【R18】渾沌の七竅

無憂

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七竅

4、暴発

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 その数日は長雨が降っていた。朝から降り続けて肌寒い午後、指先の冷たさに耐えかねたユイファは火鉢に火を入れて、繕い物をしていた。執事のヨウが不安げに来客を告げる。

「どなたなの?」

 こんな家に来客など滅多にない。男の客は基本的に断ることにしている。

「それが……身分ありげな女性でございまして。……どこかの、奥方と言った雰囲気で。ですが、お名乗りにはなられませんで、ただ、女主人に会いたいとの一点張りで」

 ヨウとしては予定のない客は断ろうとしたらしいのだが、その女は有無を言わせぬところがあり、梃でも動かないと。
 ユイファは眉を顰める。自分が出ていかねば収まらなさそうだ。だが、ものすごく、嫌な予感がする。

「わかったわ。居間にお通しして。それから、ロブもあなたも、部屋のすぐ外に控えていて」
「もちろんです」

 ヨウも同じ懸念を抱いているのであろう。強く頷いた。
 簡単に身支度してユイファが居間に行くと、客の女は年かさの女と、若い侍女らしい女を従え、長椅子に腰かけていた。
 部屋に入るだけで、女のつけているらしい香水の香りが鼻につく。ユイファはそれで、その女の正体をほぼ理解した。

「お待たせいたしました。……わたしが、当家の女主人でございますが」

 ユイファが卑屈にならぬ程度の丁寧な礼をする。女が、権高そうな眼差しで、値踏みするようにユイファを見る。念入りに化粧され、髪も凝った形に結い上げられ、衣裳は身分をやつしているつもりらしいが、とてもじゃないが普通の貴族階級では着られないような上質の、それもかなり派手な装飾がついている。控えめにしてこの装いなら、普段は推して知るべしである。金に宝石を象嵌した長い指甲套付け爪をつけた白い手に白い手巾を握りしめ、落ち着かな気に動かしている。
 ユイファは困ったように来客を見る。一体何をしに来たのだろうか。勝手に押しかけているのだから、用件はそちらが述べるべきである。

「……ふーん。囲われ女というのがどういう者か、一度見てみたいと思っていたのだけど」

 甲高い声に高飛車な言い方。威嚇というよりは虚勢を張っているように聞こえ、ユイファは首を傾げる。ただ喧嘩を売りに来たのか? いくら何でもそんな馬鹿なことはすまいと思っていたが、想像以上に出来の悪い正室のように見えた。

「この家も、みんな殿下に買ってもらったの? お前といいレイナといい、身分の賤しいものは、物を強請るのが上手なのね」

 ふん、と侮蔑を含んで目を眇め、顎を心持ちそらして、女が言う。目の端に小さな泣き黒子が見え、意外に素顔は淡泊な顔なのかもしれないと、ユイファは思った。

「この家は、わたしの死んだ夫の持ち物ですが。……失礼ですが、どちら様でしょう? ご用件をお伺いしても?」

 見かけよりも遥かに気の強いユイファが、殊更に眉尻を下げた表情を作り、招かざる客に戸惑うふうを作って言う。少なくとも、名乗りもせずに人の家に乗り込み、その所有にケチをつけるなど、およそ常識ある人間のすることではない。
 
「名乗らずとも、誰だか分かるでしょ? 罪人の妻の分際で、わたくしに名乗らせようというの? よくもそんな口が……」
「名乗っていただかなければ、どなたか見当もつきません。わたくしは千里眼ではありませんので、初対面の方のご身分を見抜くようなことはできませんし。身分を隠していらっしゃる以上、ご身分に相応しい扱いを受けられないのは当たり前ではありませんか」

 ユイファからすればしごく真っ当な反論なのだが、女にとっては下賤の者に反論されたこと自体が恥辱なのであろう。女は真っ赤になって震えている。

「……そ、そのよく回る口で殿下を言いくるめて篭絡したのね!賤しい囲い者のくせに!」
「いったいどなたの話をなさっているのか、全くわかりかねます」
「しらばっくれて! ここに若い貴族の男が通っているのは知っているのよ!」
「で、それがあなた様に何の関係があるとおっしゃるのですか? その方にご用があるならば、今日はいらしていませんよ?」 

 ユイファ自身はシウの正体が何者か、聞かされていない。推測しているだけである。それに、この権高な女の夫がシウだという保証もない。だいたい、囲われ者だというけれど、皇子の我儘に、平民の未亡人である自分が振り回されているだけだ。ユイファは自分は被害者であると思っているから、目の前の正室らしき女に対して、全く良心の痛むところはなかった。ただ夫に顧みられずに可哀想だと同情はしていたが、どうやらそれも必要のない女であったらしい。
 そういう態度が女の目には不逞ぶてしく見えていっそう怒りを掻き立てるのであろうが、ユイファは彼女に遠慮するつもりはなかった。

