武当女侠情剣志

春秋梅菊

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六 峨眉剣客

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 雪の山道で、馬車はなかなか進まなかった。
 ここは湖南の西あたり、このまま進めば四川へ行き着く。紅鴛と楊楓は武当山を出てから湖北、江西一帯をめぐって手がかりを少しずつ掴み、今はひたすら西を目指していた。
 紅鴛の向かいに座る楊楓が、ふと口を開く。
「天耳老丐は、本当に二人の行方を知っているでしょうか?」
「あのご先輩は江湖の消息通よ。師匠も、困ったらあの方を頼れと仰ってた」
 天耳老丐の渾名を持つ胡千寿こせんじゅは、来歴不明の優れた武術家だった。若い頃はその腕をたのみにして各地を放浪し、代償問わず色んな揉め事を解決した。それが積み重なって顔も広くなり、いつしか彼は江湖でも指折りの消息通になった。
 しかし、多くを知るのはそれだけ命取りにもなる。胡千寿の頭には、武林で名を成した大物の黒い噂、不祥事で姿を眩ました達人の行方、何者かによって揉み消された不可解な殺人沙汰の真相……色んな秘密が詰まっている。そのため、彼を殺して口封じをはかろうとする輩も少なくなかった。ここ十年、年老いて往年の武力も衰えた胡千寿は、乞食に身をやつして深山へ潜み、滅多に人前へは姿を見せない。しかし、その知恵を借りたいと願う者には、喜んで力を貸してくれるという。
 雪道を行くこと半刻、頭目の教えてくれた赤松廟が見えてきた。屋根も壁もぼろぼろで、とても冬の寒気をしのげそうな場所ではない。もっとも、だからこそ天耳老丐のような者には絶好の隠れ家かもしれない。
 馬車を下りた紅鴛は、廟の中へ入ろうとして、足を止めた。
 先客がいる。人の影が三つ、いや五つ見えた。向こうもこちらに気がついたか、そそくさと奥へ身を潜める。昨晩の旅籠のような殺気は、感じられなかった。
 楊楓が身を寄せて、密かに尋ねる。
「師姐、また待ち伏せでしょうか?」
「そのようね。今日は剣を抜く羽目にならなければいいけど」
 紅鴛は弟弟子にに、というよりは自分へ言い聞かせる調子で言った。
 門をくぐると、抱拳の礼をとって声を張り上げる。
「武当の弟子がご挨拶申し上げます。中のご先輩方、姿をお見せいただけますか」
 一呼吸置いて、廟の柱からぞろぞろと人影が出てきた。いずれも小奇麗な身なり、立派な拵えの剣を携えている。男が四人に、女が一人だ。年齢は四、五十くらいだろうか。
 一番年配らしい男が進み出た。
「武当派の弟子と言ったか? こんな古廟に何用だ?」
 言葉つきにはやや刺がある。
「人を訪ねてきたのです」
「ここは見ての通り、寂れた場所だ。人探しなら他をーー」
「師兄、回りくどいこと言って誤魔化すのはおやめなさいよ」中年の婦人が口を出した。「わかりきってるでしょう。このお嬢さんが探してる相手は、私達と同じだよ」
 女は近づきながら、品定めするように紅鴛を上から下まで見た。
「武当の弟子と言ったね?」
 口元に笑みを浮かべたかと思うと、いきなり、手刀を大上段から打ち込んできた。
 手荒な挨拶だ。紅鴛も即座に袖を翻して迎え撃つ。ぴしりと音を立て、手刀を弾いた。しかし婦人は怯まず、即座に二手目を繰り出す。勢いの凄まじさといい、狙いの正確さといい、間違いなく達人の域だ。紅鴛も気を引き締めて、袖を縦横に振るう。僅かの間に、二人は二十手をかわした。
 年配の男がたしなめるように言った。
「それくらいでよかろう」
 紅鴛が即座に袖をおさめた。婦人も一歩退き、からからと笑った。
「確かに武当の筋だ。若いのに、大した腕だね」
「失礼しました。ご先輩は、もしや峨眉派がびはでいらっしゃいますか」
 これには、婦人だけでなく残りの四人も微かに顔色を変えた。今しがたの立ち合いで、婦人は三種類ほどの手刀技を織り交ぜて使ってきた。恐らく、相手に自分の流派を見抜かせないために。けれども、長年かけて身につけた技とそうでない技は、明らかに威力や練度に差が生じる。師匠の慕容武究も、かつてこう言ったことがあった。どれだけ正体を隠そうとしても、身につけた技だけは偽れない、と。紅鴛はそこから婦人の流派を推測したのだ。
「腕だけじゃなく、見る目も肥えてるねぇ。さすが武当のお弟子だよ」
 婦人は大袈裟に感心してみせたが、結局身分を明かすつもりはないようだった。
 峨眉派は、四川の峨眉山を根城とする門派で、その名は少林、武当に次ぐ。紅鴛も親善試合や挨拶で数回、峨眉派を訪れたことがあり、その技についても詳しく知っていた。
 紅鴛の脳裏に疑念が生じた。
 ――このご婦人も、後ろの四人も、腕前と年齢からして峨眉派では高位の門人に違いない。でも、それなら知っている顔がいてもいいはずなのに、私は五人のうち誰も会ったことがない。どうしてだろう?
 ――それに、峨眉派は武林の名門。身分を隠してこそこそ動くような理由がない。最初の話しぶりだと、この方達も天耳老丐を探しているような様子だったけれど……。
 五人の表情には、明らかな警戒が浮かんでいた。あまり事情を追求するのは良くなさそうだ。紅鴛は峨眉派の名を口にした軽率さを後悔した。馬鹿の振りをして、知らぬ風を装うべきだったかもしれない。
 年配の男が尋ねてきた。
「そなたの探し人というのは、天耳老丐のことか?」
 単刀直入の問いに、紅鴛は素直に答えるべきか躊躇したが、結局頷いた。
「そうです。あの方の知恵をお借りしたく」
「では、目的は同じだな。我らもここに三日ほど逗留しているが、未だあの御仁は姿を現さぬ。急ぎなら、ここで待つのは無駄骨になるかもしれんぞ」
「ご教示有難うございます。ひとまず、今日はここに留まるつもりです」
「よかろう。好きにするがいい」
 男がきびすを返した。婦人が笑いながら言う。
「いきなり手を出して悪かったね。安心おし、もう襲ったりしないから。お互い、首を突っ込み合うようになることが無けりゃあね」
 紅鴛も曖昧に笑みを返した。それから、楊楓と一緒に廟の端っこで火を焚き、暖をとる。
 ふと、弟弟子が声をひそめて言った。
「あの方々も天耳老丐に何か消息を求めているんでしょうか?」
「多分……。でも、気をつけて。身分すら明かしてくれなかったし、何かまずいことになるかもしれない」
 名のある門派に限って、案外表向きに明かせない厄介事を抱えていたりするものだ。武当派だって、今回の翠繡の失踪事件を密かにもみ消せるのなら、そうしたに違いない。
 天耳老丐をめぐって、あの峨眉派の者達と諍いになるようなことだけは避けなくては。彼らは全員腕が立つ。婦人の最後の言葉には、明らかに含みがあった。もし戦いになれば五対一、紅鴛に勝ち目はない。
 時は緩々と過ぎていった。
 夜も深くなりかけた頃、ぺたぺたと足音を立て、誰かが廟へ入ってきた。


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