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終章 ゴーレムの王子は光の妖精の夢を見る

ゴーレムの王子、夢から醒める

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 Shemシェム HaMephorashハメホラシュ――。

 ゴーレムを自在に操り、呪いを解く魔法の呪文。
 幼い日々に刻み込まれた恐怖、絶望……そんなものは、まったく意味のないものだったとわかる。
 俺を暗闇の底に叩き落したのは、王妃ではなくて、光そのものだった、エルシーからの終わりの言葉。

 ――もう、わたしとは終わりです。さようなら、アルバート王子。

 〈emeth真実〉が明らかになって、それが〈meth〉に変わる。泥でできた俺の身体が足元から崩れ落ち、粘土に返る。

 エルシーは俺の正体を思い出した。幼い日々の、リジーを。
 なのに俺を拒絶した。

 あの輝く日々の思い出ごと、塵に帰ってしまいたい――。




 俺は薔薇園ローズ・ガーデンの絵を見上げながら、ひたすら酒に逃げた。強い酒精が喉を焼けば思考が茫洋として、混濁した意識の中で、かつての思い出に浸る。
 俺の描いたあの絵の中、光に溢れた庭で、エルシーと過ごした日々に。
 
 薔薇の溢れる庭でエルシーとリジーが追いかけっこする。ブランコに乗り、花を摘み、庭の小川に草の舟を流す。
 森の小道でウサギを追いかけ、迷宮ラビリンスで鬼ごっこ。ボートに乗り、湖の中洲に渡り、神殿モニュメントを探検する。

 少しだけ遠出をして、ポニーで荒野ムアに出掛けたことも、リンドホルムの街に下りたことも。
 滅多に街に下りられないエルシーは、興味深々で、俺は棒付きのキャンデーを買ってやった。――後で、買い食いをおばあ様にこってりと絞られたけど。

 おばあ様もあの頃は元気で、慈善事業や婦人会の集まりに、精力的に動き回っていた。

 光り輝くリンドホルムの日々。わずか半年ほど過ごしただけだが、あの光に満ちた日々がなければ、今、俺は生きていないと断言できる。
 ずっと暗闇の中にいた俺に、世界の美しさを教えてくれた古い城。

 俺がリンドホルムを離れて、数年後にヴェロニカ夫人は亡くなり、マックスは俺の護衛として出征した。そして、俺の目の前で死んだ。

 でも、リンドホルムは盤石だと思っていた。いつまでも変わらず、美しいままにあると、俺は何の疑いもなく、信じていた。

 ビリーの死ですべてが変わったと知ったのは、戦争が終わってから。エルシーとおばあ様はリンドホルムを出て、王都にわび住まいしていた。慣れぬ暮らしにおばあ様が心臓を悪くし、エルシーが働いて生活を支えていたなんて。
 それでも、身分や財産を失っても、二人は貴族らしい身のこなしと矜持を、ずっと大切にしていた。

 あの日、司令部の応接室に現れたエルシーの、凛とした美しさ。ロングスカートの裾をさばき、まっすぐに姿勢を正し、ただ前を見据えて。

 美しく成長したエルシーに、俺はたちまち恋に落ちた。
 リンドホルムの幼い彼女も、もちろん好きだった。俺の初恋だと胸を張って言える。
 でも、淑女らしく成長したエルシーへの思いは、また別だ。
 誰にも奪われたくなくて、どうしても彼女が欲しくて、俺は卑怯にも金と権力をチラつかせて、エルシーを無理に奪った。
 ドレスや宝石を買い与え、着飾らせ、食事やオペラに連れ歩き――王都の噂が彼女を愛人と、呼ぶに任せて。

 愛人じゃない、恋人だ。
 どれだけ俺が騒いだところで、エルシーが金のために身体を差し出したのは間違いじゃない。

 すべて、おばあ様のために。
 でもそれが、結果的におばあ様の死期を早めてしまった。

 そうして、エルシーは俺に別れを告げた。――以前の、約束の通りに。

 掴んだと思った恋も幸せも、俺の手からすり抜けてしまった。――俺の卑怯さの故の、自業自得だ。


 俺は空いたグラスにブランデーを注ぎ、一気に呷る。

 エルシーはもう、ここに帰らない。思い出の絵をのこしたまま、俺のもとを去った。

 俺は肩にかけた藤色のキモノを見て、思う。
 ヤパーネのあの小説、なんかそういう、話があったな。……恋しい人に逃げられて、残したキモノだけ持って帰る話。往生際が悪くてみっともないと思っていたけれど――。

 俺はおかしいのか、悲しいのか、わからなくなってきた。

 また、昔に――エルシーと再会する前に、戻るだけのことだ。
 いつでもエルシーの夢だけを見て、そうやって生きてきたじゃないか。
 
 ステファニーの我儘に振り回されていた時も、王妃の折檻に耐えていた時も。戦場で、塹壕ざんごうのトンネルから、満天の星空を見上げていた時も。

 数か月でもホンモノのエルシーを手に入れて、夢に見るものが増えたじゃないか。
 
 美しく着飾ったエルシーの姿。ピアノを弾く横顔。俺の冗談に微笑む笑顔。一緒に食事をして、オペラも見て、ドライブにも行って。この藤色のキモノを着て、俺を出迎えてくれた。ベッドの上では俺だけのもので――。

