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六竅
43、買われた玩具
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それから一週間は、平穏な日が過ぎた。
シウは相変わらず毎日のように訪れ、書庫でいろいろな本を読みふけったり、ユイファを相手に〈陰陽〉の烏鷺を闘わせたりしているが、以前と同様でユイファに触れるようなことはなかった。エルとターシュとは、あの日以来会っていない。穏やかな日々に、ユイファは全て夢だったのではないかとすら思う。
ユイファは花も終わりかけた薔薇の庭で一人佇んでいた。
高貴で優しい弟のような少年に手ひどく裏切られて凌辱された。しかも、彼らにとって、それは単なる面白い遊びでしかない。ユイファにとっては、自身の尊厳を穢されたことよりも、彼に裏切られたことの方が辛かった。
シウが本を愛し、学問を好み、歴史や文学の世界に耽溺するようすは死んだ夫を思い出して好きだった。難解な数学の本を見つけては、目を輝かせて解法を見つけようと没頭する姿は美しく、見ているだけで心が満たされた。本好きの人に悪い人はいない――夫の言葉が、ユイファがシウを信用した理由だった。ソールのような下心抜きで、ユイファの肩にのしかかった生活の苦しみを取り除こうと、優しく寄り添ってくれていた。――そう信じていたのに。
あの微笑みは偽りだったのか。あの優しさはまがい物だったのか。
――そうだ。彼は妻も愛人も愛せない、可哀想な人だった。
いつかの会話を思い出し、ユイファは自嘲した。妻も愛人も愛せない人でなしだもの、ユイファを使い捨ての玩具にするぐらい、なんとも思わわないに違いない。どうしてそれに気づかなかったのか。
かつて、本当に好きな人には二度と会えない、と言ったシウの透き通るような笑顔を思い出し、ユイファは何故か、胸が痛んだ。
その午後、三人が連れ立ってユイファの家を訪れ、平穏な日は終わりを告げた。エルの手には、ソールから買い戻した帝都の一等地にある店舗の権利書があった。
「あいつは十二貴嬪家に連なる高位貴族の子弟を攫って、醜い欲望を遂げようとしたのが、すんでのところで踏み込まれて未遂に終わった。その子弟の今後も考えて公にはしないかわりに、相当な慰謝料と口止め料をもらい、今後二度とユイファに手を出さない、という確約をとってきた。……これが、慰謝料代わりの店舗の権利書だ。そこの賃貸料で、楽に生活できるはずだ」
エルが説明する。マーサもヨウも、彼らの来訪を歓迎し、にこにこと話を聞いている。あの夜起きたことを、彼らも気づいているはずなのに、いったいどうやって丸め込んだのか。ユイファは恐ろしくて問いただす気にもなれなかった。
エルが差し出した権利書を受け取ることを躊躇したユイファを見て、シウがふっと目を眇める。
「どうしたの、ユイファ。遠慮せずに受け取りなよ。あのおっさんからの迷惑料なんだから」
だがこの権利書を受け取れば、ユイファは彼らの玩具となって、甚振られる日々が続くことになるのだ。なおもユイファが躊躇しているのを見て、シウは言った。
「ユイファ、本当に遠慮はよくないよ」
「そうだよ。乳母にも執事にも、これで給金を支払えるよ」
ターシュも薄茶の髪を午後の陽に輝かせて笑う。
ユイファは目を閉じた。使用人のことを言われると、ユイファは彼らに従うしかなく、また、彼ら三人との間に横たわる、圧倒的な身分の差がユイファに抵抗する気持ちを失わせていた。ユイファは彼らの本当の名は知らない。しかし、彼らは十二貴嬪家の者たちをあごで使う立場――そんな身分の者など、一つしかありえない――にあり、それこそどんなことをしても許されるのだ。罪人の妻として爵位を剥奪されたユイファが彼らの非道を訴え出たところで、彼らに蚊に刺されたほどの痛痒すら与えられないだろう。彼らが平民に過ぎないユイファを玩具にすると望んだ以上、それは間違いなく叶えられるのである。
