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七竅
6、向き合う
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「担がれる?」
ユリアがはっとして恭親王の顔を見た。
「どうして知ったのかはわからないが、ユイファのことを知ったサウラが母上に告げ口する。あの人のことだから、すぐさま別れさせろと言うだろう。そこで、サウラが自分に任せろとか何とか言って、母上から金を引き出す。で、正妻のお前に金を渡して、皇后の命令だから正妻の役割だとしてユイファの家に向かわせたんじゃないか? お前みたいな深窓育ちの女に、市井の未亡人の説得なんてできるわけないと知っていて、わざと失敗させるために。……実際、罵詈雑言吐いて爪を振り回して暴れてくれたしな。サウラもそこまでするとは思ってなかったんじゃないか?」
「な……」
ユリアが真っ青な顔で睫毛を瞬いている。
「まさか……そんな……」
「母上も何考えているかわからないお人だが、まさか親王妃であるお前を市井の愛人宅に向かわせようなんて、考えもしまい。普通は誰か然るべき人間を遣わすだろう。少なくとも、お前が自分で出て行くべき話じゃない」
「嘘……じゃあ、あれは……」
「あのまま私が現れなければ、ユイファは人を呼ぶより他はない。そんなことになってみろ、親王妃の醜聞として市井の格好の噂の的だ。――私はお前と離婚したいとは思っているが、そんな華々しい醜聞の挙句に、世間の耳目を集めて離婚したいわけじゃない」
ユリアは自分が嵌められたと知り、青い顔でガタガタと震えはじめた。これがレイナなら抱き寄せて慰めてやるところだが、香水臭いユリアに近づきたいとは全く思えなかった。
「なんで……そんな……」
ユリアは茫然と恭親王を見上げる。皇后のお気に入りであるサウラに対しては、ユリアはかなり遠慮して過ごしてきたのだ。恨まれるような覚えはまるでない。
「……サウラが何を考えているかわからんが……一応、明日、鴛鴦宮に参って母上に話を聞いてみるが、お前が自分で行ったあげくに醜態まで曝したと知れば、呆れて声も出ないと思うぞ。おそらく、サウラは自分はそんなつもりで言ったわけではない、とか何とか、大げさに驚いてしらばっくれるだけだろう。前から思っていたが、気味の悪い女だな。今後、あの女が何か言ってきたら、勝手に行動せずに、家宰のシュウかゲルに相談しろ」
「殿下……」
不安そうに自分の胸を抱くようにしているユリアに、恭親王は告げた。
「ユリア。今まで、私は逃げ回る一方で、お前にきちんと向き合ってこなかったのは、認める。だが、こればかりはどうにもならないのだ。……私は、お前のことを生涯愛することはないし、生涯、お前に触れるつもりはない。それは、ある意味ではお前のせいではなく、私の中の問題だ。お前と私の間に夫婦の関係はなく、お前はまだ純潔だ。それを、きちんと証明書を出してもいい。だから、離婚してくれないか。皇帝陛下も母上も、私の話は聞いてくれない。お前と結婚し、皇帝になることが私の幸せだと信じているらしいが、私は皇帝になりたくないし、お前と夫婦でいたくないんだ。お前の方から離婚を申し出れば、白い結婚でもあるし、離婚できるのではないかと思う。だいたい、お前はいろいろと頭が悪すぎて、到底、皇后なんて務まらないだろう」
はっきりと断言されて、ユリアは唇を噛む。ユリアとて、自分の行動が愚かなことはわかっている。でも、感情の制御が効かなくて、どうにもならないのだ。
「どうして……どうしてですの? わたくしは、幼い頃からずっと、殿下の妻になると聞かされて、その日を楽しみに生きて参りましたのに。婚約が調わなくて、なかなか対面できないうちに、殿下は先にあの女に出会って……あの女の、レイナのために、レイナを愛しているから、わたくしを愛して下さらない」
