姉さんのことを大切にしてくれているのね」翠繍はこくこく頷いて、続けた。「あなたが姉さんの旅についてきてくれて、好都合だわ。これから頼むことは、あなたにしか出来ないと思っているから……」
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