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七竅
28、脱出
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恭親王がナンユー県とリンフー県を住民ごと焼き尽くした事件は、厲蠻の民に衝撃を与えた。疫病の発生を知ってはいたが、城まるごと二つを壊滅させるとまでは考えていなかった。叛乱軍の制圧下にある県では、この県も焼かれるのではないかとの恐怖で、パニックが広がる。
叛乱軍の根拠地であるメイロン県では、ラジーブとチャーンバー旧王家の姫であるラクシュミが怒り狂っていた。
「大人しい男ではなかったのか!それが……城を二つも焼くなんて!」
ラクシュミが黄緑色の瞳を怒りでギラギラと光らせて言う。
「皇帝から生殺与奪の大権を与えられているとかで……思い切ったことをしてくれたものです」
ラジーブが青い顔で言った。あの美しい皇子が、まるで虫けらのように住民を殺したと思えば、怒りで腸が煮えくり返った。
「……五千の民の命、ただでは済まされぬ。報復に、あの皇子を殺してしまおう。その首を送りつけてくれるわ!」
「お待ちください。帝国軍がメイロン県を攻撃しないのは、あの皇子が我らが手中にあるからです。皇子を殺せば、後顧の憂いもなくメイロン県を焼き討ちにしかねません」
「じゃが!」
その会話を隣室から聞き耳を立てていたヴィサンティははっとして息を呑んだ。姉の、帝国への憎しみは深まるばかり。このままでは精を吸われるだけでなく、愛しい男の命は風前の灯火だ。
ヴィサンティは唇を噛み、決意を固める。密かに父親の着ていた男物の厲蠻の装束を取り出す。父親は大柄な男であった。廉郡王は相当に背が高いが、父の衣服ならばなんとか着られるだろう。それを持って深夜に地下牢に入り込む。姉ラクシュミに散々嬲られてぐったりとした廉郡王を揺り起こし、ナイフで縄を切る。
「……ヴィサンティ?」
自由になった両手首を摩りながら、不思議そうに廉郡王は恋人に尋ねた。
「……しっ。いいからこれを着て。あんたの仲間がとんでもないことをしてくれたおかげで、姉さまが怒ってる。今日はラジーブが止めてくれたけど、いつあんたを殺すと言い出すかわからない。……わたしじゃあんたをこれ以上庇えない。だから……逃げて」
廉郡王は黒い瞳を見開いて、ヴィサンティの黄緑色の瞳を見つめる。
「しかし……俺がいなくなればお前が疑われる」
「大丈夫、わたしのことは殺せない。わたしの身の内にも蛇神がいるから」
ヴィサンティは両手で廉郡王の頬を挟むと、思いのたけをこめるように、唇を重ねる。廉郡王が両腕でがっちりとヴィサンティを抱きしめる。常に手首を縛られていた廉郡王にとって、初めての抱擁だった。
互いの執着を示すように抱き合った後で、名残り惜し気に身体を離し、廉郡王は急いで衣服をつける。大柄な男の衣服ではあるが、それでも少しきつかった。
「……一人では逃げられない。生きているなら、部下も連れて行く」
「……無理だと思うけど、会うだけは会わせてあげる」
ヴィサンティは聖騎士たちが監禁されていた部屋に廉郡王を連れていった。
すでに、生きているのはゼクト一人で、残りの男たちの遺体は片づけられてそこにはなかった。
骨と皮ばかりに窶れ、ぐったりと横たわるゼクトを見て、廉郡王が慌てて走り寄る。
「ゼクト! しっかりしろ!」
「……殿下……」
抱き上げて優しく揺すると、ゼクトは薄っすらと目を開けた。
「脱出するぞ、俺に負ぶされ」
「無理です……私に構わず、お逃げください……」
「ふざけんなよ、こんなところにおめぇひとり、残していけるわけがねーだろうが! 俺の馬鹿力、ナメんな!」
ヴィサンティは部屋の隅にまとめてあった騎士たちの荷物から、適当にマントと剣を持ってきた。
「あんたのじゃないかもしれないけど、とにかく急いで!」
「……ありがとう。ヴィサンティ」
廉郡王はヴィサンティに別れの口づけをすると、ゼクトをマントにくるんで背中に背負い、腰帯に剣を手挟んで、地下牢を出る。
「わたしが見張りをひきつけるから、そのうちに……」
ヴィサンティが入口の歩哨の所に走っていって叫んだ。
「大変よ! あっちに、帝国の騎士が! 侵入しようとしているわ! 早く!」
兵士たちの注意が逸れた隙に、廉郡王はゼクトを背負って走り出した。だが、いくらも行かないうちに見つかってしまう。
「何者だ! 止まれ!」
「ちっ……まあ、無傷で返してくれるとは、はなから期待してねーけどな」
廉郡王が剣に手を伸ばした時、どこからか飛んできた投げナイフが誰何した兵士を喉を切り裂いた。
「……ご助勢します。脱出路はこちらです」
