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七竅
46、冥婚
しおりを挟む心が壊れた、という乳母の言葉を思いだし、恭親王は眉を寄せた。女が少しの間恭親王の顔を見つめ、目を見開いて、言った。
「もしかして――ユエリン様? ユエリン様でしょう? わたくし、ずっと天と陰陽にお願いしましたもの。夢でもいいから、ユエリン様に会わせてくださいませって」
「――ユリア?」
今のユリアがどういう状態なのか測りかねて、恭親王はただ、じっと彼女を見つめる。
ユリアは椅子から立ち上がると、白く細い両手の指を胸の前で組んで、うっとりと恭親王を見つめる。
「嬉しいわ、ずっと、夢でいいからお会いしたいと思っていたの。お父様がね、わたくしはユエリン皇子様の妻になるんだって、おっしゃったの! 噂では、とてもお美しい方だって。あなたがユエリン皇子様ね?」
どこか子供っぽい、舌足らずな話し方といい、どうやらユリアの心は少女時代に戻っているらしいと恭親王は気づく。
「一度だけね、わたくし本物のユエリン様にお目にかかったことがありますのよ? ずっとずっと小さい、五歳の時に一度だけ。ユエリン様はきっと憶えていらっしゃらないわね。本当に小さな子供の時でしたもの。お母様に連れられて出かけた、皇后陛下のご実家のお茶会に、皇后陛下がお忍びで、ユエリン皇子様をお連れになったの。大人の目を盗んで、百合の花がいっぱい咲くお庭で、少しだけお話しましたのよ? わたくしその日からずっと、百合の花の香りをいつも身に着けていますの。ユエリン様があの日のことを思い出してくださったらいいと思って……ふふふふふ」
小首を傾げて楽し気に囀るユリアの言葉に、恭親王ははっとする。彼が苦手とする、強烈な花の香り。何度言っても、絶対にユリアがやめようとしなかった香水の香り。
(ユリアと――ユエリンの――)
その時、彼は理解した。
奪われたのは、彼だけではなかった。
ユエリンもまた、全てを奪われたのだ。その名も、皇子としての地位も、そして――花嫁も。
恭親王は目を閉じる。
ユリアへの憎しみも、怒りも、溶けていくのがわかった。哀しみで、彼の心が弾けそうになる。
ユリアもまた、幼い日のただ一度の邂逅で恋をし、その恋に殉じたのだ。
本当に愛し、求めた人の死さえ知らされず、偽りの夫に嫁がされ、愛されぬ日々に苦しんだ。
彼がユエリンでないと知っていれば、ユリアは別の人生を歩んだかもしれないのに――。
恭親王は目を開ける。
もはやユリアを断罪しようという気はなくなっていた。
ユリアをユエリンに、返そう。純潔のユリアこそ、ユエリンの花嫁に相応しい。
「ユリア、私は、ユエリンではない。顔は、ユエリンにそっくりらしいけれど…。ユエリンに頼まれて、貴女を迎えにきた」
「……そうなのですか? ユエリン様は、どこに?」
「ここではないが、美しい場所にいて、貴女を待っている」
ユリアは目を見開く。
「そうですの? 今から、ですの?」
「花嫁衣裳があるだろう?今から、支度をしなさい。私の言う通りにすれば、ユエリンの元に行ける」
ついぞユリアには見せたことのないような、優しい微笑みを浮かべて言えば、ユリアは手を叩いて乳母を呼んだ。
「ばあや! ばあや! 花嫁衣裳、あるでしょう? すぐに出して! 今すぐ支度をしなくちゃ!」
「姫様?」
乳母は驚くが、恭親王が無言で頷くのを見て、言う通りにする。
三年前、ユリアがこの邸に嫁ぐ時に着てきた、真っ赤で豪華な花嫁衣裳。ところどころ、ユリア自身で刺繍をしたという、繊細で手の込んだ装飾。ユエリンのもとに嫁ぐ日を心待ちにしていた少女の日のユリアの、夢の詰まった衣裳。
少しだけ席を外し、ユリアに支度をさせる。乳母には、普段より少し、化粧を控えめにするように言った。
「その方が、ユエリンは好きだと思うよ」
そう、微笑むと、ユリアは少し頬を染める。
乳母は、恭親王の意図を察したようであったが、何も言わずにいた。――これが、彼の最期の慈悲なのだと、理解したのだろう。
支度のできたユリアと、二人だけになる。
小さな瓶を懐から出して、卓の上に置いた。
「これを飲めば、ユエリンの元に行ける」
何も理解していないのか、あるいはすべてを理解しているのか、ユリアは子供のような素直さで、その瓶に手を伸ばす。
「向こうで、ユエリンによろしく伝えてくれ」
瓶の蓋を開け、飲む直前にユリアが首を傾げた。
「ええ、もちろん。――でも、あなたのお名前を聞いていませんでしたわ?」
「ああ、私の名は――シウリンだ」
にっこりと微笑んで、ユリアは瓶を呷った。
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