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 皇城の瑠璃瓦を、落日の陽光が朱く染めていた。
 風に乗って、きな臭い煙と火の粉が飛んでくる。誰かが宮殿に火を放ったらしい。

「母上……!」

 黄色い円領袍えんりょうほうを着た少年が、不安げに母を仰ぎ見る。黒髪を総角あげまきに結い、胸に五爪龍の刺繍が施された龍袍ロンパオを纏った彼は、たとえ幼くとも天下の主、皇帝である。
 彼の手を取り、その声に振り向いた母、皇太后もまだ二十代の若さで、白い頬が夕暮れの光に赤く染まり、黒髪に挿した黄金の歩揺ほようが残照にきらりと輝いた。

「大丈夫よ……偉祥いしょう……母様はずっといっしょだから」

 いつもと変わらぬ母の声に、少年は母の手にぎゅっと縋り付く。

「でも……火事が……」
「まだ炎は遠いわ。……これから行くところは、安全よ」 

 すでに、官庁街にあたる皇城こうじょうは叛乱軍によって制圧され、皇帝の住まいである宮城きゅうじょうの門に兵が迫っていた。
 幼帝に代わり垂簾聴政すいれんちょうせいを行ってきた蔡《さい》太后には、叛乱を鎮圧する力量など端からなかった。若く経験の浅い太后の周辺で、外戚蔡氏をはじめとする近臣は急速に腐敗した。

 太后は先帝の晩年を狂わせた傾国の毒婦であり、国政の乱れを憂いた北辺の節度使せつどしが見かねて兵を挙げ、ついに都城を包囲した。民衆は歓呼の声で城門を開き、情勢は雪崩を打って叛乱軍へと傾く。都城を守る皇帝直属軍、禁軍きんぐん十二衛は大半が叛乱軍に寝返っていた。ごく一部の兵が朱明門を守っているが、陥落は時間の問題だろう。

 栄枯盛衰は世のならいであり、天命は常に移ろい、王朝もまた不滅ではありえない。
 たまたま、滅びの時に生まれた民に咎があるわけではない。新しき世の始まりへの、苦難とも言える。
 蔡太后は息子の手を引きながら、黄昏の空を見上げる。宵の明星が西の空に輝いていた。
 風に乗って流れてくる、ものの焼ける臭いと微かな煙。

 ――すべて、焼け落ちてしまえばいい。

 燃え落ちる壮麗な宮殿を眺めながら、太后は思う。

 ――わたしの、目的は達した。




 宮殿の北側にある後宮は人影もまばらであった。輿もなく、徒歩で向かう先は、後宮のさらにその奥。
 歴代皇帝を祀る奉霊殿ほうれいでんは、周囲を小さなもりに囲まれ、普段はひっそりとしていた。今、霊廟の青いいらかは落日の陽に照らされ、荘厳に煌めいている。 

太后娘娘タイホウニャンニャン、そろそろ朱明門も破られましょう。お急ぎください」

 皇太后に声をかけたのは、宦官にしては背の高い偉丈夫。宦官特有の、男とも女ともつかない声ながら、しかししっとりと胸に沁みいるような美声であった。

「ええ、徐公公じょこうこう。わかっているわ……偉祥、あと少しだから、頑張って」

 幼帝の偉祥を気遣いながら、母子と宦官二人が奉霊殿の階を上る。中央の扉は閉じられ、かんぬきには錠がかかっていた。徐公公が腰に下げた鍵の束から一つを取り出し、大きな音を響かせて開錠する。

 ギギイ……

 軋む音をたてながら重々しく両開きの木扉が開く。内部は漆黒の闇に包まれていた。

薛宝せつぽう、灯りを」

 徐公公に命じられ、もう一人の宦官が頷いて踏み込む。木戸のすぐ内側に青銅造りの燈篭があって、そこに火打ち石で火を入れる。ぼんやりと照らされた明かりを頼りに、彼は蝋燭に火を移し、左右対称にならぶ燈篭に順繰りに火を点けていった。しだいに明るくなる堂内の高い天井に、ゆらりと黒い影が蠢く。

「ひっ……母上……」

 影に怯えた少年が母の袂に縋り付いた。

「大丈夫よ……」

 大きな屋根を支える太い柱が二本。中央には初代皇帝の大きな神主(位牌)が置かれ、煌びやかに装飾された天蓋が聳える。その左右には歴代皇帝の神主が鎮座し、供物を捧げるための高坏たかつきや花瓶、香炉と、巨大なかなえが二つ、いずれも左右対称に並ぶ。

 タイル敷の床は磨き上げられ、コツコツと靴音が鳴り響く。天井から吊り下げらえた燈篭にも、宦官が蝋燭の火を移し、周囲は昼間のように明るくなった。

「もう、怖くないでしょう?」

 母が息子に問えば、少年はコクリと頷いた。

「太祖様にご挨拶いたしましょうね」

 太后は、幼帝を中央の神主の前に導く。幼帝も、この場所には毎月のように訪れ、意味は理解している。母の言うがまま、おとなしく神主の前に据えられた礼拝用のざぶとんに跪いた。
 徐公公が持ってきた酒を祭壇の前の床に少し零す。花の香のような馥郁とした酒の香が立ち上り、もう一人の宦官が横の銅鑼どらを鳴らす。

 ゴーン……

「さあ、お祈りいたしましょう。始祖皇帝陛下と、それから、お父様に……」
「うん……」
「長く我々をお守りいただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます」

 四人はその場で額ずいて、頭を下げる。

「次はお父様に……」

 薛宝と呼ばれた若い方の宦官が、始祖皇帝の神主の横に並ぶ先代皇帝の神主を取りに行こうとした。だが、太后は薄く微笑んで首を振った。

「必要ないわ。偉祥のお父様の神主は、わたしが抱いてきたから。これが、お前の本当のお父様、伯祥様の神主よ」

 そう言って、太后は懐に抱えてきた包みから、何も書かれていない白木の神主を取り出した。

「……これが、お父様?」

 首を傾げる少年に、太后は微笑んで見せる。

「さあ、お祈りして、それからお父様のところに行きましょう。――ずいぶん長いことかかったけれど、ようやく、お会いできるわ」

 無字の位牌に額ずいて祈る母子の横で、徐公公は懐から出した散薬の包みを開いて酒壺に混ぜ、薛宝が堂内を回って杯を集めてきた。

 風に乗って、宮殿を焼く煙が霊廟にも漂ってくる。
 徐公公から渡された杯を手にして、太后はふと、廟の入り口を見る。すでに陽は沈み、夜だというのに外は妙に明るい。
 折からの強風に煽られて、予想よりも火の回りが早く炎が朱く周囲を照らしているのだ。

 ――紅いぼんぼりをいくつも照らした、婚礼の夜のよう。

 太后は懐から割れた鏡を取り出し、それを胸に抱く。
 カササギに姿を変え、遠く時空を超え、あの方のもとに導いて欲しい。
 太后は杯を煽ると、目を閉じた。
 脳裏に最愛の人の面影が蘇り、心はあの、婚礼の夜に飛んでいく。
 
 


 ――一日たりとも、忘れたことはない。復讐を成し遂げて、ようやく、貴方のもとに――
 
 
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