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後序
未来へ
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彼の黒い鷹が異国風の港の上空をひらりと旋回し、蒼穹に黒い翼が翻る。
(指輪を返したら――私はどうやって生きて行こう)
この十年、指輪を返すためだけに生きてきた。おそらく、この指輪がなければ彼はとっくの昔に壊れていただろう。奪われ、汚され、そして奪い、汚し――魂まで汚れても、なお生きていられるのはこの指輪があるからだ。
かつては、これを彼女に返したら、彼は死ぬつもりだった。
僧侶として、〈純陽〉として育てられた彼が、貞操を奪われ、男にすら身を汚されて、本当の名を放棄せざるを得なくなった時。いっそそのまま死にたいと思う心を最後に支えたのは、彼女の指輪を彼が聖地から持ち去ってしまったこと、彼女に指輪を返しそびれてしまったこと、いつか彼女に指輪を返さなければならないという、義務感だけだった。
だから、指輪を返したら死ぬ。それは、当然の帰結であった。
だが、ユイファは言った。
どれほど穴を開けられて、ボロボロになって、膿と血を垂れ流してでも、それが自分の人生だと認めて、生きていかなければならないと。
たとえ、偽の名を名乗っても、それが己の人生だと――。
恭親王は目を閉じた。
あの森の中で見た彼女の姿は、今でも瞼の裏に思い描くことができるのに、今、成長してどんな女性になっているか、全く想像することができなかった。たぶん、彼はどこかでそれを拒否しているのだろう。彼の中で、メルーシナはいつまでたっても幼く、清らかなままだ。
けして手に入らない、また手を触れてはならない神聖な存在として、彼はいまだにメルーシナに恋い焦がれる。
彼の中で燻る醜い欲望は、人語を解さぬ獣人の奉仕で解放するだけで、後は滅多に女は抱かなかった。時々、噂を信じた地方官やら、商人やらが送り込んでくる「据え膳」は、彼が手をつけなければ後でかえって非道な目に遭うことがあると知り、処女と香水臭い女以外は食うことにしていたが、後は子供、子供と口煩い母親の手前、月に一日サウラの元で過ごすだけ。これっぽっちも愛していないサウラだからこそ、ほとんど飼い殺しのような扱いでも、恭親王の心は全く痛まなかった。そのサウラにもこの〈聖婚〉を理由に離縁状を突き付けてきた。心の底から清々している自分がいる。
天と陰陽が望んだら――。
結局は、天と陰陽は彼とメルーシナの未来を望まなかったのだ。
純潔を失った見習い僧侶に与えられたのは、欺瞞と政略に満ちた〈聖なる婚姻〉。
一目で恋に落ちるはずの、陰の龍種である花嫁。
彼の陽の龍種としての番の本能の前に、十年間、彼の苦悩を支え続けたメルーシナの面影は消えてしまうのだろうか。彼が、ずっと心に封じ込めてきたメルーシナへの恋すらも、天と陰陽は奪っていくのだろうか。
だが、彼にはある確信があった。
彼が愛するのは、生涯メルーシナただ一人。
たとえ番の龍種といえども、彼の心はすでに彼女に捧げられているのだ。
(何の罪もない王女には申し訳ないが……だが、王女もまた龍種である以上、受け入れざるを得ないのだ――)
幼少から聖地の修道院に閉じこめられて育った、しかも口のきけない娘だという。
一目会えば恋に落ちるのかもしれないが、そんなことは到底、信じられず、まだ出会っていない今は率直に言って、花嫁となる王女に何の興味も抱くことはできなかった。ただ、〈狂王〉の妻にされるということで、さぞその王女は怯えているであろうと、気の毒には思う。
(香水臭くさえなければ、表面的に親切にすることはできる。そういうのは、得意だ。どうか香水臭くありませんように……)
修道院育ちだから、香水の件は大丈夫だろうとは思いながら、掛け値なしの処女であることに思い至り、自身のトラウマを呼び起こして少しばかり眉間に皺が寄ってしまう。
いろいろ思い悩んでも仕方がない。
今は、指輪を返すことだけを考えよう。そして自らに課せられた、〈禁苑〉の守護者としての役割を果たすだけだ。ソリスティア十万の兵を率い、イフリート公爵とやらを打倒してアデライード王女を女王に据えてみせようではないか。
――その気の毒な王女にとっては、さらなる苦難の道のりかもしれないが、彼もまた、同じ龍種としてその重荷を半ば背負うのである。
すべては、天と陰陽の調和のために――。
恭親王は天に向かって鋭い指笛を鳴らす。
