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六竅
8、小箱
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正房の大広間での宴会はまだ続いていたが、ゾーイは浮かれ騒ぐ客たちが真新しい邸内で羽目を外さないよう、あるいは酔って池に落ちたりした者がいないかどうか、角灯を手に邸内を見回っていた。
列席した皇子たちは大部分がすでに引き上げていたが、悪餓鬼トリオの廉郡王とダヤン皇子はだらだらと侍従たちと飲んでいる。主従ともに仲がよいために、なかなか話が尽きないらしい。泊りの準備をした方がいいのか、その辺りはゲルがうまくやるだろうか、などと考えながら、邸奥の主人の部屋の方に足を向ける。
と、前からメイローズが慌てた風にやってきた。
「どうしたのだ、メイローズ?」
「ゾーイ殿……!」
あからさまにほっとした表情で、メイローズが駆け寄ってくる。そして、声を潜めるようにして、言った。
「わが主をご覧になりませんでしたか? もしや、広間に戻ったのかと思ったのですが……」
「殿下なら先ほど花嫁の部屋に……」
「それが……」
メイローズが言いにくそうに眉を顰める。
「どうにも部屋の様子がおかしいのです。その……物音一つ致しませんで。そっと覗いてみたのですが、寝台に〈王気〉の気配がありません。もちろん、居間の方にもいらっしゃらなくて……。このようなこと、花嫁の侍女たちにも聞けませんので、どうしたものかと……」
「それはつまり……殿下が初夜から逃げたと……」
ゾーイが絶句して、まず考えたのはレイナの部屋だ。婚礼の夜に、花嫁の新床をすっぽかして、側室の部屋で過ごすなどは、あまりに非道な仕打ちである。
「……そちらにはいらっしゃいませんでした。もちろん、ご自分の部屋にも……」
「わかった。見て回ろう。広間の方にはいらっしゃらない」
「では、お庭でしょうか。春とはいえ、夜はまだ冷えますのに……」
庭園の四阿で、酔って倒れている主を見つけたのはメイローズであった。
「わが主よ!こんなところで、お風邪を引きます!」
「ああごめん……まだ邸に慣れてなくて、自分の部屋がわかんなくなっちゃったんだ」
少しばかりしどけない様子で、恭親王が答える。
「その、奥様のお部屋で過ごされるのでは……」
ゾーイの声が思わず低くなる。いくら何でも不誠実だと、ゾーイの道義心が告げている。
「嫌だなあ、あんな香水臭いのが奥様とかさ……勘弁してよ。僕は処女と香水臭いのだけは御免だって前から言っているのに、ドンピシャでダブルコンボじゃん。無理無理、ぜっったい、無理!」
最近、恭親王は「私」という一人称で大人びた話し方を心がけているらしいのだが、酔ったおかげで元の口調に戻っていた。
「しかし……あちらはお待ちでございましょう」
メイローズが言うのにも、首を振った。
「嫌だ。あんな女と寝るくらいなら、今からこの池に飛び込んで死ぬ」
「殿下……」
それでもまだ、レイナの部屋には行かない分別はあったのだな、とゾーイは思う。
「あ、そうだ。メイローズ、さっき預けた箱、返して」
「ええ、ここにお持ちしておりますが」
メイローズが懐から、主より預かっていた小箱を出すと、やはり恭親王はそれをひったくるように奪い取り、両手で握りしめるようにして、それを額に押し頂いた。
以前、ベルンチャ族の天幕に囚われていた時は、ボルゴールに凌辱されてそれを失うようなことがないようにと、恭親王はその箱をゾーイに預けていた。
あの時、恭親王はゾーイの問いに対し、こう答えた。
『これのためだけに僕は生きているんだ』
命よりも大切なもの。恭親王は、まるでその箱に許しを請うかのように、しばらくその小箱に何か念じているようだった。もしかして――。
「殿下。殿下がこの度のご婚姻を拒絶なさったのは、その箱と関係があるのですか」
主の心に踏み込むことはしまいとは思いながらも、ゾーイは聞かずにはいられなかった。
恭親王は小箱を懐に仕舞い込むと、言った。
「……ゾーイ、メイローズ。もし僕が――何かの理由で命を落とすようなことがあれば、お前たちはこの箱の中身を、聖地の太陽宮に持って行って欲しい。これは本来、僕が持っていてはいけないものだ。でも――もし、今これを失ったら、僕は生きていくことができない」
「殿下――」
気づけば、主の頬は涙で濡れていた。
人に会わぬよう、メイローズとゾーイで主を担ぐようにして主の部屋に運び込み、休ませる。主が眠ったことを確認して寝室から出て来たメイローズに、ゾーイは尋ねた。
「あの……箱の中身は何だ?」
「私も、見たことはないのです。あれだけは、けしてお側からお離しにはなりません。……あれは、わが主の、〈杖〉だと私は思っています」
「杖?」
ゾーイの問いに、メイローズがどこか遠くを見るようにして、答えた。
「わが主は幾度も頽れそうになりながら、いつもあの〈杖〉に縋って立ち直ってこられたのです。私は宦官ですから理解できませんが、〈結婚〉というのは、わが主にとって自身を折られるほどに辛いものなのでしょう。今回は、その〈杖〉さえも、携えることがおできにならなかった」
「わからないな……何も、話してはくださらない。おぬしでさえ、中身は知らぬのだな」
「絶対に、見せてはくださいません。見てはいけないとすら、おっしゃいません」
「――預かり物だと、言っておられたが――」
それは、メイローズも初耳であったようだ。少しだけ、紺碧の瞳を丸くした。