 俺は藤色のキモノを抱きしめて、かすかに残る残り香に酔う。
 エルシー、エルシー、エルシー……

 こうしてこのままずっと、思い出の中のエルシーとの夢に浸っていられれば……





 そんな俺の夢は、マクガーニに文字通り冷水をぶっかけられて、無理矢理現実に引き戻された。

 正気に戻った俺は、まずはマクガーニからさんざん、説教を食らい、そしてビルツホルンに行って軍縮会議に出ろと言われた。

 外交なんてしたことないのに、無茶言うな!

 ……なんて反論する余地はない。
 
 エルシーを諦めたくないのなら、マールバラ公爵を味方につけるしかない。……そう、マクガーニが言う。
 マールバラ公爵、オズワルド・クリーヴランド卿は、国王の従兄で、レコンフィールド公爵とはあまり仲がよくない。そして特務機関を取り仕切っていて、マックスの上司だった。

 ……もしかして、ローズが国王と関係を持ったことに、マールバラ公爵が絡んでいるのではないか。
 俺はマクガーニの表情を窺う。マクガーニは俺の出生の秘密は知らないはずだが――。

 俺の表情を見て、マクガーニが小声で言った。

「マックスはわしの士官学校時代の先輩で、一度だけ、休暇をリンドホルムで過ごしたことがある。……彼の、許婚だという従妹の令嬢がいて――」

 俺は息を止めた。マクガーニは目を伏せた。

「その後、マックスは特務将校となり、結婚を知らせてきたが、その相手は従妹のご令嬢ではなかった……」

 マクガーニは言う。

「わしは、深くは追及はしなかったが、マックスがわざわざ勅命を受け、アルバート殿下の護衛として出征すると聞き、なんとなく糸がつながるような気がしていた。マックスが戦死し、法務長官だったレコンフィールド公爵が、マックスの代襲相続を却下したと知り、わしは異義を申し立てるべきだと、レディ・ウルスラに手紙を書いたが、彼女はわしの申し出を拒否した。――すべての運命は神の定めたことだと。だが、このままではエルスペス嬢が賎業に身を落とすかもしれぬと恐れて、かなり強引に誘って司令部の職を斡旋したのです」
 
 マクガーニの告白に、俺はどう答えていいかわからなかった。
 
「戦地のあなたから手紙を受け取って、正直驚いた。だがマールバラ公爵の紹介と聞いて、……もしかしたら、マールバラ公爵もまた、マックスの家族の動向を注視していたのかもしれないと思いました。ただ、あの人は王家に近すぎて、直接手を差し伸べることができない。わしがエルスペス嬢を保護したことで、ひとまず傍観することにしたのだと思う」 
「……つまり、マールバラ公爵なら、俺とエルシーの味方になってくれると?」  

 俺の問いに、マクガーニは眉を顰めてみせた。

「マールバラ公爵は王家の重鎮で、生粋の王党派。王統の存続のためなら、多少の犠牲もいとわない人です。だが、心のない人ではない」
「ええ、それは知っている。……オズワルド小父様とヴァイオレット夫人は、幼い頃から俺のことを気にかけてくれた」

 ――王妃に虐待されていた俺は、親族の集まりになどもあまり出たことはなかったけれど、マールバラ公爵夫妻は王宮で遇ったら親切に言葉をかけてくれたし、邸に招いてくれたこともある。俺の出生にマールバラ公爵が関わっていて、責任を感じているのかもしれない。

 俺は唇を噛んで考えた。

 エルシーと結婚できるかは置いておいても、それとは別に、俺はマールバラ公爵に会わなければならない。
 ローズのことも、三年前のシャルローの事件のことも、わからないことだらけだ。いったい王宮で何が起きて、いったいなぜ、エルシーの相続が却下されたのか。

 エルシーはもう、俺を許してくれないかもしれない。でも、これは俺自身の問題として、真相を究明し、リンドホルムを取り戻さなければならない。

 リンドホルムは俺の母であるローズの育った場所で、あの庭はローズの唯一の形見。
 そして俺の恩人たちが守ってきた土地なのだ。

 こんなところで泣いていても、事態は改善しない。泣いていても、俺は好きでもない女と結婚させられ、大切なエルシーは王子を誑かした汚名だけを被せられ、このままでは露頭に迷う。

 俺は水シャワーで濡れた黒髪を両手で撫でつけると、パンッと両手で頬を打って気合を入れた。

「……わかった。ビルツホルンに行く。今まで、面倒をかけた。――必ず、マールバラ公爵の協力を取り付け、リンドホルムを取り戻す」

 俺はマクガーニとロベルトの前で、宣言した。
 
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