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五竅
27、望まぬ花嫁
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しばらくして、ソルバン家の次男の嫁が夫からの冷遇に耐えきれずに家を出た、という噂が帝都の社交界に広まった。ナルシア家の方では夫ユルゲンの不誠実な対応に離婚を要求したが、貴種の妻を必要とするソルバン家は応じなかった。
やがて、ふさぎがちだったユルゲンの妻は社交界の催しに参加するようになったが、彼女をエスコートしているのが三人の皇子だということが話題に上るようになる。ナルシア家の妻を持つ副傅が、皇子たちに娘の護衛を頼んだのだとも、皇子たちがユルゲンの妻に執心しているのだとも、さまざまに噂されていたが、ユルゲンの妻についてはこれまでも同情的に語られていたため、このことについてもそれほど悪しざまには言われてはいなかった。
「……まさか、そのナルシア家の娘を側室にしたいと言い出すつもりなのか?」
ある日、乾坤宮の皇帝の私室での会食中にそんなことを言われ、恭親王は危うく春巻を箸から落としそうになった。
「……い、いえ……? ただ、ゲルの……副傅の邸に居ります関係で、数度行楽に行くときに誘っただけです。他に、廉郡王も、ダヤンも一緒でしたし……もちろん、ゲルと、ゲルの妻もです。ユルゲンの話は僕も聞いておりまして、彼女には同情していたので。いまだにソルバン家は離婚に同意しないとかで、すっかりふさぎ込んでいて、気の毒だと思って……」
慌てて、早口でもごもごと言い訳するのを、向かい側から母の皇后が批判めいた視線で見てくる。
男色の疑いが消えたと思ったら、今度は女関係に口を出してくるようになったのだ。デュクトの妻との関係も、初めこそ黙認していたが、この頃は顔を見るたびに別れるように言ってくる。ユルゲンの妻は恭親王より四歳ほどの年上だが、何よりまだ婚姻関係を継続中であることが気に入らないらしい。
「……ナルシア家の令嬢とは何でもありませんよ。ダヤンが彼女のことを気に入っているのです」
恭親王がそう言うと、皇帝は重々しく言った。
「あまり、派手な浮名は流さぬよう身を慎め。そなたの花嫁もすでに決定されたというのに」
その言葉に恭親王は思わずガチャンと箸を乱暴に置いた。
花嫁――その意味するところに恭親王は全身の血の気が引いていくのを感じた。
結婚。自分が。生涯異性と交わらぬ〈純陽〉だった自分が。
『あなた以外とは結婚しません――』
かつて自らがなした誓いが甦る。
冬の光の中で見た、白金色の髪に、翡翠色の瞳。彼の、唯一無二。
彼女と結ばれることはなくとも、彼女以外の妻を娶ることだけはすまい。
たとえどれほどこの身が汚されても、どれほど多くの他の女たちを抱いたとしても。
彼の妻は彼女以外にはいてはならない――。
「僕の?……嫌、嫌です!断ってください!絶対に嫌だ!」
「殿下っ?!」
次の間で控えていたメイローズが覗き込んで慌てる。
「嫌です。僕は誰とも結婚しない!絶対に、絶対に嫌!……あっあああっ」
「ユエリン、落ち着け、どうしたのだ!」
みぞおちを押さえて身体を丸めるように崩れ落ちていく恭親王に、皇帝も皇后も慌てて顔色を変える。
「誰ぞ!ユエリンが――!」
メイローズが駆け込んで、恭親王を介抱すると、蒼白な表情で胃を押さえ、額にはびっしりと玉の汗が浮いていた。
「もともと、胃の腑があまり丈夫ではないのです。精神的な衝撃がかかると胃の痛みを訴えられることが多くて――生薬を!」
体調を崩した愛児を、皇帝と皇后は不安そうに見つめるしかなかった。
「マナシル家のユリア姫に決まったのだ」
翌日、見舞いに恭親王の居室を訪れた賢親王エリン皇子が非情に告げた。
「僕は誰とも結婚する気はありません。断ってください」
「無茶を申すな。皇上はそなたにこそ御位を譲りたいとの思し召しを持っておられる。マナシル家の令嬢を正室とし、その御心を広く示したいとお考えなのだ」
「結婚も嫌だし帝位もいりません」
「ユエリン……皇帝陛下のお心を無にするつもりか?」
寝台に横になり、恭親王は苦し気に異母兄から視線を逸らせる。
「結婚だけは嫌です。――他は、全てあなたたちの言う通りにしてきた。これ以上、何を要求すると言うのです?」
「ユエリン?」
賢親王は普段は聞き分けのいい異母弟の言葉に眉を顰める。
「ユエリン、帝国の皇子、それも親王位にある者が、妻を娶らずにいられるはずがあるまい」
「皇子であることも、親王の位も、ましてや帝位も、僕は望んでいません。今すぐにでも、僕は一僧侶として聖地に戻りたい。どうしても妻を娶らせるというのなら、僕は――」
そこで、異様に熱っぽい瞳で異母兄を睨みつけて恭親王は言う。
