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六竅
5、完全にかみ合わない
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幼少より、将来ユエリン皇子――恭親王の妻となるために研鑽を積んできたユリアだが、正式な婚約はなかなか成立せず、また密かに恋い慕う〈あの方〉との対面も叶わなかった。十三歳になって婚約が可能になったユリアに対し、皇帝からは内々に具体的な婚約の話が出て、皇子の成人と同時にとの口約束が出来上がる。マナシル家では、このころよりユリアの嫁入りに向けて、花嫁衣裳、婚礼の道具などの注文を始め、ユリアは目を輝かせ、期待に胸を躍らせて、〈あの方〉に嫁ぐその日のために、なお一層、日々の努力を重ねるのであった。
ようやく皇子も成人し、恭親王という爵位も得て正式な婚約が調うかと思ったが、しかし、話は進まない。――皇太子が密かに妨害していたのである。せめて非公式の対面だけでも、とユリアが気を揉むうちに、皇子は最初の長期巡検にでかけ、なんと異民族に拉致されてしまう。
その頃のユリアは毎日、化粧が剥げるのも気にせず泣き暮らしていた。
噂では玉のように美しい人だというが、ユリアはその姿さえ見ることなく、対面も叶わぬまま、〈あの方〉と生涯引き離されるのだろうか。もし〈あの方〉が帰らねば、自分は〈あの方〉に操を捧げて死のうとまで決めていた。――とにかく信じたものに突き進むタイプなのである。
幸い、恭親王は無事に帝都に帰還した。異民族を殲滅するという輝かしい軍功まで上げて。
さて、ようやく婚約をと心を躍らせるユリアに冷水を浴びせるかのように、〈あの方〉に関わるさまざまな噂が耳に入ってくる。大功を上げた恭親王は世間の注目度も上がり、かまびすしい都雀どもの、格好の噂のタネだった。
まず、帝都の超高級連れ込み茶屋に足繁く通っていて、どうやら秘密の恋人がいるらしい、とか。
ソルバン家のユルゲンの正室にご執心らしい、とか。
一人の秀女に入れあげているらしい、とか。
ついには一夜の恋を求めるいかがわしい集まりに夜な夜な現れ、人妻との密会を繰り返す、浮気な「銀の君」こそその人であるらしい、とか。
将来の夫の多情は不満ではあったが、龍種である皇子たちは有り余る欲をあちこちに振りまいて、多くの女を囲うのが常だ。皇子の正室となる以上、それくらいのことは覚悟の上だ。
しかし、ユリアはまさか、恭親王が自分との結婚を白紙撤回させるために、わざと女遊びに精を出しているなんてことは知らなかった。〈あの方〉が自分との結婚を嫌がっていると知らされたのは、皇帝が夏の離宮行幸から帰ってきてからである。
さらに、〈あの方〉はユリアとの結婚に難色を示すだけでなく、秀女の一人を側室に上げたいと言い出した、と。
ユリアは衝撃を受ける。
自分は将来の夫である〈あの方〉ただ一人のために、努力を重ねてきたというのに――。
その話をユリアにもたらした父太常卿は、ユリアに尋ねる。もし、そなたが望まぬならば、我が家にはまだ妹も、従姉妹もいる。まだ正式な婚約まで至っていない今ならば、皇帝陛下に申し上げてこの話をなかったことにもできる、と。
ユリアには父の提案を受け入れることなど、到底できなかった。
なぜなら、自分はまだ、〈あの方〉との対面すら果たしていないのだ。会って嫌われたならともかく、まだ顔すら見ていない。婚約が調わずにもたもたしているうちに、〈あの方〉は秀女に恋をして、側室に上げると言い出したのだ。
聞けば、辺境の子爵の娘。十二貴嬪家の自分とは比較にならぬほど、賤しい女。しかも、以前は順親王と肅郡王の宮にいたという。〈あの方〉に純潔すら捧げていない汚らわしい秀女ではないか。
そんな女に誑かされて、皇后に相応しい自分との結婚を拒むなんて、〈あの方〉はきっと、騙されているに違いない。
だから、父に頼んで側室に上げるのに待ったをかけてもらった。
正式に婚約し、せめて自分と会って、それでもなお、〈あの方〉がその賤しい女を側に置きたいと望むのならば、自分は正室の度量で、その女を認めよう。そんなつもりだった。
その間にも、漏れ伝え聞く〈あの方〉の素行は悪くなる一方だ。じりじりしながらようやく皇后より伝えられた初対面は、皇子たちの撃鞠の試合であった。
とうとう、〈あの方〉に会える――。
蒼組だという恭親王に合わせて濃い青の衣裳を慌てて準備し、赤味の強い髪には丹念に香油を塗り込めて結い上げ、選びに選んだ髪飾りをつけ、お気に入りの香を焚き込めて皇宮に参宮する。緊張の中で挨拶した皇后は自分と同じ年の息子がいるようにはとても見えない、若々しく美しい人だった。これに瓜二つだという〈あの方〉の美しさはいかばかりか――。