ひそやかな声がして、廉郡王がぎょっとすると、声が言った。
「私はゼクト様配下の暗部です……」
「なるほど、頼んだ」
この際、ここで敵か味方か疑っても意味はない。廉郡王は〈声〉を信じることにした。
〈声〉に導かれて、廉郡王はチャーンバー家の邸を脱出する。そのまま宵闇にまぎれ、メイロン県城も出る。暗部の者はあらかじめ、脱出路に使えそうな城壁の破れを見つけておいたのだ。
「そんな能力があるなら、ゼクトだけでも先に連れ出しておいてくれればいいのに」
「ゼクト様ご自身が拒否なさったのです。……殿下を残していくことはできないと」
その言葉を聞いて、廉郡王は精悍な眉を顰める。もうじき夜明けだ。
だが腹も減ったし、廉郡王がいかに魔力で体力を強化しているといっても、ラクシュミにかなり吸われた後でもあり、ゼクトはかなり重かった。
「……休憩できる場所、ないか? 明るい時間に、街道を行くのはやめた方がいいような気がする」
「森の外れに水車小屋があるはずです。……この時間は誰もいません」
暗部の者の導きにより、廉郡王は明るくなる前に水車小屋に身を潜めることができた。
水車を回すために導き入れられた小川の水を、直接川に口をつけてごくごくと飲む。ふうっと息をついて、小屋に戻って欠けた土器を見つけ、それに水を汲んで小屋の中で横たわるゼクトに飲ませてやる。
少しだけ口をつけて、ゼクトは辛そうに首を振った。
「もう、無理です……魔力が……」
「うるせえ! 無理とかダメとか、弱音吐くヤツは俺ぁ大っ嫌いだ!」
廉郡王は囲炉裏があるのに気づき、周囲を見回して火打石と練炭を見つけてくると、それで器用に火を熾した。
「そんなことまで、おできになるのですね」
ゼクトが感心すると、廉郡王が笑った。
「ユエリンのヤツと釣りに行くとさ、あいつがよく火を熾してその場で魚を焼いて食べるんだよ。俺にはできねぇのが悔しくって、練習したんだ。あいつ、釣った魚まで器用に捌くし、食べられる草とか木の実とか、よく知ってやがる。そこまではまだ、俺もできねぇな」
鍋らしきものを探してきて小川の水を汲み、囲炉裏の火にかける。脱穀した米の零れたものを拾ってきて、それを鍋にぶち込んだ。
「もうめっちゃくちゃだけどな、ないよりマシだろ、我慢しろよ」
ニヤリと笑う廉郡王に、ゼクトが微笑んだ。
「殿下……恭親王殿下のことですが……」
「ユエリンがどうかしたのか?」
「……以前の、ユエリン皇子とは、どうやら別人のようなのです」
鍋を混ぜていた廉郡王が、奇妙なものを見るような顔で、すっかり窶れて頬のこけたゼクトの顔を見た。
叛乱軍の根拠地であるメイロン県では、ラジーブとチャーンバー旧王家の姫であるラクシュミが怒り狂っていた。
「大人しい男ではなかったのか!それが……城を二つも焼くなんて!」
ラクシュミが黄緑色の瞳を怒りでギラギラと光らせて言う。
「皇帝から生殺与奪の大権を与えられているとかで……思い切ったことをしてくれたものです」
ラジーブが青い顔で言った。あの美しい皇子が、まるで虫けらのように住民を殺したと思えば、怒りで腸が煮えくり返った。
「……五千の民の命、ただでは済まされぬ。報復に、あの皇子を殺してしまおう。その首を送りつけてくれるわ!」
「お待ちください。帝国軍がメイロン県を攻撃しないのは、あの皇子が我らが手中にあるからです。皇子を殺せば、後顧の憂いもなくメイロン県を焼き討ちにしかねません」
「じゃが!」
その会話を隣室から聞き耳を立てていたヴィサンティははっとして息を呑んだ。姉の、帝国への憎しみは深まるばかり。このままでは精を吸われるだけでなく、愛しい男の命は風前の灯火だ。
ヴィサンティは唇を噛み、決意を固める。密かに父親の着ていた男物の厲蠻の装束を取り出す。父親は大柄な男であった。廉郡王は相当に背が高いが、父の衣服ならばなんとか着られるだろう。それを持って深夜に地下牢に入り込む。姉ラクシュミに散々嬲られてぐったりとした廉郡王を揺り起こし、ナイフで縄を切る。
「……ヴィサンティ?」
自由になった両手首を摩りながら、不思議そうに廉郡王は恋人に尋ねた。
「……しっ。いいからこれを着て。あんたの仲間がとんでもないことをしてくれたおかげで、姉さまが怒ってる。今日はラジーブが止めてくれたけど、いつあんたを殺すと言い出すかわからない。……わたしじゃあんたをこれ以上庇えない。だから……逃げて」
廉郡王は黒い瞳を見開いて、ヴィサンティの黄緑色の瞳を見つめる。
「しかし……俺がいなくなればお前が疑われる」
「大丈夫、わたしのことは殺せない。わたしの身の内にも蛇神がいるから」
ヴィサンティは両手で廉郡王の頬を挟むと、思いのたけをこめるように、唇を重ねる。廉郡王が両腕でがっちりとヴィサンティを抱きしめる。常に手首を縛られていた廉郡王にとって、初めての抱擁だった。