彼の愛鷹が、一直線に蒼穹を切り裂いて舞い降り、彼が頭上高く掲げた右手に止まった。
――了――
(指輪を返したら――私はどうやって生きて行こう)
この十年、指輪を返すためだけに生きてきた。おそらく、この指輪がなければ彼はとっくの昔に壊れていただろう。奪われ、汚され、そして奪い、汚し――魂まで汚れても、なお生きていられるのはこの指輪があるからだ。
かつては、これを彼女に返したら、彼は死ぬつもりだった。
僧侶として、〈純陽〉として育てられた彼が、貞操を奪われ、男にすら身を汚されて、本当の名を放棄せざるを得なくなった時。いっそそのまま死にたいと思う心を最後に支えたのは、彼女の指輪を彼が聖地から持ち去ってしまったこと、彼女に指輪を返しそびれてしまったこと、いつか彼女に指輪を返さなければならないという、義務感だけだった。
だから、指輪を返したら死ぬ。それは、当然の帰結であった。
だが、ユイファは言った。
どれほど穴を開けられて、ボロボロになって、膿と血を垂れ流してでも、それが自分の人生だと認めて、生きていかなければならないと。
たとえ、偽の名を名乗っても、それが己の人生だと――。
恭親王は目を閉じた。
あの森の中で見た彼女の姿は、今でも瞼の裏に思い描くことができるのに、今、成長してどんな女性になっているか、全く想像することができなかった。たぶん、彼はどこかでそれを拒否しているのだろう。彼の中で、メルーシナはいつまでたっても幼く、清らかなままだ。
けして手に入らない、また手を触れてはならない神聖な存在として、彼はいまだにメルーシナに恋い焦がれる。
彼の中で燻る醜い欲望は、人語を解さぬ獣人の奉仕で解放するだけで、後は滅多に女は抱かなかった。時々、噂を信じた地方官やら、商人やらが送り込んでくる「据え膳」は、彼が手をつけなければ後でかえって非道な目に遭うことがあると知り、処女と香水臭い女以外は食うことにしていたが、後は子供、子供と口煩い母親の手前、月に一日サウラの元で過ごすだけ。これっぽっちも愛していないサウラだからこそ、ほとんど飼い殺しのような扱いでも、恭親王の心は全く痛まなかった。そのサウラにもこの〈聖婚〉を理由に離縁状を突き付けてきた。心の底から清々している自分がいる。
天と陰陽が望んだら――。
結局は、天と陰陽は彼とメルーシナの未来を望まなかったのだ。
純潔を失った見習い僧侶に与えられたのは、欺瞞と政略に満ちた〈聖なる婚姻〉。
一目で恋に落ちるはずの、陰の龍種である花嫁。
彼の陽の龍種としての番の本能の前に、十年間、彼の苦悩を支え続けたメルーシナの面影は消えてしまうのだろうか。彼が、ずっと心に封じ込めてきたメルーシナへの恋すらも、天と陰陽は奪っていくのだろうか。
だが、彼にはある確信があった。
彼が愛するのは、生涯メルーシナただ一人。
たとえ番の龍種といえども、彼の心はすでに彼女に捧げられているのだ。
(何の罪もない王女には申し訳ないが……だが、王女もまた龍種である以上、受け入れざるを得ないのだ――)
幼少から聖地の修道院に閉じこめられて育った、しかも口のきけない娘だという。
一目会えば恋に落ちるのかもしれないが、そんなことは到底、信じられず、まだ出会っていない今は率直に言って、花嫁となる王女に何の興味も抱くことはできなかった。ただ、〈狂王〉の妻にされるということで、さぞその王女は怯えているであろうと、気の毒には思う。
(香水臭くさえなければ、表面的に親切にすることはできる。そういうのは、得意だ。どうか香水臭くありませんように……)
修道院育ちだから、香水の件は大丈夫だろうとは思いながら、掛け値なしの処女であることに思い至り、自身のトラウマを呼び起こして少しばかり眉間に皺が寄ってしまう。
いろいろ思い悩んでも仕方がない。
今は、指輪を返すことだけを考えよう。そして自らに課せられた、〈禁苑〉の守護者としての役割を果たすだけだ。ソリスティア十万の兵を率い、イフリート公爵とやらを打倒してアデライード王女を女王に据えてみせようではないか。
――その気の毒な王女にとっては、さらなる苦難の道のりかもしれないが、彼もまた、同じ龍種としてその重荷を半ば背負うのである。
すべては、天と陰陽の調和のために――。
恭親王は天に向かって鋭い指笛を鳴らす。
彼の愛鷹が、一直線に蒼穹を切り裂いて舞い降り、彼が頭上高く掲げた右手に止まった。
――了――
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