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六竅
10、皇后の介入
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「香水で? まだ揉めているのか」
後宮の鴛鴦宮で、皇后と賢親王に主の婚礼についての報告をするメイローズに対し、賢親王は呆れたように言った。
馬鹿馬鹿しいと言えば、馬鹿馬鹿しい話である。
「それは以前、公爵の方より言って解決したのではなかったのか?」
「……はい。ですが、当日にはやはり、いつものように香水の香りが致しまして……」
晴れの日の身だしなみとして、ユリアにとっては外せないものだったのかもしれないが、ずっと隣に座っていた恭親王にはかなりの苦痛であったはずだ。
「そのせいか、いつもよりも御酒の酔い方がよくないようで、花嫁の部屋に下がられてから、ご気分が悪くなり、堪えられずに外の空気を吸いに出られてそれっきり……」
「つまり、まだ……」
メイローズは頷く。そればかりか、ユリアが香水を止めるまではあの部屋に行かぬと宣言した。
「それは、ユリア姫が香水を止めれば通うという意味なのだな?」
「さあ。そこまでは。ですが、奥方様の方も頑なでございますし……」
賢親王にすれば、そこはユリアが折れるべきだと思うのだが、なぜ、拗れておるのか。
「どうやらその……奥方様の方は、ご側室がご教唆しているのではないかと、疑っておられるようで」
「そんな事実はないのだろう?」
賢親王が精悍な眉を顰める。
「はい。わが主はたとえご側室様がそのように言ったとしても、筋の通らぬことであれば、それに従うような方ではございません。奥方様の部屋を出たのも、行かないとの宣言も、全てわが主の意志から出たことに間違いはございません。ですが、奥方様としては、背後にご側室様の暗躍をお疑いになりたいのではないかと……」
自分が愛されぬのは、側室レイナの存在のせいだと、ユリアが信じたいのであろうと、メイローズは言う。
メイローズの方は、やはり長年仕えた勘で、恭親王のレイナへの寵愛が、けして盲目的なものではないと気づいている。というよりも、ユリアが恭親王の女の好みと真逆なのもわかっているので、その好みを曲げて、敢えて恭親王をユリアの部屋に通わせるためには、せめて香水はユリアに折れて欲しいのだ。だがメイローズの立場としては、それをユリアに直に言うことはできない。また、宦官風情の話など聞かぬことも予想される。
「厄介な。何故ユリア姫はそこまで香水にこだわるのか」
賢親王がいぶかし気に首を振り、メイローズも首を傾げる。
そもそも、僧院で育った恭親王は、自身の身を飾るための香りというものに馴染みがない。僧院の戒律に反するからだ。香料は全て、天と陰陽への祈りのためにある。祈りの時に使う香草やハーブを匂い袋にして身に着けることはあるが、純粋に身を飾るために香水を振りかけることはない。僧院育ちの恭親王は、そのためかひどく匂いに敏感であった。
「……実は、妾もあまり香水は得意でない。それ故に、下襲に淡く焚き込め、あとは匂い袋を持ち歩く程度じゃ。あれが香水に慣れぬのも、そのせいかもしれぬ」
皇后が言った。内心、ユリアはちょっと振りかけすぎと思っていたらしい。ただ、皇后は長い後宮暮らしで香水にも慣れている。皇后の立場では、少々臭いからと言って、匂いを咎めたりはできないからだ。
「あまりなようならば、妾の方から話してみてもよい。女は男から身だしなみについて意見されるのを嫌う。姑の妾からであれば、聞くよりほか、なかろう」
「少し大げさにはなりますが、それ以外に方法はなさそうです」
メイローズが一礼する。
「……時に、そなたは皇上よりとくに、あれ付きとして派遣されている宦官で、もとは皇上の側付きじゃ。このまま恭親王府に仕えることはできまい」