「わが主があれを手放せるようになる日を、待つしかありません」
その日は、主の解放の日なのか。あるいは――主の、崩壊の日なのか。
列席した皇子たちは大部分がすでに引き上げていたが、悪餓鬼トリオの廉郡王とダヤン皇子はだらだらと侍従たちと飲んでいる。主従ともに仲がよいために、なかなか話が尽きないらしい。泊りの準備をした方がいいのか、その辺りはゲルがうまくやるだろうか、などと考えながら、邸奥の主人の部屋の方に足を向ける。
と、前からメイローズが慌てた風にやってきた。
「どうしたのだ、メイローズ?」
「ゾーイ殿……!」
あからさまにほっとした表情で、メイローズが駆け寄ってくる。そして、声を潜めるようにして、言った。
「わが主をご覧になりませんでしたか? もしや、広間に戻ったのかと思ったのですが……」
「殿下なら先ほど花嫁の部屋に……」
「それが……」
メイローズが言いにくそうに眉を顰める。
「どうにも部屋の様子がおかしいのです。その……物音一つ致しませんで。そっと覗いてみたのですが、寝台に〈王気〉の気配がありません。もちろん、居間の方にもいらっしゃらなくて……。このようなこと、花嫁の侍女たちにも聞けませんので、どうしたものかと……」
「それはつまり……殿下が初夜から逃げたと……」
ゾーイが絶句して、まず考えたのはレイナの部屋だ。婚礼の夜に、花嫁の新床をすっぽかして、側室の部屋で過ごすなどは、あまりに非道な仕打ちである。
「……そちらにはいらっしゃいませんでした。もちろん、ご自分の部屋にも……」
「わかった。見て回ろう。広間の方にはいらっしゃらない」
「では、お庭でしょうか。春とはいえ、夜はまだ冷えますのに……」
庭園の四阿で、酔って倒れている主を見つけたのはメイローズであった。
「わが主よ!こんなところで、お風邪を引きます!」
「ああごめん……まだ邸に慣れてなくて、自分の部屋がわかんなくなっちゃったんだ」
少しばかりしどけない様子で、恭親王が答える。
「その、奥様のお部屋で過ごされるのでは……」
ゾーイの声が思わず低くなる。いくら何でも不誠実だと、ゾーイの道義心が告げている。
「嫌だなあ、あんな香水臭いのが奥様とかさ……勘弁してよ。僕は処女と香水臭いのだけは御免だって前から言っているのに、ドンピシャでダブルコンボじゃん。無理無理、ぜっったい、無理!」
最近、恭親王は「私」という一人称で大人びた話し方を心がけているらしいのだが、酔ったおかげで元の口調に戻っていた。
「しかし……あちらはお待ちでございましょう」
メイローズが言うのにも、首を振った。
「嫌だ。あんな女と寝るくらいなら、今からこの池に飛び込んで死ぬ」
「殿下……」
それでもまだ、レイナの部屋には行かない分別はあったのだな、とゾーイは思う。
「あ、そうだ。メイローズ、さっき預けた箱、返して」
「ええ、ここにお持ちしておりますが」
メイローズが懐から、主より預かっていた小箱を出すと、やはり恭親王はそれをひったくるように奪い取り、両手で握りしめるようにして、それを額に押し頂いた。
以前、ベルンチャ族の天幕に囚われていた時は、ボルゴールに凌辱されてそれを失うようなことがないようにと、恭親王はその箱をゾーイに預けていた。
あの時、恭親王はゾーイの問いに対し、こう答えた。
『これのためだけに僕は生きているんだ』
命よりも大切なもの。恭親王は、まるでその箱に許しを請うかのように、しばらくその小箱に何か念じているようだった。もしかして――。
「殿下。殿下がこの度のご婚姻を拒絶なさったのは、その箱と関係があるのですか」
主の心に踏み込むことはしまいとは思いながらも、ゾーイは聞かずにはいられなかった。
恭親王は小箱を懐に仕舞い込むと、言った。
「……ゾーイ、メイローズ。もし僕が――何かの理由で命を落とすようなことがあれば、お前たちはこの箱の中身を、聖地の太陽宮に持って行って欲しい。これは本来、僕が持っていてはいけないものだ。でも――もし、今これを失ったら、僕は生きていくことができない」
「殿下――」
気づけば、主の頬は涙で濡れていた。
人に会わぬよう、メイローズとゾーイで主を担ぐようにして主の部屋に運び込み、休ませる。主が眠ったことを確認して寝室から出て来たメイローズに、ゾーイは尋ねた。
「あの……箱の中身は何だ?」
「私も、見たことはないのです。あれだけは、けしてお側からお離しにはなりません。……あれは、わが主の、〈杖〉だと私は思っています」
「杖?」
ゾーイの問いに、メイローズがどこか遠くを見るようにして、答えた。
「わが主は幾度も頽れそうになりながら、いつもあの〈杖〉に縋って立ち直ってこられたのです。私は宦官ですから理解できませんが、〈結婚〉というのは、わが主にとって自身を折られるほどに辛いものなのでしょう。今回は、その〈杖〉さえも、携えることがおできにならなかった」
「わからないな……何も、話してはくださらない。おぬしでさえ、中身は知らぬのだな」
「絶対に、見せてはくださいません。見てはいけないとすら、おっしゃいません」
「――預かり物だと、言っておられたが――」
それは、メイローズも初耳であったようだ。少しだけ、紺碧の瞳を丸くした。
「わが主があれを手放せるようになる日を、待つしかありません」
その日は、主の解放の日なのか。あるいは――主の、崩壊の日なのか。
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