【R18】渾沌の七竅

無憂

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七竅

41、皇子と月

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 恭親王はメイロン県の城壁の上で、一人月を見ていた。
 肩には、黒い彼の鷹が止まっている。

 背後に足音がして彼が振り返ると、月明かりの下廉郡王が立っていた。無言で歩み寄ると、恭親王の顔の前に大きな握り拳を突き付ける。

「グイン……?」

 黒曜石の瞳を見開いて、恭親王が廉郡王の長身を見上げる。廉郡王は無表情のまま、掌を少し開いた。
 ぷらん、と金色の鎖が掌からぶら下がる。先には、とぐろをまいた金色の蛇。

「これは……?」
「ヴィサンティのだ」
「彼女は、どこに?」
「……解放した。蛇神ヴリトラから」

 何も言えずにじっと廉郡王を見つめる恭親王に、廉郡王が言った。

「たしかに、俺たちは龍種の責任からは逃げられない。俺は、覚悟を決めた。――それだけ言いに来た」
「わかった――姉の行方は、まだわかっていない」
「そうか。あっちは年増だけあって狡猾だ。気を付けろよ」

 それだけ言って、廉郡王は首飾りを再び握り締めると、踵を返して歩き去ろうとして、ふと歩みを止め、少しだけ恭親王に顔を向けるようにして言った。

「……自分のことにかまけて、お前に全部押し付けて済まなかった」
「いや……」
「皇上の思し召しはたぶんお前にあるが、未来はどうなるかわからない。俺とお前で、重荷を分け合わなければいけなかったのに、俺は今まで、何も考えてこなかった。好きに遊び暮らして、何でも許されて、それが当たり前だと思っていた」
「それは……私も同じだ」

 廉郡王は少しだけ窶れた顔で言う。

「世の中、どうにもならないことがあるなんて、想像したこともなかった。どこかで、俺だけは不幸にならないと思ってた。……冷静に考えると、馬鹿だな」
「しょうがないよ。好き放題しても許される環境だったんだから……」

 そう言って苦笑する友人に、廉郡王が問いかける。

「ユエリン、お前今、幸せか?」
「ものすごく不幸だよ。――はっきり言うけれど、この世で五本の指に入るくらい不幸な自信があるよ」
「……意外と自信家なんだな」
 
 廉郡王がちょっとばかし呆れたように言う。

「じゃあ、そんな不幸でも、何で生きているんだ」
「悔しいからに決まっているだろう。何でもかんでも好き勝手に決められて、私の意志など一つも通らない。このまま死んだらあまりにもムカツクから生きているんだ」
 
 吐き捨てるように言う恭親王に、廉郡王がぷっと噴き出した。

「本当にお前ってさ、わけがわかんねぇよな? お上品な顔して芋虫食ったりするくせに、優しいフリしてトンデモなく残酷だし」
「ユイファにも似たようなことを言われた」
「そっか、まだ通ってたんだ」
「別れたよ。母上にバレたからね」
「そっか……」

 しばらく無言で月を見ていた廉郡王が言った。

「……帝都に帰ったら、俺も結婚するよ。今まで逃げていたけれど、そうもいかないことが、わかった」
 
 突然の話に恭親王がびっくりして目を見開く。

「えええっ?……でも、ヴィサンティは……?」
「ヴィサンティは死んだ。……ヴィサンティでなければ、誰でも同じだと気づいたから。えり好みしないでちゃんとした相手を選ぶ」

 廉郡王は精悍な、野性味のある顔を少しだけ歪ませる。

「龍種は、もともとつがいを作る。……でも、この大陸の東と西に分かれた時に、それを放棄したんだ。俺は、たとえ一瞬でもその番に出会えた。たぶんそれは、絶対に番に出会えない他の龍種より、はるかに幸運だったんだと思う」
 「グイン……」

 それだけ言うと、廉郡王は言いたいことは全部言ったとばかりに、さっさと踵を返して去っていった。
 その背中を見送って、恭親王は別のことを考えていた。

 聖地の森で出会ったメルーシナを、何故自分は忘れられないのだろうか。
 彼女も、もしかしたらヴィサンティのような、何かの〈魔の者〉なのだろうか。それとも、龍種と妖精のようなものの間にも、〈偽番〉のようなことがあり得るのだろうか。