ユイファが観念して、震える手で権利書を受け取ると、ターシュが呟くように言った。
「契約成立、だね?」
ちろりと唇を舐めてターシュが言う。
「さっそく今からでも楽しみたいところだが……」
エルが唇の端を持ち上げて笑う。ユイファは思わず身を固くし、唇を振るわせる。まだ日も高い、こんな時間から、ユイファは半泣きになって首を振った。
そんなユイファの様子を見て、シウが微笑んだ。
「大丈夫だよ、ユイファ……ええと、ヨウ、だっけ?」
シウは執事を呼ぶと、懐から小切手帳を出した。
「早速で悪いけれど、いくつか頼みたいことがある。さっきの書類をユイファの代わりに役所に届けてきてほしい。それで手続きは完了さ。そのついでに、義弟くんにもいくらか、お小遣いが必要だと思うから、これを換金して当てて欲しい。学用品や日用品なんかも、必要なものは希望を聞いて、そこから出してね。足りないようなら、その都度言ってくれてもいいし」
さらさらと金額を書き入れ、署名をして、権利書と一緒にヨウに渡す。
「畏まりました」
ヨウはもともとネルー家に仕えているから、義弟の生活が改善されるというのがやはり嬉しいらしい。いそいそと出て行くヨウを見送って、次に乳母のマーサを呼び出し、天河街の有名料亭まで、料理の注文に行くように命じた。
「夕食はここで四人で食べるから、仕出しを注文して、そのまま帰りに持ってきてくれ。……この二人は舌が肥えているから、食材も吟味して、君がきちんと監督してきてくれよ。……帰りの荷物が大変だろうから、ロブも連れて行くといい」
シウの微笑みに、マーサは年甲斐もなく顔を赤くし、シウから渡された大金を抱えて出ていった。これで、屋敷の中は彼ら四人と、彼らの護衛たちだけ。ユイファは、逃げることも、助けを求めることもできなくなった。
「今日は薬なしで、どこまでいけるかな」
エルがにやりと笑う。ターシュも面白そうに破顔した。
「ほんと、ゆっくり楽しもうね、ユイファちゃん」
ユイファだけが、背筋に冷たい汗を滴らせて、青くなって震えていた。
シウは相変わらず毎日のように訪れ、書庫でいろいろな本を読みふけったり、ユイファを相手に〈陰陽〉の烏鷺を闘わせたりしているが、以前と同様でユイファに触れるようなことはなかった。エルとターシュとは、あの日以来会っていない。穏やかな日々に、ユイファは全て夢だったのではないかとすら思う。
ユイファは花も終わりかけた薔薇の庭で一人佇んでいた。
高貴で優しい弟のような少年に手ひどく裏切られて凌辱された。しかも、彼らにとって、それは単なる面白い遊びでしかない。ユイファにとっては、自身の尊厳を穢されたことよりも、彼に裏切られたことの方が辛かった。
シウが本を愛し、学問を好み、歴史や文学の世界に耽溺するようすは死んだ夫を思い出して好きだった。難解な数学の本を見つけては、目を輝かせて解法を見つけようと没頭する姿は美しく、見ているだけで心が満たされた。本好きの人に悪い人はいない――夫の言葉が、ユイファがシウを信用した理由だった。ソールのような下心抜きで、ユイファの肩にのしかかった生活の苦しみを取り除こうと、優しく寄り添ってくれていた。――そう信じていたのに。
あの微笑みは偽りだったのか。あの優しさはまがい物だったのか。
――そうだ。彼は妻も愛人も愛せない、可哀想な人だった。
いつかの会話を思い出し、ユイファは自嘲した。妻も愛人も愛せない人でなしだもの、ユイファを使い捨ての玩具にするぐらい、なんとも思わわないに違いない。どうしてそれに気づかなかったのか。
かつて、本当に好きな人には二度と会えない、と言ったシウの透き通るような笑顔を思い出し、ユイファは何故か、胸が痛んだ。
その午後、三人が連れ立ってユイファの家を訪れ、平穏な日は終わりを告げた。エルの手には、ソールから買い戻した帝都の一等地にある店舗の権利書があった。
