武当女侠情剣志

春秋梅菊

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二十四 離間計

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 不意に、鉄格子ががたりと音を立てた。
 紅鴛と楊楓が振り向く。柯士慧の困惑と怒りに満ちた双眸が、こちらを見つめていた。
 これには紅鴛も動揺を隠せなかった。いつから意識を取り戻していたのだろう。先ほどの情事を見られただろうか。よしんば見ていなかったとしても、何が起きたかはわかったはずだ。紅鴛の髪は濡れ乱れ、着物もだらけている。狭い牢獄の空気は生ぬるく、汗の匂いで満ちていた。
「お……お前達、まさか……」
 紅鴛が口を開くより早く、楊楓が冷ややかに言った。
「何も驚くことはないでしょう。房中功法を使ったんです」
「貴様! この恥知らずが!」柯士慧が吠えた。「私の許嫁を、傷物にしたのか!」
「士慧さん、弟弟子を責めないで」
 紅鴛が横から言った。
「私が頼んだことなの」
「君が……?」
 紅鴛は理解させるように、また頷いた。
 柯士慧がわなわなと身を震わせ、いかにも軽蔑したというような眼差しを向ける。
「君なら、私のために操を守ってくれると思っていた。命惜しさに、弟弟子と恥知らずな真似をするなど……」
 楊楓がたまりかねた様子で口出しした。
「このまま徒に死んで、どうなったというんですか。生き延びて、あの裏切り者を倒してこそーー」
「黙れ、若造! 私の許嫁を汚した以上、貴様は私の敵だ。ここを出たら、必ず落とし前をつけてやる」
 楊楓は冷笑した。
「好きにしたらいいですよ。でも、忘れないで欲しいですね。あなたの右腕がまだぶら下がっているのも、師姐が生きているのも、僕が房中功法を使う決意をしたからだ」
「減らず口を叩くな! あの妖女が卑怯な取引を持ちかけてこなければ、許嫁を見捨てたりするものか」
「ええ。わかっていますよ。あなたの利き腕と師姐の命、どちらか選べというのは酷だ。だからあなたが師姐を抱いて解毒しなかったことも責めやしません。
 だけど、僕はもう、あなたが師姐を心から大事にしているとは思っていない。あの裏切り者が見せた手紙の一件もそうだし、結局利き腕を捨てる覚悟も示してはくれなかった。だから、許嫁を傷物にしたなんて口実で僕を責めて欲しくはありませんね。そんなことを言うなら、あなたが最初から姉弟子を抱いてくれれば良かったんだ」
「楊師弟、もういいわ」
 紅鴛が遮った。柯士慧が鉄格子を潰さんばかりに握りしめながら言う。
「ここを無事に出られたとして、貴様達の過ちは消えん。いずれこの手で清算してやる」
「あなたがわざわざ手を下す必要はありませんよ、柯六侠。僕は無事にここを逃げ延びたら、姉弟子の名誉のため自刃するつもりだ。責めは全てこの命で償う。必ず、そうします」
 楊楓は相手の頭へ言葉を刻みつけるように、力強く告げた。
 柯士慧は微かにたじろいだようだった。それから、苛立たしげに顔を背けた。


 半刻ばかりして、翠繍が食事を運んできた。
 鉄格子の隙間から差し出されたそれを見て、紅鴛と楊楓は目を丸くした。焼餅が一枚ずつと白湯の椀が二つだけだ。昨日までは盆の上に白い飯と幾つかのおかずがあった。
 一方の、柯士慧の方には、これまで通りのちゃんとした食事が届けられている。
 翠繍は何も言わずに去ってしまった。
 紅鴛と楊楓は顔を見合わせ、翠繍の真意をはかりかねながら、貧しい食事を口にした。これだけでは、とても空腹は満たされない。ただでさえ毒とその治療で体力を消耗した後なのだ。
 次の食事も、その次の食事も同じだった。このままだと、数日もすれば飢えに苦しむのがわかりきっていた。
 柯士慧は二人の窮状を見向きもせず、白飯とおかずを一人で平らげた。
 楊楓は背中越しに柯士慧を見て、ごくりと唾を飲んだ。向こうの膳には肉と魚が一匹、それに汁物もついている。
「私達を仲違いさせるつもりなのよ」紅鴛は、焼餅を少しずつちぎって食べながら、楊楓へ言った。「その先にどういう考えがあるのかわからないけれど、こちらが参るまで続けるつもりでしょうね」
「どうすればいいんでしょう?」
「いずれ、あの子の方から次の動きを見せるわ。今は忍耐強く辛抱するだけ」
 答えながら、最後の一欠片を口に含む。弟弟子の前では平静を装っていたが、内心では柯士慧がまるで助けを差し伸べようとしないことに失望していた。今の様子では、こちらから協力を持ちかけても応えてくれそうにない。
 紅鴛は柯士慧の態度にすっかり傷ついていた。過去に翠繍と痴情のもつれがあった程度は、まだ許すことは出来る。けれども、命の瀬戸際になって彼が自分の利き腕を惜しみ、また名誉や掟を理由に紅鴛が生き延びたことを責めたのは悲しかった。
 名誉のために生きて、死ぬ。それが武林の人間として正しいことは、頭でわかっている。紅鴛自身もずっとそうしてきた。師匠達にもそう教えられたからだ。
 けれども、楊楓の献身のおかげで生死をくぐり抜けてからというものの、この信念は揺らぎだしていた。
 ーー許嫁なのに、愛し合っていたはずなのに、士慧さんは私を助けてくれなかった。自分の利き腕や、武林での立場の方が大事だった……。
 ーー楊師弟は戒律を破った。私の身体を汚した。大きな過ちに違いない。でも、それは私への思いやりゆえにやってくれたことだ……。どうして、彼を責められるだろう? 
 紅鴛はこの時から少しずつ考え始めるようになった。人の情が、掟や名誉に勝りうることを。

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