武当女侠情剣志

春秋梅菊

文字の大きさ
上 下
12 / 30

十一 蜈蚣大尊

しおりを挟む
「さて……話はここまで。薬が出来たようじゃ。お前さん達、しばらく待っていてくれんか」
 天耳老丐は鍋の薬を匙ですくうと、眠っている王剣彦の口へ含ませた。若者は血の気を失い、殆ど死体のように見える。意識も無く、薬も満足に飲み込めていない。受けた傷の重さが知れた。
 あぐらをかいた天耳老丐が、深々と息を吸った。重ねた両の掌を王剣彦の胸元へあて、ゆっくりと押しては引いてを繰り返す。喉の筋肉が動き、薬が奥へと押し込まれていく。紅鴛は、天耳老丐が至高の内功を用い、外側から王剣彦の呼吸を助けているのだと悟った。彼女達が到着するまでの間、こうして命を繋ぎ止めていたのだろう。
 老人は四回ほど、同じやり方で薬を飲ませた。小半刻もすると、王剣彦の頬に赤みがさしてくる。どうやら危機は脱したようだ。老人は汗ばんだ顔を袖でぬぐい、ふっと息を吐いた。
「もうよかろう」
 ずっとそばで見守っていた紅鴛が、懐から薬瓶を取り出し、栓を外して黒い丸薬を渡した。
「ご先輩。長いことを内功を駆使してお疲れでしょう。よろしければ、これをどうぞ。我が武当派の太清心通丹たいしんしんつうたんです」
「おぉ、それは有難い。昔、慕容の小僧からもらったことがあるが、本当によく効く薬じゃ」
 紅鴛と楊楓はちらっと目を見合わせた。武当の掌門がまさかの小僧呼ばわりときた。
 天耳老丐がそれと察したように笑う。
「はは、わしが江湖を渡り歩いていた頃、まだ奴は二十歳そこそこの若造じゃった。小僧に見えても仕方あるまい。まあ、あれからもう三十年か。掌門の座に就いてからは、武究などと大層な名前に変えおって。二つ名の鎮山道人もそうじゃ。昔は慕容平だった。そちらの方が謙虚で良かろうが、ん?」
 紅鴛も微笑んだ。
「昔、掌門に聞いたことがあります。傲慢さゆえではなく、どこまでも強さを求める志からその名前にしたのだと言っておりました」
「ふふ、確かに向上心の強い男じゃった。今の武林で、あやつと肩を並べられる者は少ない。八大門派の掌門と、天下四大剣客を除けば、あとはせいぜい七、八人くらいじゃろう。それに、慕容の小僧だけではない。わしが知る限りでも、武当派はこの数十年で優れた弟子を何人も輩出しておる」
「ご先輩のお言葉、掌門もきっと喜びます」
「お前さん、薛紅鴛といったな。では、あの次期掌門と名高い「紅袖仙子」か」
 紅鴛が頷くと、天耳老丐は神妙な面持ちになった。
「なるほど……。来意は大体わかった。わしの耳には、放っておいても江湖のあらゆる噂が舞い込んでくるでな。誰かが訪ねて来ては消息を届けてくれることもある。例の武当派の災難も然りじゃ。お前さんが知りたいのは、失踪した女弟子と、江南の柯六侠の行方じゃろう?」
「はい。この半年、ずっと居所が掴めていないのです。どんな些細な消息でも構いません。教えていただけますでしょうか?」
「お前さんは、豊児の恩人じゃ。無論、知っている限りのことは教える。それで助けになればよいが……。
 四か月ほど前になるが、わしの知り合いが大庸だいようの岩峰林で薬草を探していた時、一組の若い男女を見かけた。どちらも背に剣を負い、装いは武芸者だったという。二人の顔色が悪く、足元がおぼつかない様子だったので声をかけてみると、女の方が答えた。曰く、自分達は蜈蚣大尊ごこうだいそんという毒使いの武芸者に傷を負わされ、そやつを追い、解毒の薬を求めてここまでやってきたのだと。男は口がきけぬほど弱っていたそうじゃ。手伝いを申し出ると、何故か女は断り、そのうえ自分達に会ったことは誰にも口外しないで欲しいなどと言う。その場は不審に思いながら別れたが、後になって武当山の事件を知り、もしかするとその男女が逃げ出した者達だったのでは、とわしに教えてくれたのじゃ」
 紅鴛は胸がばくばくと高鳴るのを感じた。頭で整理がつかないうちに、浮かんできた問いをぶつけた。
「二人は、毒にあたっていたのですか? もう四か月も前……。それに、蜈蚣大尊……。私は一年半ほど前、河北を騒がせていた蜈蚣尊者という毒使いを討伐したことがあります。でも、確か蜈蚣尊者には親兄弟も弟子もいなかったはず……」
 天耳老丐が冷静な声で応じた。
「わしの見たところ、この消息で確かなことは二つじゃ。一つは、お前さんは大庸に行かねばならぬ。そこが消息の途切れ目。となれば、その近くには何らかの答えがあろう。二つは、わしの知りうる限り江湖に蜈蚣大尊という者はおらぬ。蜈蚣尊者の縁者かもしれぬし、誰かが正体を偽っているのかもしれん。これもまた、自らの目で確かめるしかあるまい」
 紅鴛は頷きながらも、困惑していた。手がかりを得るはずが、かえって謎が深くなった。
 翠繡と士慧は、武当山でその蜈蚣大尊に襲われたのだろうか。それで解毒の術を求め、湖南の奥地まで向かったのだろうか。でも、それなら何故紅鴛や一門の皆に知らせてくれなかったのだろう。それに、毒を受けた身で蜈蚣大尊を追うのは不自然ではないか。
 何より、蜈蚣大尊とは何者だろう?
 紅鴛がその名を聞いて思い当たるのは、一年半前の、あの恐るべき蜈蚣尊者との戦いだった……。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄?貴方程度がわたくしと結婚出来ると本気で思ったの?

