上 下
10 / 48

九、痛む指先

しおりを挟む
於寧おしず!」
「……殿?」
「琴が……すごい音がして、その後、楽が止んだ故、もしや何か変事があったかと……!」

 ぽかんと殿を見上げるわたしのもとに走り寄り、すぐに右手の親指の白布に気づき、アッと言う顔をした。

「ケガを! ケガだけか? 何があった!」
「琴の糸が切れて、指先を傷つけました。それだけでございます」
「本当にそれだけか? 命に別状は?」
「大げさな。……ケガは大したことございませぬ。落ち着いてくださりませ」

 わたしが窘めれば、殿は気まずそうに視線を泳がせ、だが、わたしのケガをした右手を両手でとらえ、痛ましそうに眉を寄せる。

「これでは……しばらく琴は弾けぬな」
「はあ……」

 わたしが琴が弾けないからなんだと言うのだろうか。首を傾げていると、殿が気まずそうに言った。

「その……琴だけが、その……楽しみで……」
「え……?」

 意味がわからず呆然とするわたしに、殿が言い訳がましく早口で言った。

「……普段はその、ろくに話もできぬ故……せめて貴女の琴の音を慰めに聞いておった……」
「……なんの慰めに?」
「その……心の慰めだ」

 まったく理解が及ばず、わたしは目を瞬く。

「……そう、でございましたか。不調法なことで申し訳ございません」
「なぜ、謝る。そういう意味ではない。ただ、俺は……」
「俺?」
「や、違う、余は……」

 慌てて言い直す言葉遣いさえ、普段とはまるで違っていて、わたしは首を傾げるばかりである。

「いったい、どうなさったのです? 殿らしくもない」
「らしくないと言われても……その……」

 気まずく立ち尽くすわたしたちに、周囲の目が冷たい。わたしは慌てて咳払いでごまかす。

「そうだ、殿! 榊より伝言は伝わっておりまするか?」
「伝言? 榊から?」
「ええ。昨夜、殿にお伝えするようにと一筆書きまして、倉橋より榊に預けて……」

 殿が凛々しい眉を顰め、わたしの肩越しに奥向きの者たちを見た。

「いや、まだ聞いておらぬ。内容は?」
「その……近々にご相談したきことがある旨の……」
「相談? 余に?」

 わたしが頷けば、殿は考えて言った。

「今すぐ聞きたいくらいだが、今は時間がない。……今宵……その、そちらに参っても? 体調はよくなったのか?」
「え?」

 首を傾げるわたしの様子に、殿は何か思うところがあるのか、眉を寄せた。

「ここのところ、体調が優れぬということは、ないのだな?」
「……いいえ? 特には……」
 
 殿の言葉が理解できず、わたしはそっと背後の倉橋と水瀬を見た。倉橋の顔がはっきりとひきつっている。――これはもしや……。

 倉橋は独断で、わたしの体調が悪いと言って、殿の奥渡りを断っていたのだろうか?
 背筋がぞっとしたが、わたしは表情には出さないようにして、殿に頭を下げる。

「では、今宵。御足労をおかけいたします。夕餉は奥向きで召し上がりますか?」
「あ……ああ」

 殿は頷くと、もう一度わたしの右手を取り、白布を巻いた親指に眉をひそめてから、踵を返して中奥へと戻っていかれた。 
 わたしはため息を一つつき、背後の倉橋に目で合図し、居室に戻る。一段高くなったいつもの座布団に腰を下ろし、倉橋に尋ねた。

「……体調うんぬんと殿が申しておったのは、そちのせいか、倉橋?」

 倉橋が慌てて畳に両手をつき、頭を下げる。白髪交じりの椎茸たぼを見下ろしながら、わたしはなおも問いかける。

「倉橋……よもやとは思うが、殿からの奥渡りを、そちは独断で断っておったのか?」
「も、申し訳ございません!」
「……まさか、榊にことづけた手紙も……」

 額を畳に擦り付けたまま震える倉橋の姿に、わたしは力が抜けて自分を支えられないような気がして、思わず脇息に寄りかかる。
 殿が国元より戻られてはや三月になろうか。一度も奥渡りのなかったのが、まさか、もっとも信頼する乳母のせいであったとは。