互いの執着を示すように抱き合った後で、名残り惜し気に身体を離し、廉郡王は急いで衣服をつける。大柄な男の衣服ではあるが、それでも少しきつかった。
「……一人では逃げられない。生きているなら、部下も連れて行く」
「……無理だと思うけど、会うだけは会わせてあげる」
ヴィサンティは聖騎士たちが監禁されていた部屋に廉郡王を連れていった。
すでに、生きているのはゼクト一人で、残りの男たちの遺体は片づけられてそこにはなかった。
骨と皮ばかりに窶れ、ぐったりと横たわるゼクトを見て、廉郡王が慌てて走り寄る。
「ゼクト! しっかりしろ!」
「……殿下……」
抱き上げて優しく揺すると、ゼクトは薄っすらと目を開けた。
「脱出するぞ、俺に負ぶされ」
「無理です……私に構わず、お逃げください……」
「ふざけんなよ、こんなところにおめぇひとり、残していけるわけがねーだろうが! 俺の馬鹿力、ナメんな!」
ヴィサンティは部屋の隅にまとめてあった騎士たちの荷物から、適当にマントと剣を持ってきた。
「あんたのじゃないかもしれないけど、とにかく急いで!」
「……ありがとう。ヴィサンティ」
廉郡王はヴィサンティに別れの口づけをすると、ゼクトをマントにくるんで背中に背負い、腰帯に剣を手挟んで、地下牢を出る。
「わたしが見張りをひきつけるから、そのうちに……」
ヴィサンティが入口の歩哨の所に走っていって叫んだ。
「大変よ! あっちに、帝国の騎士が! 侵入しようとしているわ! 早く!」
兵士たちの注意が逸れた隙に、廉郡王はゼクトを背負って走り出した。だが、いくらも行かないうちに見つかってしまう。
「何者だ! 止まれ!」
「ちっ……まあ、無傷で返してくれるとは、はなから期待してねーけどな」
廉郡王が剣に手を伸ばした時、どこからか飛んできた投げナイフが誰何した兵士を喉を切り裂いた。
「……ご助勢します。脱出路はこちらです」
ひそやかな声がして、廉郡王がぎょっとすると、声が言った。
「私はゼクト様配下の暗部です……」
「なるほど、頼んだ」
この際、ここで敵か味方か疑っても意味はない。廉郡王は〈声〉を信じることにした。
〈声〉に導かれて、廉郡王はチャーンバー家の邸を脱出する。そのまま宵闇にまぎれ、メイロン県城も出る。暗部の者はあらかじめ、脱出路に使えそうな城壁の破れを見つけておいたのだ。
「そんな能力があるなら、ゼクトだけでも先に連れ出しておいてくれればいいのに」
「ゼクト様ご自身が拒否なさったのです。……殿下を残していくことはできないと」
その言葉を聞いて、廉郡王は精悍な眉を顰める。もうじき夜明けだ。
だが腹も減ったし、廉郡王がいかに魔力で体力を強化しているといっても、ラクシュミにかなり吸われた後でもあり、ゼクトはかなり重かった。
「……休憩できる場所、ないか? 明るい時間に、街道を行くのはやめた方がいいような気がする」
「森の外れに水車小屋があるはずです。……この時間は誰もいません」
暗部の者の導きにより、廉郡王は明るくなる前に水車小屋に身を潜めることができた。
水車を回すために導き入れられた小川の水を、直接川に口をつけてごくごくと飲む。ふうっと息をついて、小屋に戻って欠けた土器を見つけ、それに水を汲んで小屋の中で横たわるゼクトに飲ませてやる。
少しだけ口をつけて、ゼクトは辛そうに首を振った。
「もう、無理です……魔力が……」
「うるせえ! 無理とかダメとか、弱音吐くヤツは俺ぁ大っ嫌いだ!」
廉郡王は囲炉裏があるのに気づき、周囲を見回して火打石と練炭を見つけてくると、それで器用に火を熾した。
「そんなことまで、おできになるのですね」
ゼクトが感心すると、廉郡王が笑った。
「ユエリンのヤツと釣りに行くとさ、あいつがよく火を熾してその場で魚を焼いて食べるんだよ。俺にはできねぇのが悔しくって、練習したんだ。あいつ、釣った魚まで器用に捌くし、食べられる草とか木の実とか、よく知ってやがる。そこまではまだ、俺もできねぇな」
鍋らしきものを探してきて小川の水を汲み、囲炉裏の火にかける。脱穀した米の零れたものを拾ってきて、それを鍋にぶち込んだ。
「もうめっちゃくちゃだけどな、ないよりマシだろ、我慢しろよ」
ニヤリと笑う廉郡王に、ゼクトが微笑んだ。
「殿下……恭親王殿下のことですが……」
「ユエリンがどうかしたのか?」
「……以前の、ユエリン皇子とは、どうやら別人のようなのです」
鍋を混ぜていた廉郡王が、奇妙なものを見るような顔で、すっかり窶れて頬のこけたゼクトの顔を見た。
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