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【番外編】堅物殿様は諦めない

一、十二歳の婿と三歳の姫

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 夢にだに 見えばこそあらめ かくばかり
 見えずしあるは 恋ひて死ねとか    大伴家持

 


 江戸に入る前の最後の宿場、千住せんじゅ宿の本陣を出て、大名行列は一路、江戸の日本橋へと向かう。もう、何度も往復した旅程だが、千住宿を出るときの感慨はひとしおだ。

 ――もうすぐ、於寧おしずに会える。

 一年会えないうちに、きっとさらに美しくなったことだろうと、俺は駕籠に揺られながら、そればかり考えていた。

 ここ数年、正室の於寧とはすれ違いが続き、不仲の噂まで流れている。――まあ確かに、仲がいいとは言えぬ。子もいないし、国元には側室のを置いている。

 そこで、もう一つ気の重い話を想い出し、俺はため息をつく。
 おりくが懐妊した。そのために置いている側室なのだから、当たり前なのだが、それを於寧に伝えるのは胃が痛い。

 俺は、於寧のために買い求めた、樺細工かばざいくの小箱を想い出し、眉をひそめた。
 あれは、大名家の姫君には素朴に過ぎただろうか。そんなので誤魔化すつもりかと詰ってくれるような女であれば、まだしも話の接ぎ穂がありそうなのだが、於寧は俺に何の要求も突き付けない。そもそも、九つも年上の俺に興味もないのかもしれない。ここ数年、国元に於寧の手紙は届かないし、俺からの手紙にも返信はない。何か贈っても礼状すらない。

 ――とここまで考えて、俺はやっぱりおかしいと思う。

 もらったものが気にいらなくとも、そして気のない夫からの贈り物でも、普通は礼の一つくらいは言うものだ。
 もしかして、どこかで俺の手紙が紛失しているのではあるまいか? だが、藩主と正室の間のやり取りを邪魔するなんて、いくら何でも悪質すぎる。もしそんなことが行われているとしたら――

 俺は途中の休憩の時、近習きんじゅうを呼んで申し付ける。

 江戸藩邸の、奥向きへの荷物は、土産もまとめて奥家老を通じて奥向きに渡していたが、於寧に求めた樺細工は直接渡すことにした。
 小姓が一瞬、面倒くさそうな表情をしたが、俺は無視した。

 直接渡して、反応を確かめる。――今まで、なぜやっていなかったのかと、俺は自分の愚かさに呆れた。





 十二歳で香月家へ養子として入った俺には、家族と言える者は正室の於寧しかいない。養父は病弱で、実母はすでになく、実父との縁も薄い。

 実父、中島藩主、山之内信濃守しなののかみは、側室お万の方の奥女中だった俺の母に戯れに手を付け、俺が産まれた。三男の俺は幕府へのお届では、お万の方の子とされている。お万の方にしてみれば実母も俺もとんだ裏切り者で、母は虐められて死に、俺の境遇に同情した、実父の母・芳秋院ほうしゅういん様が俺を引き取って養育してくださった。

 芳秋院様は香月家の出で俗名は敏姫としひめ様とおっしゃった。その人が、養子を探していた甥の香月玄高こうづきはるたかに俺を推挙した。

 大名の側室腹の二男、三男など、養子の口がなければ、部屋住みのまま一生、飼い殺しだ。外様とざまとはいえ、三十万石の御大身の跡継ぎになれた俺は、はたから見ればとても運がよかった。――ただし、その藩は二十万両というとんでもない額の負債を抱え、養父は藩を幕府に奉還することさえ考えていた。そのくらい、絶望的に財政が破綻していた。

 香月家は嫡子の松丸を流行り病で喪い、残ったのは三歳の寧姫しずひめだけ。当初、その寧姫の婿には、藩主の甥である久我くが家の千代松を迎える予定だった。しかし、養父は寧姫と同じ年の甥ではなく、もっと年上の養子を求めた。

 公儀の決まりで、十七歳以下の藩主が死亡した場合、後継の養子を迎えることができない。十七歳以下の幼少の藩主をいただく藩は、常に改易の危機にさらされることになる。養父は、千代松が十七歳になるまで自分が生きていられないと考えたのだ。 

 十二歳の俺に、三歳の寧姫。九歳も年下の許嫁いいなずけは、まるで人形のように可愛らしかった。真っ白な肌に黒い切り髪が艶やかで、ぱっちりとした黒い瞳。食の細い彼女は、俺が膝の上に乗せ、魚は骨を外し身を解し、箸で口まで運んでやらねば食べなかった。雛鳥を飼うようにせっせと餌付けしたおかげか、俺と於寧の関係はかなり良好だった。無邪気に俺を「兄様あにさま」と呼んでまとわりつき、俺は甘えられるままに、人形遊びや鞠つきに付き合い、庭の池の鯉に餌をやったり、雪が積もれば雪だるまを作った。――妹背いもせと言うよりは、歳の離れた兄妹のように過ごした。