皇后が、宮の秀女たちをユリアに紹介する。いずれも大人しめの衣裳に香りも纏わず、化粧も薄い。身のこなしも身だしなみも、公爵家の長女として育った自分には及ぶべくもない女たち。こんな地味な女たちでは、勝負にもならない、とユリアは内心勝利を確信する。何しろ、自分はマナシル家の長女なのだから。――恭親王の好みが、地味な女であるということには、全く思い至らないユリアであった。
皇后の隣に榻を許されて、撃鞠の試合を観戦する。
『ほれ、今先頭を走っているのが、恭親王じゃ。――得点した! 今年は勝てるかもしれぬの』
鈴を転がすような皇后の声に導かれた視線の先には、細身で背の高い青年。華麗に馬を駆り、打球桿を巧みに操る。蒼い帽子の下の艶やかな黒髪をなびかせ、汗が飛び散る。切れ長の瞳が球を追い、果敢に敵に挑み、門を駆け抜ける。
一目で、心が吸い寄せられた。
何て美しい人だろうか。あれが、幼いころからずっと憧れていた自分の婚約者。
我が夫となるべき人――。
ユリアは頬を染め、瞳を潤ませて恭親王の姿を追った。鼓動が、ドキドキと早まるのがわかった。喜びで身体が震え、胸が熱くなった。
だがその興奮は、試合後に〈あの方〉がある女の元に一目散に近寄っていく姿を見て、急速にしぼんでいく。
とりわけ地味で大人しそうな秀女に、蕩けるような甘い微笑みを向け、その細い腰に腕を回す。
明らかに、互いの身体を知りつくしたような慣れた態度。当たり前のようにぴったりと寄り添う二人。
(――あの女がそうなのだ――)
ユリアの見ている前で、そのまま二人で会場を出て行こうとするのを、宦官に呼び止められて仕方なくこちらを見る。秀女に向けていた甘い微笑みは影を潜め、不機嫌そうな様子で、それでも秀女と手を繋いでやってくる〈あの方〉の姿なんて、ユリアは見たくなかった。
皇后に対し礼法通りに袖を払い、跪く恭親王の美貌にユリアの目は釘づけになる。艶やかな黒髪は襟足にかかる程度、凛々しい眉、切れ長の黒曜石の瞳、通った鼻筋、繊細な頬のライン、やや薄いが形のよい唇。白い衫に黒い脚衣、黒いブーツを履き、蒼い腰帯が爽やかな、均整の取れた体躯。
しかし、皇后がユリアを紹介しても、恭親王はちらりと興味なさげな視線を投げ、はっきりと言い切ったのだ。
『結婚はしません』
その一言がどれほどユリアの心を打ち砕いたか。そればかりか、恭親王は見惚れるような美麗な微笑みをユリアに向け、追い打ちをかけるように、言ってのけた。
『そっちから結婚を白紙撤回していただければ、一生恩に着ますよ』
衝撃に心が潰れそうになりながら、ユリアはマナシル家の矜持で何とか持ちこたえた。
ようやく皇子も成人し、恭親王という爵位も得て正式な婚約が調うかと思ったが、しかし、話は進まない。――皇太子が密かに妨害していたのである。せめて非公式の対面だけでも、とユリアが気を揉むうちに、皇子は最初の長期巡検にでかけ、なんと異民族に拉致されてしまう。
その頃のユリアは毎日、化粧が剥げるのも気にせず泣き暮らしていた。
噂では玉のように美しい人だというが、ユリアはその姿さえ見ることなく、対面も叶わぬまま、〈あの方〉と生涯引き離されるのだろうか。もし〈あの方〉が帰らねば、自分は〈あの方〉に操を捧げて死のうとまで決めていた。――とにかく信じたものに突き進むタイプなのである。
幸い、恭親王は無事に帝都に帰還した。異民族を殲滅するという輝かしい軍功まで上げて。
さて、ようやく婚約をと心を躍らせるユリアに冷水を浴びせるかのように、〈あの方〉に関わるさまざまな噂が耳に入ってくる。大功を上げた恭親王は世間の注目度も上がり、かまびすしい都雀どもの、格好の噂のタネだった。
まず、帝都の超高級連れ込み茶屋に足繁く通っていて、どうやら秘密の恋人がいるらしい、とか。
ソルバン家のユルゲンの正室にご執心らしい、とか。
一人の秀女に入れあげているらしい、とか。
ついには一夜の恋を求めるいかがわしい集まりに夜な夜な現れ、人妻との密会を繰り返す、浮気な「銀の君」こそその人であるらしい、とか。
将来の夫の多情は不満ではあったが、龍種である皇子たちは有り余る欲をあちこちに振りまいて、多くの女を囲うのが常だ。皇子の正室となる以上、それくらいのことは覚悟の上だ。
しかし、ユリアはまさか、恭親王が自分との結婚を白紙撤回させるために、わざと女遊びに精を出しているなんてことは知らなかった。〈あの方〉が自分との結婚を嫌がっていると知らされたのは、皇帝が夏の離宮行幸から帰ってきてからである。