「……なぜ、そのようなことを。わらわと殿の不仲が、上屋敷どころか、他家にも聞こえて噂になっていると申すに!」

 普通の大名家であれば、正室との不仲はさほど問題にならない。お世継ぎは側室が産めばいい。だが、こと我が香月家に至っては婿養子の殿が先殿の唯一の子である、わたしを蔑ろにするのは、家臣団の反発につながる。江戸家老の森嶋帯刀もりしまたてわきや、水瀬の叔父、坂田が気を揉むのも当然なのだ。

 珍しく声を荒らげたわたしに、倉橋が少しだけ、顔をあげ、上目遣いに見ながら言う。

「ですが……姫様は長く、お屋形様を恐れる風がございました。お屋形様もお屋形様です! 嫌がる姫様に無理無体を強いておきながら、なんと姫様がまだ枕も上げられぬうちに、あのような下賤なおなごをお近づけになられて……わたくしはそれが許せなかったのでございます!」
「……下賤な……とは?」

 わたしはハッとして脇息に肘をついていた顔を上げる。

「それはもしや……例のご落胤の?」

 倉橋がしまったというように口元を手で押さえる。
 殿とわたしが最後に過ごしたあの夜は、今から四年前。……つまり、倉橋はその直後に、殿と例のの件を知っていたのだ。

 わたしは度重なる倉橋の裏切りに吐き気すら感じて、帯に挟んでいた扇を抜き、開いて顔を覆う。
 話を聞くべきと思うが、今はその気になれなかった。

「……倉橋、下がってたも。しばらくは、目通りを禁ずる」
「姫様! わたくしは……」
「いいから、早くお下がり!」

 扇の向こうで、ごそごそと倉橋の身じろぎの気配がして、衣擦きぬずれの音が遠ざかる。襖が閉まる音を確認して、わたしは扇から顔を上げた。室内には、水瀬が気まずそうな表情で正座している。

「……水瀬、そなたはいつから知っていた?」

 普段と同じ、気安い口調で問いかけられ、水瀬は露骨にホッとしたようで、答えた。

「わたしもまだ若くて、詳しいことは理解できなかったのですが、なんとなく、お屋形様が下屋敷に泊まっているという噂は耳にしておりました。ただ……母が姫様には絶対に聞かせるなと申しますので……」
「それで、例の……ご落胤の話が出てきたときに、皆は納得したのね」

 わたしには青天の霹靂へきれきであったが、皆はすぐに事情に思い至ったのだ。――それがあり得ることとも皆が思った。

「……そもそも、なぜ、そのような女に……」

 妻のつとめを果たせなかった正室に絶望したとして、もっとまともな相手を選んでおけば。いや、わたしに話を通して正規のご愛妾にしておけば、こんな厄介事は起きなかったのに、どうしてそんな……。
 何もかも自分の至らなさが招いたことだと思えば、痛むのは胸なのか、さきほど痛めた指先なのか、もはやわからなくなっていた。
 
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

嘘つきな唇〜もう貴方のことは必要ありません〜

みおな
恋愛
 伯爵令嬢のジュエルは、王太子であるシリウスから求婚され、王太子妃になるべく日々努力していた。  そんなある日、ジュエルはシリウスが一人の女性と抱き合っているのを見てしまう。  その日以来、何度も何度も彼女との逢瀬を重ねるシリウス。  そんなに彼女が好きなのなら、彼女を王太子妃にすれば良い。  ジュエルが何度そう言っても、シリウスは「彼女は友人だよ」と繰り返すばかり。  堂々と嘘をつくシリウスにジュエルは・・・

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

もう、いいのです。

千 遊雲
恋愛
婚約者の王子殿下に、好かれていないと分かっていました。 けれど、嫌われていても構わない。そう思い、放置していた私が悪かったのでしょうか?

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

処理中です...