【R18】渾沌の七竅

無憂

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七竅

26、火城

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 そう言い出した砦付近の県令の言葉に、恭親王は目を見開く。

「――住民ごと、県を焼き討ちにしろと申すのか?」
「二県からこの砦付近の県まで、逃れてくる民は後を絶ちません。道々に死んだ遺体もうち捨てられたまま、さらに病気は拡大する一方です。このままでは南岸一体に疫病が蔓延してしまいます」
 
 県令は無表情に言う。
 通常ならば、このような命令は誰も下すことができない。たとえ刺史であっても、まちを焼くなどという決断は不可能だ。だが――。

「現在、殿下は征南大将軍にして使持節であり、さらに陛下からは黄鉞を付与されておられます。南岸全体に及んで生殺与奪の大権を握っておられる状態なのです。その殿下であればこそ、二県を焼いて疫病を封じ込め、これ以上の感染を防ぐという決断が可能なのです。殿下以外には、誰も南岸を救うことはできません」

 恭親王はあまりの言葉に声を失い、周囲の者を見回す。ゲルフィンもゲルも、そしてエルドも、それしかないという表情をして、恭親王の決断を待っている。

「……二県には、現在どの程度の民がいるのだ」

 恭親王が絞り出すように尋ねる。

「……もともとの人口は合わせて五千人弱ですが、さらに叛乱軍が加わっておりますので、六千人ほどはおりましょうか。疫病で相当数が死に、また逃げた者の数を考えますと、四千から五千人といったところかと」
「それを私に焼けと言うのか!」
「焼かなくとも、彼らは疫病で死にます。……焼かなければ、もっと多くの南岸の民が被害に遭うでしょう」

 恭親王はさすがに背中を冷や汗が流れ、手足の先が冷たくなるのを感じる。
 おそらく、そのうちの半ばは罪もない女や子供、老人だ。疫病から南岸を守るためといえ、それを殺す命令を下せというのか――。
 
 恭親王は、瞼を閉じる。

『約束して――二度と、弱い者を虐げないで――』

 ユイファとの約束が脳裏に蘇える。

 民を救うためだと、彼らは言う。しかし、焼かれる民にとっては、恭親王こそが悪魔以外の何物でもないだろう。たとえ、いずれ病に倒れる運命さだめにあったとしても、彼らの最期の日を、天でも陰陽でもない彼が、無慈悲に早めていいものとは思えなかった。

「……疫病が広まっているのなら、県の守備も緩くなっているはず。この機会に騎士団を動かして二県を制圧し、その上で疫病の対策を取れば――」
 
 恭親王が言うのを、ゲルフィンが途中で遮った。

「非常に感染力が強いのです。そんな所に騎士団で突っ込めば、騎士にも多くの感染者が出るでしょう。ことここに及んで、あの県城の中に入ろうなどと、とんでもないことです!」

 反論されて唇を噛む恭親王に、ゲルが諭すように言った。

「殿下――殿下は下々の者たちに殊更にお優しくあろうとされてこられた。しかし、小さな慈悲に囚われて、大義を失うことがあってはなりません」
「……五千の命は、小さな慈悲ではないと思うが」

 苦渋に満ちた恭親王の声に、横で見ていたゾーイは奥歯を噛みしめる。
 命令を実行する者も苦しい。しかし、その決断を為す者はさらに、その重みに打ちひしがれる。

 恭親王は手元の硯を引き寄せて、無言で墨をすり始めた。唇を噛んで、蒼白な顔で墨をする。心を落ち着け、迷いを振り払うように、一心不乱に墨をすっていく。墨をすっている間は、過酷な命令を下さずにすむと言うように。――まるで、恭親王自身が刑場へ向かう刑徒のようであった。

 やがて、恭親王が墨を置いて筆を手に取る。トルフィンが教令(親王の命令書)を書くための半紙を卓上に置く。恭親王がしばらく目を閉じて、少し考えてから、意を決したように文字を書き始めた。