 無意識に、懐の小箱に手を伸ばし、握り締める。

 彼女の本当の番こそ、この指輪の持ち主に相応しい。でも、たとえ彼が彼女にとって偽りの番であったとしても、彼の唯一が彼女であることに、変わりはないのだ。




 厲蠻叛乱後の事後処理は困難を極めた。
 
 破壊された県城の復興、逃亡している叛乱首脳部の追捕、県の指揮系統の再構築、荒れた農地の修復、再区画、徴税の見直し……

 厲蠻の反帝国感情が相当に強まっているために、軍政を敷いて強権的に復興を進めていく以外になく、征南大将軍として恭親王が臨時に行政権限を最大に発揮し、戒厳令を敷き、民政機関もすべて軍の支配下に置かれている。

 メイロン県が陥落してから二か月があっという間に過ぎて、しかし、まだラクシュミとラジーブは見つからず、散発的に叛乱軍の残党による攻撃も続く。

 毎日、恭親王は仕事に追われ、考えたくもない程の大量の書類の処理に追われていた。
 ダヤン皇子と廉郡王は逃亡者の追捕と治安の維持に全力投球状態で、他の事務仕事は全く手伝ってくれなかった。

 プーランタ南岸の菜の花畑が一面黄色い花をつける三月、ようやく新しい刺史が赴任してきた。
 新しいと言っても、ランダの前任であるゲルフィンの弟、シルフィンがもう一度出戻ってきたのである。

 シルフィンは二十五歳、刺史としては極めて若い。だいたい、十二貴嬪家の者は中央志向が強く、起家官に刺史を選ぶ者などほとんどいないのだが、シルフィンは変わり者で、皇子の侍従に、という話を蹴ってまで、刺史に任官したのであった。

「お初にお目にかかります。新たに朱雀州の刺史として赴任いたしました、ゲスト家のシルフィンです」

 シルフィンは痩せ形で、黒くて硬い髪はゴワゴワの癖毛で、分厚い丸眼鏡をかけた偏屈そうな外見をしていた。顔つきなどは兄のゲルフィンによく似ているのだが、ゲルフィンのマニア度を上げて嫌味度を下げたような感じ、武芸が苦手で法律と会計に詳しく、三度の飯より判例を読むのが好きという裁判オタクであった。

 このような若い男に地方長官が務まるのは、彼が十二貴嬪家の威光で優秀な幕友ブレーンを数多く招致できるからである。

「堤防の改修については、私の方で専門家を連れてきました。今後、二度と決壊するようなことのないよう、しっかりと工事させていただきます」

 ランダの不正によって滅茶苦茶になってしまった徴税についても、租税と農業に詳しい幕友を複数人連れてきていて、早速トルフィンらと協力して仕事にかかってくれた。

「赴任早々に洪水被害を受けてしまった前任者は気の毒と言えば気の毒ですが、大災害になるかどうかは地方官の仕事ぶり次第です。私の見る限り、天災が人災になってさらに汚職が絡んでは、陰陽の気も乱れるというものです」

 民衆の恨みが高じるとそれが天に悪い影響を及ぼして陰陽の調和が乱れるというのが、この世界の基本的な認識であった。陰陽の和を為すにはまず善政を布くこと、善政とはまず民に対し公平であることが重要だと、シルフィンは考えているようであった。

 恭親王が神殿とそれに附設する孤児院と学校、病院の構想について語ると、シルフィンはキラリと眼鏡を光らせた。

「学校と病院というのは、私も以前から作りたいと思っていたのです。厲蠻は教育が足りていませんし、低湿な土地で病気も発生しやすいので。宗教施設に附属させるというのは考えつきませんでした。これなら予算も付きやすいし、寄付なども募りやすいですね。私もいろいろとツテをあたってみましょう」

 シルフィンの赴任によって、南岸の行政については一気に改善された。やはり餅は餅屋だな、というのが恭親王の偽らざる感想であった。
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