皇后がメイローズに尋ねると、メイローズも頷いた。
「はい、娘娘。恭親王府にはシャオトーズをつけて、引継ぎが済み次第、私は皇宮に戻ることになりますが……実は、陰陽宮からも誘いが参っておりまして」
「ほう?」
陰陽宮は聖地の〈禁苑三宮〉の最奥、聖山プルミンテルンの麓にある陰陽交合を司る宮だ。五十人足らずの宦官によって営まれ、その境域には巡礼者も入ることが許されない。
陰陽宮と東の皇宮は転移門で繋がっており、宦官の行き来もある。メイローズ自身、幼少時に自ら志願して陰陽宮で自宮し、一種の修行を兼ねて皇宮で働いているのだ。聖職者を目指すのであれば、そろそろ陰陽宮に帰ってもいい年齢である。
「そのこと、ユエリンは存じておるか?」
「いえ……なかなかお話しする機会がなくて。また、新しい邸はいろいろとごたついており、シャオトーズへの引継ぎもできない状況ですので、まだしばらくはお側にいられる時間がありそうです」
メイローズは少し眉尻を下げて応えた。
「そうか……そなたが付いていればこそ、妾も安心していられたが、そなたがいないとなれば、不安であるな。ユリア姫との仲も難しそうであるし、秀女あがりの側室では、あれの子を孕むのも難しかろう。どうであろうか、やはりもう一人二人は、側室を納れるべきではないか?」
皇后の言葉に、メイローズは困ったように首を傾げる。今でも揉めているのに、これ以上女が増えて、あの主が捌けるとは思えなかった。
「例の、ゲルの姪は離婚が成立したのであろう。あれはどうじゃ?」
「……娘娘、側室のレイナ様は、ソルバン家のユルゲンの側室の妹でございます。そこへ、ユルゲンと離婚したヤスミン嬢を側室として納れるのは、さすがに外聞がよろしくありません」
「そうか……」
皇后はまだ何か考えるようにしていたが、指示があったのでメイローズは御前を下がる。
主の結婚は成ったが、前途は多難であった。
(とりあえず、香水の件だけでもクリアできれば――)
メイローズは回廊を歩きながら、密かに溜息をついた。
後宮の鴛鴦宮で、皇后と賢親王に主の婚礼についての報告をするメイローズに対し、賢親王は呆れたように言った。
馬鹿馬鹿しいと言えば、馬鹿馬鹿しい話である。
「それは以前、公爵の方より言って解決したのではなかったのか?」
「……はい。ですが、当日にはやはり、いつものように香水の香りが致しまして……」
晴れの日の身だしなみとして、ユリアにとっては外せないものだったのかもしれないが、ずっと隣に座っていた恭親王にはかなりの苦痛であったはずだ。
「そのせいか、いつもよりも御酒の酔い方がよくないようで、花嫁の部屋に下がられてから、ご気分が悪くなり、堪えられずに外の空気を吸いに出られてそれっきり……」
「つまり、まだ……」
メイローズは頷く。そればかりか、ユリアが香水を止めるまではあの部屋に行かぬと宣言した。
「それは、ユリア姫が香水を止めれば通うという意味なのだな?」
「さあ。そこまでは。ですが、奥方様の方も頑なでございますし……」
賢親王にすれば、そこはユリアが折れるべきだと思うのだが、なぜ、拗れておるのか。
「どうやらその……奥方様の方は、ご側室がご教唆しているのではないかと、疑っておられるようで」
「そんな事実はないのだろう?」
賢親王が精悍な眉を顰める。
「はい。わが主はたとえご側室様がそのように言ったとしても、筋の通らぬことであれば、それに従うような方ではございません。奥方様の部屋を出たのも、行かないとの宣言も、全てわが主の意志から出たことに間違いはございません。ですが、奥方様としては、背後にご側室様の暗躍をお疑いになりたいのではないかと……」
自分が愛されぬのは、側室レイナの存在のせいだと、ユリアが信じたいのであろうと、メイローズは言う。