ユリアの瞳から、涙が零れ落ちる。だがその涙を見ても、恭親王は一片の心も動かさなかった。
「……私は誰も……レイナのことも愛してはいない。レイナは肅郡王の遺言があるから生涯の保護を誓っただけだ。レイナだってわかっている」
「嘘! この邸でもレイナの部屋にしか通わないし、レイナのことばかり気にかけて! わた、わたくしはずっと、ずっと幼い時から殿下のことをお慕いしておりましたのに!」
幼い時から慕っていたと言われて、恭親王は目を見開く。
「何を言っているんだ。あの、撃鞠の時まで、会ったことはないじゃないか」
「ずっと、恭親王殿下と結婚すると言われ続けてきたんですもの! すべてすべて、あなたのために……」
まだ見たこともない相手に、親の決めた婚約者だからといって恋い焦がれることができるなんて、恭親王には理解不能であった。だいたい、幼いころは彼は聖地の僧院でみなしごとして育っているのだ。
恭親王はうんざりした。
結局、この女は想像の中のユエリンに恋して、それに囚われているだけだ。
彼自身を見、彼の内面を知り、妻として彼に恋したわけじゃない。
どうしようもないほどの、沸々とした怒りが湧き上がってくる。
常に必要とされているのはユエリンであり、彼ではない。
必要なのは、ユエリンの名と、ユエリンそっくりらしいこの顔と、龍種であることを証明する金の〈王気〉だけ。
彼がどれほどの善行を積んだとしても、褒めたたえられるのはユエリンであり、彼ではない。放蕩のあげくに死んだのはユエリンのはずなのに、実際にこの世から葬り去られたのは彼である。いや、葬り去られてすらいない。初めからいないことにされたのだ。
それでも、彼の中には厳然として記憶がある。シウリンだった日々の。シウリンでありながら、ユエリンとして生きることを強要された日々の。シウリンとして生きることを彼は放棄したが、それでも、シウリンであった記憶だけは棄て去ることはできない。
恭親王は懐に手を入れて、小箱を握り締める。
シウリンとして、彼女に誓った。
たとえ彼女と結ばれることはできなくとも、彼女以外は妻にしないと。
その誓いは今や、単に彼女との誓いではなく、彼を彼たらしめている最後の最後の命綱だった。その最後の綱さえ斬り捨てろと迫るこの女が、恋い焦がれてきたのは実はユエリンだったという事実に、彼は発狂しそうになるほどの怒りを感じていた。
「……やめてくれ。何と言われようが、お前を愛することはない。抱くこともない。諦めろ。ここまで言ってもわからないのは、私は理解できない」
「どうして! どうしてあんな女!……たかが辺境の子爵の娘で、魔力だってたいしたことない! たしかに顔は少しは美しいけれど、秀女として他の皇子とも寝てきたのでしょう? あんな、あんな……」
「やめろ!」
理不尽な理由で辺境から後宮に連れてこられ、後ろ盾もないレイナを、秀女あがりと蔑むことは許し難かった。レイナのことは愛していないが、同様に捻じ曲げられた人生を歩んでいる彼としては、せめてその生活を守ってやりたいと思っただけだ。それを嫉妬して、あしざまに罵るユリアは醜く、見苦しいとしか思えない。
「さっきも言ったが、レイナのことも愛しているわけじゃない。それでも、肅郡王の遺言もあるし、人生に責任を持つと決めたからだ。レイナへの嫉妬などお門違いだし、お前がいくらレイナを虐めたところで、ますますお前のことが厭わしく思えるだけだ」
化粧が剥げるのも構わず涙を流し続けるユリアに、恭親王は冷酷に宣告した。
「今後、レイナはもちろん、ユイファの件にも口を出すことは許さない。……ユイファの件は私の方で始末をつける。あと、以後サウラの口車に乗せられるなよ。それができないなら、早く実家に帰れ」
「殿下……!」