さらに、〈あの方〉はユリアとの結婚に難色を示すだけでなく、秀女の一人を側室に上げたいと言い出した、と。
ユリアは衝撃を受ける。
自分は将来の夫である〈あの方〉ただ一人のために、努力を重ねてきたというのに――。
その話をユリアにもたらした父太常卿は、ユリアに尋ねる。もし、そなたが望まぬならば、我が家にはまだ妹も、従姉妹もいる。まだ正式な婚約まで至っていない今ならば、皇帝陛下に申し上げてこの話をなかったことにもできる、と。
ユリアには父の提案を受け入れることなど、到底できなかった。
なぜなら、自分はまだ、〈あの方〉との対面すら果たしていないのだ。会って嫌われたならともかく、まだ顔すら見ていない。婚約が調わずにもたもたしているうちに、〈あの方〉は秀女に恋をして、側室に上げると言い出したのだ。
聞けば、辺境の子爵の娘。十二貴嬪家の自分とは比較にならぬほど、賤しい女。しかも、以前は順親王と肅郡王の宮にいたという。〈あの方〉に純潔すら捧げていない汚らわしい秀女ではないか。
そんな女に誑かされて、皇后に相応しい自分との結婚を拒むなんて、〈あの方〉はきっと、騙されているに違いない。
だから、父に頼んで側室に上げるのに待ったをかけてもらった。
正式に婚約し、せめて自分と会って、それでもなお、〈あの方〉がその賤しい女を側に置きたいと望むのならば、自分は正室の度量で、その女を認めよう。そんなつもりだった。
その間にも、漏れ伝え聞く〈あの方〉の素行は悪くなる一方だ。じりじりしながらようやく皇后より伝えられた初対面は、皇子たちの撃鞠の試合であった。
とうとう、〈あの方〉に会える――。
蒼組だという恭親王に合わせて濃い青の衣裳を慌てて準備し、赤味の強い髪には丹念に香油を塗り込めて結い上げ、選びに選んだ髪飾りをつけ、お気に入りの香を焚き込めて皇宮に参宮する。緊張の中で挨拶した皇后は自分と同じ年の息子がいるようにはとても見えない、若々しく美しい人だった。これに瓜二つだという〈あの方〉の美しさはいかばかりか――。
皇后が、宮の秀女たちをユリアに紹介する。いずれも大人しめの衣裳に香りも纏わず、化粧も薄い。身のこなしも身だしなみも、公爵家の長女として育った自分には及ぶべくもない女たち。こんな地味な女たちでは、勝負にもならない、とユリアは内心勝利を確信する。何しろ、自分はマナシル家の長女なのだから。――恭親王の好みが、地味な女であるということには、全く思い至らないユリアであった。
皇后の隣に榻を許されて、撃鞠の試合を観戦する。
『ほれ、今先頭を走っているのが、恭親王じゃ。――得点した! 今年は勝てるかもしれぬの』
鈴を転がすような皇后の声に導かれた視線の先には、細身で背の高い青年。華麗に馬を駆り、打球桿を巧みに操る。蒼い帽子の下の艶やかな黒髪をなびかせ、汗が飛び散る。切れ長の瞳が球を追い、果敢に敵に挑み、門を駆け抜ける。
一目で、心が吸い寄せられた。
何て美しい人だろうか。あれが、幼いころからずっと憧れていた自分の婚約者。
我が夫となるべき人――。
ユリアは頬を染め、瞳を潤ませて恭親王の姿を追った。鼓動が、ドキドキと早まるのがわかった。喜びで身体が震え、胸が熱くなった。
だがその興奮は、試合後に〈あの方〉がある女の元に一目散に近寄っていく姿を見て、急速にしぼんでいく。
とりわけ地味で大人しそうな秀女に、蕩けるような甘い微笑みを向け、その細い腰に腕を回す。
明らかに、互いの身体を知りつくしたような慣れた態度。当たり前のようにぴったりと寄り添う二人。
(――あの女がそうなのだ――)
ユリアの見ている前で、そのまま二人で会場を出て行こうとするのを、宦官に呼び止められて仕方なくこちらを見る。秀女に向けていた甘い微笑みは影を潜め、不機嫌そうな様子で、それでも秀女と手を繋いでやってくる〈あの方〉の姿なんて、ユリアは見たくなかった。
皇后に対し礼法通りに袖を払い、跪く恭親王の美貌にユリアの目は釘づけになる。艶やかな黒髪は襟足にかかる程度、凛々しい眉、切れ長の黒曜石の瞳、通った鼻筋、繊細な頬のライン、やや薄いが形のよい唇。白い衫に黒い脚衣、黒いブーツを履き、蒼い腰帯が爽やかな、均整の取れた体躯。
しかし、皇后がユリアを紹介しても、恭親王はちらりと興味なさげな視線を投げ、はっきりと言い切ったのだ。
『結婚はしません』
その一言がどれほどユリアの心を打ち砕いたか。そればかりか、恭親王は見惚れるような美麗な微笑みをユリアに向け、追い打ちをかけるように、言ってのけた。
『そっちから結婚を白紙撤回していただければ、一生恩に着ますよ』
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