 十五で元服と同時に、六歳の於寧と祝言しゅうげんも挙げ、形ばかりの床入りもした。
 俺の膝の上に座ってお喋りを強請る於寧を、俺はこの世でただ一人の家族で、そして宝物だと思った。
 の途中で寝落ちした於寧をしとねに横たえ、穢れを知らない健やかな幼い寝顔を見守って、心の底から愛おしいと思った。

 実態はなくとも、俺と於寧はれっきとした夫婦めおとで、家族なのだ。
 三十万石を背負う責任に耐えられるのもすべて、於寧がいればこそ。
 ずっと、死ぬまで俺は於寧を守るのだと、神仏に誓った。

 俺が十七歳になると、ようやく肩の荷もおりたとばかりに先殿が死去し、俺は藩主を継いだ。
 圧し掛かる莫大な借財。藩士の御扶持米おふちまいの借り上げは、もう何年にもおよび、藩士たちの暮らしも限界に近かった。不満を抑えるために、藩主とその家族が自ら率先して倹約に勤しむしかない。

 参勤交代にかかる費用と、公儀やその重役たちとの交際費は削るわけにいかない。藩士の給金はすでに極限まで借り上げている。省けるものと言えば、江戸屋敷の費用ぐらいだった。

 まず、上屋敷の人員の大幅に削減し、特に奥向きは五分の一まで減らした。
 そして無茶なまでの倹約。食事は一汁一菜で、普段の衣類は木綿もの。大名どころか、長屋暮らしの町人にも劣るかもしれない。
 上屋敷奥向きの、於寧の周囲の奥女中たちが不満を持つのも当然だ。幼い於寧には、なおさら理解できまい。
 於寧の乳母倉橋が唆したのだろう、於寧は俺に不満をぶつけた。

『兄様なんか嫌い!』

 ――於寧の怒りが解けぬまま、俺は、参勤交代で江戸を離れ、国元に赴くしかなかった。

 初めての国入り。俺は江戸生まれの江戸育ちだから、そもそも江戸を離れるのも初めてだった。

 香月家の居城、白河城は見事な天守閣を持つ名城だが、城下は財政逼迫ひっぱくに喘いでいた。国家老の香月玄庵こうづきげんあんが国元の藩政を壟断ろうだんし、俺は倹約令を出すくらいしかできない。手探りで藩の帳簿を読み解き、時間の許す限り城下を自分の足で歩き、民草の話に耳を傾けた。――耳慣れない訛りに、最初は何を言っているのかも、わからなかった。

 
 十七歳で藩主を継いでから、江戸と国元を往復する生活で、一番面倒くさかったのは、やたら女が送り込まれてくることだ。
 理由はわかる。跡継ぎがいないと、俺に万一のことがあったとき、藩が改易されてしまう。
 幸いにも、俺は体も大柄で健康そのもの、幼少時から風邪一つ引いたことがない。――実は養父が俺を養子に据えたのも、この丈夫な体が決めてだったらしい。だからとにかく、女を宛がって、手っ取り早く男児を確保したいと、重臣たちが思ったのだろう。

 が、俺の性格はその方面ではかなり厄介だった。
 俺は女を――というより、男女の間のことを――毛嫌いしていた。実父は奥仕えの女中だった俺の母に戯れに手を付けた癖に、実母がお万の方にいびられるままにしていた。そういう男のいい加減さが実母を殺したようなものだ。俺は、女ならばなんでもいいという、男の欲を嫌悪した。

 一年も経つころには、俺の女嫌いは城下ではそこそこ周知されるようになった。江戸屋敷では俺は於寧おしずの機嫌を取っているから、もしや幼女が好きなのでは、などと言う、不名誉な噂まで流れた。
 
 その件は、於寧さえ成長すれば噂は消えると楽観視して、俺はただ、倹約を励行する一方で、農学者を呼んで土壌や農法の改良、新田開拓を行い、寒冷な領国でも育つ作物の品種改良に熱を入れた。もともと、動物や植物の観察が好きだったから、趣味を兼ねていた。国家老には嫌味を言われたが、城の庭の一角に、自分用の畑まで作った。
 
 女嫌いの堅物で、自ら土いじりまでする変わり者。吝嗇家ケチ
 国元での俺の評判はそんなものだった。
 
 焦るまい――
 国元と江戸とを一年おきに往復しながら、俺はただ、於寧の成長を待った。
 
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