立ち上がると、振り返ることなく部屋を出て行く。
背後からユリアの号泣が聞こえてきた。
ユリアがはっとして恭親王の顔を見た。
「どうして知ったのかはわからないが、ユイファのことを知ったサウラが母上に告げ口する。あの人のことだから、すぐさま別れさせろと言うだろう。そこで、サウラが自分に任せろとか何とか言って、母上から金を引き出す。で、正妻のお前に金を渡して、皇后の命令だから正妻の役割だとしてユイファの家に向かわせたんじゃないか? お前みたいな深窓育ちの女に、市井の未亡人の説得なんてできるわけないと知っていて、わざと失敗させるために。……実際、罵詈雑言吐いて爪を振り回して暴れてくれたしな。サウラもそこまでするとは思ってなかったんじゃないか?」
「な……」
ユリアが真っ青な顔で睫毛を瞬いている。
「まさか……そんな……」
「母上も何考えているかわからないお人だが、まさか親王妃であるお前を市井の愛人宅に向かわせようなんて、考えもしまい。普通は誰か然るべき人間を遣わすだろう。少なくとも、お前が自分で出て行くべき話じゃない」
「嘘……じゃあ、あれは……」
「あのまま私が現れなければ、ユイファは人を呼ぶより他はない。そんなことになってみろ、親王妃の醜聞として市井の格好の噂の的だ。――私はお前と離婚したいとは思っているが、そんな華々しい醜聞の挙句に、世間の耳目を集めて離婚したいわけじゃない」
ユリアは自分が嵌められたと知り、青い顔でガタガタと震えはじめた。これがレイナなら抱き寄せて慰めてやるところだが、香水臭いユリアに近づきたいとは全く思えなかった。
「なんで……そんな……」
ユリアは茫然と恭親王を見上げる。皇后のお気に入りであるサウラに対しては、ユリアはかなり遠慮して過ごしてきたのだ。恨まれるような覚えはまるでない。
「……サウラが何を考えているかわからんが……一応、明日、鴛鴦宮に参って母上に話を聞いてみるが、お前が自分で行ったあげくに醜態まで曝したと知れば、呆れて声も出ないと思うぞ。おそらく、サウラは自分はそんなつもりで言ったわけではない、とか何とか、大げさに驚いてしらばっくれるだけだろう。前から思っていたが、気味の悪い女だな。今後、あの女が何か言ってきたら、勝手に行動せずに、家宰のシュウかゲルに相談しろ」
「殿下……」
不安そうに自分の胸を抱くようにしているユリアに、恭親王は告げた。
「ユリア。今まで、私は逃げ回る一方で、お前にきちんと向き合ってこなかったのは、認める。だが、こればかりはどうにもならないのだ。……私は、お前のことを生涯愛することはないし、生涯、お前に触れるつもりはない。それは、ある意味ではお前のせいではなく、私の中の問題だ。お前と私の間に夫婦の関係はなく、お前はまだ純潔だ。それを、きちんと証明書を出してもいい。だから、離婚してくれないか。皇帝陛下も母上も、私の話は聞いてくれない。お前と結婚し、皇帝になることが私の幸せだと信じているらしいが、私は皇帝になりたくないし、お前と夫婦でいたくないんだ。お前の方から離婚を申し出れば、白い結婚でもあるし、離婚できるのではないかと思う。だいたい、お前はいろいろと頭が悪すぎて、到底、皇后なんて務まらないだろう」
はっきりと断言されて、ユリアは唇を噛む。ユリアとて、自分の行動が愚かなことはわかっている。でも、感情の制御が効かなくて、どうにもならないのだ。
「どうして……どうしてですの? わたくしは、幼い頃からずっと、殿下の妻になると聞かされて、その日を楽しみに生きて参りましたのに。婚約が調わなくて、なかなか対面できないうちに、殿下は先にあの女に出会って……あの女の、レイナのために、レイナを愛しているから、わたくしを愛して下さらない」
ユリアの瞳から、涙が零れ落ちる。だがその涙を見ても、恭親王は一片の心も動かさなかった。