メイローズの方は、やはり長年仕えた勘で、恭親王のレイナへの寵愛が、けして盲目的なものではないと気づいている。というよりも、ユリアが恭親王の女の好みと真逆なのもわかっているので、その好みを曲げて、敢えて恭親王をユリアの部屋に通わせるためには、せめて香水はユリアに折れて欲しいのだ。だがメイローズの立場としては、それをユリアに直に言うことはできない。また、宦官風情の話など聞かぬことも予想される。
「厄介な。何故ユリア姫はそこまで香水にこだわるのか」
賢親王がいぶかし気に首を振り、メイローズも首を傾げる。
そもそも、僧院で育った恭親王は、自身の身を飾るための香りというものに馴染みがない。僧院の戒律に反するからだ。香料は全て、天と陰陽への祈りのためにある。祈りの時に使う香草やハーブを匂い袋にして身に着けることはあるが、純粋に身を飾るために香水を振りかけることはない。僧院育ちの恭親王は、そのためかひどく匂いに敏感であった。
「……実は、妾もあまり香水は得意でない。それ故に、下襲に淡く焚き込め、あとは匂い袋を持ち歩く程度じゃ。あれが香水に慣れぬのも、そのせいかもしれぬ」
皇后が言った。内心、ユリアはちょっと振りかけすぎと思っていたらしい。ただ、皇后は長い後宮暮らしで香水にも慣れている。皇后の立場では、少々臭いからと言って、匂いを咎めたりはできないからだ。
「あまりなようならば、妾の方から話してみてもよい。女は男から身だしなみについて意見されるのを嫌う。姑の妾からであれば、聞くよりほか、なかろう」
「少し大げさにはなりますが、それ以外に方法はなさそうです」
メイローズが一礼する。
「……時に、そなたは皇上よりとくに、あれ付きとして派遣されている宦官で、もとは皇上の側付きじゃ。このまま恭親王府に仕えることはできまい」
皇后がメイローズに尋ねると、メイローズも頷いた。
「はい、娘娘。恭親王府にはシャオトーズをつけて、引継ぎが済み次第、私は皇宮に戻ることになりますが……実は、陰陽宮からも誘いが参っておりまして」
「ほう?」
陰陽宮は聖地の〈禁苑三宮〉の最奥、聖山プルミンテルンの麓にある陰陽交合を司る宮だ。五十人足らずの宦官によって営まれ、その境域には巡礼者も入ることが許されない。
陰陽宮と東の皇宮は転移門で繋がっており、宦官の行き来もある。メイローズ自身、幼少時に自ら志願して陰陽宮で自宮し、一種の修行を兼ねて皇宮で働いているのだ。聖職者を目指すのであれば、そろそろ陰陽宮に帰ってもいい年齢である。
「そのこと、ユエリンは存じておるか?」
「いえ……なかなかお話しする機会がなくて。また、新しい邸はいろいろとごたついており、シャオトーズへの引継ぎもできない状況ですので、まだしばらくはお側にいられる時間がありそうです」
メイローズは少し眉尻を下げて応えた。
「そうか……そなたが付いていればこそ、妾も安心していられたが、そなたがいないとなれば、不安であるな。ユリア姫との仲も難しそうであるし、秀女あがりの側室では、あれの子を孕むのも難しかろう。どうであろうか、やはりもう一人二人は、側室を納れるべきではないか?」
皇后の言葉に、メイローズは困ったように首を傾げる。今でも揉めているのに、これ以上女が増えて、あの主が捌けるとは思えなかった。
「例の、ゲルの姪は離婚が成立したのであろう。あれはどうじゃ?」
「……娘娘、側室のレイナ様は、ソルバン家のユルゲンの側室の妹でございます。そこへ、ユルゲンと離婚したヤスミン嬢を側室として納れるのは、さすがに外聞がよろしくありません」
「そうか……」
皇后はまだ何か考えるようにしていたが、指示があったのでメイローズは御前を下がる。
主の結婚は成ったが、前途は多難であった。
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