三条桜子
恋愛
王都に久しぶりにやって来た。楽しみにしていた舞踏会で突如、婚約破棄を突きつけられた。腕に女性を抱いてる。ん?その子、誰?わたくしがいじめたですって?わたくしなら、そんな平民殺しちゃうわ。ふふふ。ねえ?本気で貴方程度がわたくしと結婚出来ると思っていたの?可笑しい!  ◎短いお話。文字数も少なく読みやすいかと思います。全6話。 イラスト/ノーコピーライトガール

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

【武田家躍進】おしゃべり好きな始祖様が出てきて・・・

宮本晶永(くってん)
歴史・時代
 戦国時代の武田家は指折りの有力大名と言われていますが、実際には信玄の代になって甲斐・信濃と駿河の部分的な地域までしか支配地域を伸ばすことができませんでした。  武田家が中央へ進出する事について色々考えてみましたが、織田信長が尾張を制圧してしまってからでは、それができる要素がほぼありません。  不安定だった各大名の境界線が安定してしまうからです。  そこで、甲斐から出られる機会を探したら、三国同盟の前の時期しかありませんでした。  とは言っても、その頃の信玄では若すぎて家中の影響力が今一つ足りませんし、信虎は武将としては強くても、統治する才能が甲斐だけで手一杯な感じです。  何とか進出できる要素を探していたところ、幼くして亡くなっていた信玄の4歳上の兄である竹松という人を見つけました。  彼と信玄の2歳年下の弟である犬千代を死ななかった事にして、実際にあった出来事をなぞりながら、どこまでいけるか想像をしてみたいと思います。  作中の言葉遣いですが、可能な限り時代に合わせてみますが、ほぼ現代の言葉遣いになると思いますのでお許しください。  作品を出すこと自体が経験ありませんので、生暖かく見守って下さい。

群青雨色紫伝 ー東雲理音の異世界日記ー

MIRICO
ファンタジー
東雲理音は天文部の活動で、とある山奥へと旅行に行った。 見たことのない星空の中、予定のない流星を目にしていると、理音はめまいに倒れてしまう。 気付いた時、目の前にいたのは、織姫と彦星のようなコスプレをした男女二人。 おかしいと思いつつも外に出た理音が見たのは、空に浮かぶ二つの月だった。 言葉の通じない人々や、美麗な男フォーエンを前にして、理音はそこが別の世界だと気付く。 帰り道もわからないまま、広々とした庭が面した建物に閉じ込められながらも、悪くもない待遇に理音は安心するが、それが何のために行われているのかわからなかった。 言葉は理解できないけれど、意思の疎通を図れるフォーエンに教えられながらも、理音は少しずつ自分の状況を受け入れていく。 皇帝であるフォーエンの隣に座して、理音はいつしかフォーエンの役に立てればと思い始めていた。 どこにいても、フォーエンのために何をすべきか考えながら、理音は動き出す。 小説家になろう様に掲載済みです。

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

御稜威の光  =天地に響け、無辜の咆吼=

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
そこにある列強は、もはや列強ではなかった。大日本帝国という王道国家のみが覇権国など鼻で笑う王道を敷く形で存在し、多くの白人種はその罪を問われ、この世から放逐された。 いわゆる、「日月神判」である。 結果的にドイツ第三帝国やイタリア王国といった諸同盟国家――すなわち枢軸国欧州本部――の全てが、大日本帝国が戦勝国となる前に降伏してしまったから起きたことであるが、それは結果的に大日本帝国による平和――それはすなわち読者世界における偽りの差別撤廃ではなく、人種等の差別が本当に存在しない世界といえた――へ、すなわち白人種を断罪して世界を作り直す、否、世界を作り始める作業を完遂するために必須の条件であったと言える。 そして、大日本帝国はその作業を、決して覇権国などという驕慢な概念ではなく、王道を敷き、楽園を作り、五族協和の理念の元、本当に金城湯池をこの世に出現させるための、すなわち義務として行った。無論、その最大の障害は白人種と、それを支援していた亜細亜の裏切り者共であったが、それはもはや亡い。 人類史最大の総決算が終結した今、大日本帝国を筆頭国家とした金城湯池の遊星は遂に、その端緒に立った。 本日は、その「総決算」を大日本帝国が如何にして完遂し、諸民族に平和を振る舞ったかを記述したいと思う。 城闕崇華研究所所長

継母ですが、娘を立派な公主に育てます~後宮の事件はご内密に~

絹乃
キャラ文芸
母である皇后を喪った4歳の蒼海(ツァンハイ)皇女。未来視のできる皇女の養育者は見つからない。こんなに可愛いのに。愛おしいのに。妃嬪の一人である玲華(リンホア)は皇女の継母となることを誓う。しかし皇女の周りで事件が起こる。謎? 解き明かしましょう。皇女を立派な公主に育てるためならば。玲華の子育てを監視するためにやってきたのは、侍女に扮した麗しの青年だった。得意の側寫術(プロファイリング)を駆使して事件を解決する、継母後宮ミステリー。※表紙は、てんぱる様のフリー素材をお借りしています。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

処理中です...