武当女侠情剣志

春秋梅菊

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十九 犠牲

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 紅鴛の表情がみるみる青くなっていくのを見た楊楓は、毒が悪化したのではないかと思った。
「師姐、大丈夫ですか?」
 姉弟子は答えず、唇を震わせている。柯士慧も心配そうに身を乗り出してきた。
「どうした?」
「震えが酷くなっているようです」
「あの妖女の毒掌のせいだ。陰の気が丹田を侵し、内功がうまく操れなくなる。恐らく私が受けたものと同じか、もっと強力なものだろう。この洞窟へ来て以来、やつはさらに修練を積んでいる」
「そんな……何か手は無いのですか?」
「解毒薬を飲むか、内功を運用して外から体を温めてやるしかないだろう」
 楊楓が翠繍から食らった毒は気を失う程度のもので、肉体までは侵されていない。内功も普段通り使える。とはいえ、彼の修行はまだ浅く、姉弟子の治療をするには力不足かもしれない。それに、内功治療をするには相手の肌へ触れる必要がある。楊楓からすれば、日頃女神のように崇めている姉弟子の体へ不用意に触れるのは憚りがあった。まして婚約者の目の前では。
 その時、誰かの近づいてくる気配を感じた。楊楓が振り向くと、洞窟の奥から白翠繍がやってくるところだった。手にはかごを提げ、中には焼き餅と塩漬けの菜っ葉が入っている。彼女はそれらを、楊楓達のいる牢獄と、柯士慧のいる牢獄の隙間から差し込みながら言った。
「毒は入っていないわ」
 楊楓は鉄格子へ飛びつき、怒声をあげた。
「この裏切り者! 師匠や長老方、それに兄弟弟子達が貴様をこのまま野放しにしてはおかないぞ!」
 翠繍はちらっと楊楓を見て、にべもなく言った。
「師匠の名前なんか出されたって、怖くない。それにここが見つかるものですか」
「柯六侠のことも嘘だったんだな。何が想い合っていた、だ! こんな惨い目に遭わせて、どういうつもりだ」
「その人は自業自得よ。一緒にいれば、いずれわかるわ」
「何だって……?」
 思いがけぬ答えに楊楓がぽかんとした矢先、柯士慧が口を入れた。
「楊兄弟、耳を貸してはだめだ。この妖女はすぐ嘘をつく」
 翠繍がせせら笑う。
「私が嘘つきなら、あなたは大嘘つきだわ」
「黙れ! はやく紅鴛に解毒剤を渡せ」
 声を荒げる士慧を、翠繍は冷ややかに見つめた。
「今更、姉さんのことを本心から気にかけるつもりになったの?」
「彼女は私の婚約者だ。もとから大切な人だ」
「ふうん……。解毒してほしいなら、してあげてもいいのよ。あなたが本当に姉さんへ誠意を見せてくれるんだったらね」
「誠意だと?」
「そうよ。姉さんの毒を除きたいなら、あなたの利き腕を切り落としなさい。大切な人だって言うんなら、何だって出来るでしょう?」
 柯士慧は全身を激しく震わせた。優れた剣士にとって、利き腕は何物にも耐えがたい宝。それを渡せというのだ。楊楓は翠繍の卑怯な要求が許せなかった。
「卑劣だぞ、貴様! 柯六侠が簡単に返答できないのがわかっていて、そんなことを言うんだろう!」
「あら、どうして? 姉さんを一番大事に想ってくれているなら、ほかのものなんて捨てられるはずよ。それが出来ないから嘘つきだって言ったのよ」
「ふざけるな! 師姐だって、柯六侠の腕を落としてまで自分が助かりたいと思うものか。貴様ははなから無理な条件を押しつけてるだけだ。誠意もなにもあるものか!」
 翠繍の口端がきつく曲がる。瞳には怒りがたぎっていた。しかし楊楓は恐れなかった。腕でかなわぬうえ、監禁されて命も握られている以上、せめて口の方だけでも存分に負かしてやる腹だった。
 あにはからんや、翠繍はふっと息を漏らし、怒りをおさめた口調で言った。
「確かに、あなたの言う通りかもね。こんな性急なやり方じゃ、私を信じてもらえなくなるかもしれないし」
「貴様の何が信じられるって言うんだ」
 翠繍は懐から一枚の手紙を引っ張り出し、楊楓の牢へと投げ込んだ。
「暇な時に目を通してみるといいわ」
 それから、横たわって身を震わせている紅鴛をしばらく見つめると、また洞窟の奥へ消えていった。
 楊楓はその姿が見えなくなってから、手紙を手にとろうとした。と、柯士慧が呼びかけた。
「待て。手紙自体に毒が付着しているかもしれない」
「私達は牢獄にいるんですよ。そんな手の込んだことをするでしょうか?」
「何事にも用心は必要だ。それに、あの妖女が寄越したものだぞ。きっとろくな代物ではあるまい」
 楊楓は怪訝に思ったものの、相手は自分より目上でもあり、凄腕の剣客だ。あえて逆らう理由もない。大人しく手紙は床へ放置しておくことにした。
 牢獄の中は周辺の壁に蝋燭が幾つかともっているだけ。どれだけ時間が経っているのかもわからない。いつしか楊楓は眠気に襲われた。紅鴛はきつく目を閉じながらも寝入っていた。隣の牢獄にいる柯士慧も、鉄格子に背中を預けて休んでいる。紅鴛には寝床があり、楊楓の足下にもどうにか体を横たえられそうな藁が置かれていたが、柯士慧の方は冷たい地べたがむき出しだった。
 翠繍がここまで柯士慧を酷く扱うのは、何か理由があるのだろうか。楊楓はちらっとそう思った。そして、床へ投げ出されている手紙へ再び目をくれた。
 柯士慧は深く眠っているようだ。楊楓は音も無く手を伸ばし、手紙を開いてみた。


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