 黒死病の蔓延したナンユーとリンフーの二県を焼き、南岸全体へのさらなる感染の拡大を防ぐ。
 命令を受けて、三千の兵が二県へと向かった。ゲルやゾーイは、恭親王には砦で待機するように言ったが、彼は強いて自身で見届けると言い張った。

「嫌な仕事をさせるのだ。命令を下した自分が、遠くにいることはできない」

 悲壮な覚悟で馬に揺られる主を、ゾーイは心配そうに見守るしかできない。
 
 帝国の農村は、県と呼ばれる城郭に囲まれたまちを中核とし、住民は城壁の内に居住して城郭外の農地へ通って耕す。朝、農地へと出かけ、日暮れととともに城壁内の住居に帰るのである。耕地の拡大と人口の増加により、城内から溢れた者が城郭外の農地の近くに居を営むこともあり、当然ながらそういう者たちは比較的貧しい、力のない者である。

 今回の洪水はそういった、城外に居を構えた者たちのみすぼらしい住居と田畑を押し流し、彼らはいっそうの困窮に陥る。そんな中で叛乱軍がナンユー県の県城を制圧し、城外に居を構える者も、厲蠻は全て城壁の中に立てこもって帝国に反旗を翻した。
 そこに疫病が発生したわけで、狭いところに一塊に集まっていた厲蠻の民衆に、一気に感染が広がり猖獗を極めているのだ。

 恭親王は兵の一部を割いて周辺のむらを回らせ、感染者が隠れていないか捜索させる。もし感染者がいれば、その邨も焼き討ちの対象となる。
 
 二つの県を見はるかす小高い山の上に小さな陣を張り、恭親王はその前に馬を立てた。肩には黒い鷹を止まらせ、征南大将軍の軍旗が翻る。天幕の中には大権を象徴する黄鉞が設置される。
 恭親王は右手を頭上に掲げ、命令を下した。横に立つ、ゾーイが軍旗を大きく振る。合図の喇叭の音が鳴り響いた。
 帝国の兵士が城門に近づいて扉を閉め、板を打ち付ける。城内の者が異変を察し、門のところでもみ合いが起こるが、屈強な兵に阻まれる。周囲を帝国の騎士が取り囲み、城門を越えての逃亡を阻止する。またたまたま城外に出ていた者が、驚いて城内に戻ろうとするのを、兵が止める。彼らは感染していないことが確定するまでは拘束して隔離する。

 ナンユー県ではすでに厲蠻の騎士や兵士にも黒死病が蔓延しており、まともな守備兵もいないようで、たいした混乱もなく城門は閉じられたが、リンフー県では、無理に突破した騎士と帝国騎士が揉み合う。だが、所詮その抵抗もあっさりと潰され、リンフー県の城門も固く閉ざされた。
 やがて騎士たちは城壁の周囲に稲わらを積み上げ、油をかけていく。

「殿下――」

 恭親王の背後に控えるゾーイが、声をかける。

「あまり、ご自分を責めるべきではありません」
「――これを責めなくていつ、自分を責めるのだ」
「ですが――ひいては南岸の民を守るためのことです」
「あの者たちもまた、南岸の民だ。それも、これまでもっとも虐げられてきた、罪の無い者たちだ。それにさらなる犠牲を強いるのだ。見届けないで目をつぶることはできない」

 静かな声だった。全てを諦めたような、苦い言葉。
 松明を持つ者に、最終的な合図を送る。城内に火矢が放たれる。燃えやすい素材を鏃に巻き付け、よく燃える黒い水を沁み込ませ、爆発的に燃えるようになっている。さすがに、この火矢を恭親王自身が射ることだけは、ゾーイとゲルが強く止めた。

 積み上げられた稲わらに火が点けられる。城壁を、焔が覆い始めた。さらに、城内に火のついた藁の束が投げ込まれる。

 外からの焔に、内部の民衆たちが慌てて門を蹴破ろうとするが、頑丈な門はびくともしない。城壁の上に登り助けを求める者も、周囲を取り巻く帝国の騎士たちに事態を理解する。

 城が、燃えていく。煙が上がり、物の焼ける臭いが広がる。悲鳴と嘆きと怨嗟の声が、恭親王の耳に聞こえるような気がした。



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