「あいつは十二貴嬪家に連なる高位貴族の子弟を攫って、醜い欲望を遂げようとしたのが、すんでのところで踏み込まれて未遂に終わった。その子弟の今後も考えて公にはしないかわりに、相当な慰謝料と口止め料をもらい、今後二度とユイファに手を出さない、という確約をとってきた。……これが、慰謝料代わりの店舗の権利書だ。そこの賃貸料で、楽に生活できるはずだ」
エルが説明する。マーサもヨウも、彼らの来訪を歓迎し、にこにこと話を聞いている。あの夜起きたことを、彼らも気づいているはずなのに、いったいどうやって丸め込んだのか。ユイファは恐ろしくて問いただす気にもなれなかった。
エルが差し出した権利書を受け取ることを躊躇したユイファを見て、シウがふっと目を眇める。
「どうしたの、ユイファ。遠慮せずに受け取りなよ。あのおっさんからの迷惑料なんだから」
だがこの権利書を受け取れば、ユイファは彼らの玩具となって、甚振られる日々が続くことになるのだ。なおもユイファが躊躇しているのを見て、シウは言った。
「ユイファ、本当に遠慮はよくないよ」
「そうだよ。乳母にも執事にも、これで給金を支払えるよ」
ターシュも薄茶の髪を午後の陽に輝かせて笑う。
ユイファは目を閉じた。使用人のことを言われると、ユイファは彼らに従うしかなく、また、彼ら三人との間に横たわる、圧倒的な身分の差がユイファに抵抗する気持ちを失わせていた。ユイファは彼らの本当の名は知らない。しかし、彼らは十二貴嬪家の者たちをあごで使う立場――そんな身分の者など、一つしかありえない――にあり、それこそどんなことをしても許されるのだ。罪人の妻として爵位を剥奪されたユイファが彼らの非道を訴え出たところで、彼らに蚊に刺されたほどの痛痒すら与えられないだろう。彼らが平民に過ぎないユイファを玩具にすると望んだ以上、それは間違いなく叶えられるのである。
ユイファが観念して、震える手で権利書を受け取ると、ターシュが呟くように言った。
「契約成立、だね?」
ちろりと唇を舐めてターシュが言う。
「さっそく今からでも楽しみたいところだが……」
エルが唇の端を持ち上げて笑う。ユイファは思わず身を固くし、唇を振るわせる。まだ日も高い、こんな時間から、ユイファは半泣きになって首を振った。
そんなユイファの様子を見て、シウが微笑んだ。
「大丈夫だよ、ユイファ……ええと、ヨウ、だっけ?」
シウは執事を呼ぶと、懐から小切手帳を出した。
「早速で悪いけれど、いくつか頼みたいことがある。さっきの書類をユイファの代わりに役所に届けてきてほしい。それで手続きは完了さ。そのついでに、義弟くんにもいくらか、お小遣いが必要だと思うから、これを換金して当てて欲しい。学用品や日用品なんかも、必要なものは希望を聞いて、そこから出してね。足りないようなら、その都度言ってくれてもいいし」
さらさらと金額を書き入れ、署名をして、権利書と一緒にヨウに渡す。
「畏まりました」
ヨウはもともとネルー家に仕えているから、義弟の生活が改善されるというのがやはり嬉しいらしい。いそいそと出て行くヨウを見送って、次に乳母のマーサを呼び出し、天河街の有名料亭まで、料理の注文に行くように命じた。
「夕食はここで四人で食べるから、仕出しを注文して、そのまま帰りに持ってきてくれ。……この二人は舌が肥えているから、食材も吟味して、君がきちんと監督してきてくれよ。……帰りの荷物が大変だろうから、ロブも連れて行くといい」
シウの微笑みに、マーサは年甲斐もなく顔を赤くし、シウから渡された大金を抱えて出ていった。これで、屋敷の中は彼ら四人と、彼らの護衛たちだけ。ユイファは、逃げることも、助けを求めることもできなくなった。
「今日は薬なしで、どこまでいけるかな」
エルがにやりと笑う。ターシュも面白そうに破顔した。
「ほんと、ゆっくり楽しもうね、ユイファちゃん」
ユイファだけが、背筋に冷たい汗を滴らせて、青くなって震えていた。
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