「生意気なっ! この女を打ち据えておしまいっ!」

 女が横に控える侍女たちに命ずると、隣室で息を飲んで様子を伺っていたヨウとロブが走り込んできてユイファを守るように立ち塞がった。

「邪魔をすると言うのですかっ? おどきなさいっ!」

 女が甲高い声でヨウとロブに指図するが、二人が女の命令に従うわけがない。

「この家はわたしの家で、彼らはわたしの使用人です。わたしを守ろうとして当たり前ではありませんか。……言っておきますけど、もしこの上狼藉に及べば、強盗としてお上に訴え出ますよ。名前もわからない女に無理に踏み込まれて狼藉を受けたと」

 ユイファの言葉に、今まで黙っていた老女が激昂する。

「さっきから黙って聞いていれば、姫様を強盗だの何だのと、無礼が過ぎるわ!」
「招ばれもしない家に勝手に押しかけて名すら名乗らず、悪口雑言しているそちらの方がよっぽど無礼でしょう? それとも、あなたがそのようにお姫様をお育てなさったのですか?」

 本来ならば、世間知らずで猪突猛進の令嬢の行いを諌めるべき側仕えが、むしろそれを助長している。怒りに震えている主従を前に、ユイファは心底迷惑そうに追い打ちをかけた。

「そもそも貴女方は何者で、いったい何しにいらっしゃったのです?」

 この問いはユイファの偽らざる本心であったが、女のプライドを刺激するには十分だったらしい。女は般若のような形相で立ち上がると、良家の令嬢の立居振舞もかなぐり捨ててユイファに掴みかかろうとした。

「この、卑しい売女がっ!」

 そんな言葉をいったいどこで憶えたのか、と妙に冷静に考えているユイファの目の前で、 咄嗟に前に立ちはだかってユイファを庇うロブの頬を、女の付け爪が抉る。血しぶきが飛んで、さすがのユイファも一瞬気が遠くなりかけた時、いくつもの足音とともに乱暴に扉が開き、背の高い青年が部屋に飛び込んできた。

「ユイファ!」

 青年は黒髪をなびかせて真っ直ぐユイファの所に駆け込み、ユイファを守るように抱きしめる。彼の護衛たちが女を囲み、それ以上の狼藉を防ぐ。頬から血を流しているロブにその父親が慌てて寄り添い、奥から走り出た乳母のマーサが手巾を当てて血止めをする。
 
「大丈夫だったか、ユイファ。……すまない、遅くなって」
「シウ様……。わたしは、平気です。ロブが……」
「この家の周囲にスールーの手の者を張り込ませておいて正解だった。まさか自分で乗り込んでくるとは、思いもよらなかったけれど」

 シウがユイファの頬を愛おしそうに撫で、ほっとしたように抱きしめる。そしてそのまま顔だけを動かし、茫然と立っている女の方を向いた。

「本当にお前という人間は不愉快極まりないな。いったい何がしたかったのか」

 シウの黒い瞳は冷酷で、侮蔑の色しか浮かんでいなかった。

「……夫の通う女に道理を説くのも、正妻の役割ですわ。こんな下賤な女に入れあげて……軽蔑します」
「呼ばれしないのにのこのこやってきて、何が正妻の役割だ。しかも道理を説くとか言って、その凶悪な爪を振り乱して、お前の方がよっぽど無法者じゃないか。レイナを虐めるだけじゃ気が済まずに、邸内から出てきて非法を働くなど、恥ずかしいにもほどがある。お前の傲慢で浅はかな行いには、もううんざりだ。名目だけでもお前を妻と呼ばなければならないとはな。……一生、お前など愛することはないというのに」

 いくら何でもそれはひどい……傍で聞いても心が抉られそうな言葉を、しかも他の女を抱きしめながら口にするのだ。ユイファは蒼白になって胸元を握りしめている女を見て、ひどく同情した。この人がここまで拗れてしまったのも、この男のあまりの冷たさの故に違いないと思えたから。だがその同情を口にすれば、この女はさらに自尊心を砕かれてしまうだろろう。ユイファは、何も言わずにシウの腕の中で事の成り行きを見つめるしかなかった。

「本当にすまなかった。あの女が何を考えているのか、全く理解できないのだが、二度とこんなことのないようにする。……ロブにも、十分に養生するように言ってくれ」

 疲弊し、意気消沈したシウはユイファに謝り、ロブの治療のために医者を呼ぶと十分すぎる治療代を残して、妻を引っ立てるように邸に帰っていった。ユイファにとってはただただ迷惑なだけだったが、どちらにも同情してしまう不幸な夫婦だと思った。
 シウがほんの少しでも彼女に優しくしてやれば、ただそれだけで状況は好転しただろうにと思う反面、あの、誰に対しても優しい仮面を外さないシウが、妻にだけは頑なに憎しみを向けるのは、何かの事情があるのだろうとも思う。
 ユイファは降りしきる雨の中を遠ざかる豪華な馬車を見送って、溜息をついた。
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