「……私は誰も……レイナのことも愛してはいない。レイナは肅郡王の遺言があるから生涯の保護を誓っただけだ。レイナだってわかっている」
「嘘! この邸でもレイナの部屋にしか通わないし、レイナのことばかり気にかけて! わた、わたくしはずっと、ずっと幼い時から殿下のことをお慕いしておりましたのに!」
幼い時から慕っていたと言われて、恭親王は目を見開く。
「何を言っているんだ。あの、撃鞠の時まで、会ったことはないじゃないか」
「ずっと、恭親王殿下と結婚すると言われ続けてきたんですもの! すべてすべて、あなたのために……」
まだ見たこともない相手に、親の決めた婚約者だからといって恋い焦がれることができるなんて、恭親王には理解不能であった。だいたい、幼いころは彼は聖地の僧院でみなしごとして育っているのだ。
恭親王はうんざりした。
結局、この女は想像の中のユエリンに恋して、それに囚われているだけだ。
彼自身を見、彼の内面を知り、妻として彼に恋したわけじゃない。
どうしようもないほどの、沸々とした怒りが湧き上がってくる。
常に必要とされているのはユエリンであり、彼ではない。
必要なのは、ユエリンの名と、ユエリンそっくりらしいこの顔と、龍種であることを証明する金の〈王気〉だけ。
彼がどれほどの善行を積んだとしても、褒めたたえられるのはユエリンであり、彼ではない。放蕩のあげくに死んだのはユエリンのはずなのに、実際にこの世から葬り去られたのは彼である。いや、葬り去られてすらいない。初めからいないことにされたのだ。
それでも、彼の中には厳然として記憶がある。シウリンだった日々の。シウリンでありながら、ユエリンとして生きることを強要された日々の。シウリンとして生きることを彼は放棄したが、それでも、シウリンであった記憶だけは棄て去ることはできない。
恭親王は懐に手を入れて、小箱を握り締める。
シウリンとして、彼女に誓った。
たとえ彼女と結ばれることはできなくとも、彼女以外は妻にしないと。
その誓いは今や、単に彼女との誓いではなく、彼を彼たらしめている最後の最後の命綱だった。その最後の綱さえ斬り捨てろと迫るこの女が、恋い焦がれてきたのは実はユエリンだったという事実に、彼は発狂しそうになるほどの怒りを感じていた。
「……やめてくれ。何と言われようが、お前を愛することはない。抱くこともない。諦めろ。ここまで言ってもわからないのは、私は理解できない」
「どうして! どうしてあんな女!……たかが辺境の子爵の娘で、魔力だってたいしたことない! たしかに顔は少しは美しいけれど、秀女として他の皇子とも寝てきたのでしょう? あんな、あんな……」
「やめろ!」
理不尽な理由で辺境から後宮に連れてこられ、後ろ盾もないレイナを、秀女あがりと蔑むことは許し難かった。レイナのことは愛していないが、同様に捻じ曲げられた人生を歩んでいる彼としては、せめてその生活を守ってやりたいと思っただけだ。それを嫉妬して、あしざまに罵るユリアは醜く、見苦しいとしか思えない。
「さっきも言ったが、レイナのことも愛しているわけじゃない。それでも、肅郡王の遺言もあるし、人生に責任を持つと決めたからだ。レイナへの嫉妬などお門違いだし、お前がいくらレイナを虐めたところで、ますますお前のことが厭わしく思えるだけだ」
化粧が剥げるのも構わず涙を流し続けるユリアに、恭親王は冷酷に宣告した。
「今後、レイナはもちろん、ユイファの件にも口を出すことは許さない。……ユイファの件は私の方で始末をつける。あと、以後サウラの口車に乗せられるなよ。それができないなら、早く実家に帰れ」
「殿下……!」
立ち上がると、振り返ることなく部屋を出て行く。
背後からユリアの号泣が聞こえてきた。
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