「僕は死んだ方がましだ――」
賢親王は目を瞠る。
異民族の首長にその身を蹂躙されながらも、けして弱音を吐かずに砦との連絡を模索し、見事異民族を罠にかけて彼らを殲滅させた異母弟が。それほどの精神力を持つ、強靭な異母弟が。
結婚を強要するのならば、その命を絶つとすら言う。
「何を言っているのだ。ユエリン、落ち着け。正室が意に染まねば、何人でも側室を侍らせればよい。……その、年上の未亡人も今は外聞がよくないが、結婚した後であれば、密かに囲う分には目を瞑ろう。だが、正室は必要なのだ。皇后位にもつける、血筋をもつ正室が。形ばかりでもな」
「兄上は……僕にユルゲンと同じことをせよと言うのですか」
「それは……ユルゲンのやり口は確かにひどいが……。そもそも、そなたはたとえ愛がなくとも正室を蔑ろにはできぬであろう。表向きだけ親切にしてやればよいのだ。本当の愛は誰にでも好きな女に捧げればよい」
恭親王は不快げに首を振った。
「嫌です。僕はその人を愛することは生涯ないと言い切れるし、そんな形だけの結婚などするのは、天や陰陽に対する冒瀆だ。他のことは何でも言う通りにしてきた。結婚だけはしない。なぜ、その一つだけの我儘さえ聞き入れてくれないのです」
話しながら、恭親王の額には汗が噴き出し、苦痛に顔を歪めている。胃の腑の痛みがぶり返してきたらしい。
「ユエリン……婚儀はまだ先のことだ。愛が芽生えるか否かは、会ってみなければわからぬだろう。たとえ愛がなくとも、誠実に振る舞うことはできるはずだ。思い込みで否定せず、しばらく落ち着いて考えてみよ」
「嫌です……絶対に……」
恭親王が苦し気に目を閉じた。
賢親王は素直で聞き分けのいい異母弟が、時々どうしようもなく頑固で一途なことを知っている。
そして彼が結局は、大人たちの言うことを最後には聞き入れることも知っていた。
「ユエリン、そなたはいい子だ。……この話はまた、おいおいしよう」
そう言うと汗で少しばかり湿った黒く艶やかな髪を優しく撫で、寝室を後にした。
やがて、ふさぎがちだったユルゲンの妻は社交界の催しに参加するようになったが、彼女をエスコートしているのが三人の皇子だということが話題に上るようになる。ナルシア家の妻を持つ副傅が、皇子たちに娘の護衛を頼んだのだとも、皇子たちがユルゲンの妻に執心しているのだとも、さまざまに噂されていたが、ユルゲンの妻についてはこれまでも同情的に語られていたため、このことについてもそれほど悪しざまには言われてはいなかった。
「……まさか、そのナルシア家の娘を側室にしたいと言い出すつもりなのか?」
ある日、乾坤宮の皇帝の私室での会食中にそんなことを言われ、恭親王は危うく春巻を箸から落としそうになった。
「……い、いえ……? ただ、ゲルの……副傅の邸に居ります関係で、数度行楽に行くときに誘っただけです。他に、廉郡王も、ダヤンも一緒でしたし……もちろん、ゲルと、ゲルの妻もです。ユルゲンの話は僕も聞いておりまして、彼女には同情していたので。いまだにソルバン家は離婚に同意しないとかで、すっかりふさぎ込んでいて、気の毒だと思って……」
慌てて、早口でもごもごと言い訳するのを、向かい側から母の皇后が批判めいた視線で見てくる。
男色の疑いが消えたと思ったら、今度は女関係に口を出してくるようになったのだ。デュクトの妻との関係も、初めこそ黙認していたが、この頃は顔を見るたびに別れるように言ってくる。ユルゲンの妻は恭親王より四歳ほどの年上だが、何よりまだ婚姻関係を継続中であることが気に入らないらしい。
「……ナルシア家の令嬢とは何でもありませんよ。ダヤンが彼女のことを気に入っているのです」
恭親王がそう言うと、皇帝は重々しく言った。
「あまり、派手な浮名は流さぬよう身を慎め。そなたの花嫁もすでに決定されたというのに」
その言葉に恭親王は思わずガチャンと箸を乱暴に置いた。
花嫁――その意味するところに恭親王は全身の血の気が引いていくのを感じた。
結婚。自分が。生涯異性と交わらぬ〈純陽〉だった自分が。
『あなた以外とは結婚しません――』
かつて自らがなした誓いが甦る。
冬の光の中で見た、白金色の髪に、翡翠色の瞳。彼の、唯一無二。
彼女と結ばれることはなくとも、彼女以外の妻を娶ることだけはすまい。
たとえどれほどこの身が汚されても、どれほど多くの他の女たちを抱いたとしても。
彼の妻は彼女以外にはいてはならない――。
「僕の?……嫌、嫌です!断ってください!絶対に嫌だ!」
「殿下っ?!」
次の間で控えていたメイローズが覗き込んで慌てる。
「嫌です。僕は誰とも結婚しない!絶対に、絶対に嫌!……あっあああっ」
「ユエリン、落ち着け、どうしたのだ!」
みぞおちを押さえて身体を丸めるように崩れ落ちていく恭親王に、皇帝も皇后も慌てて顔色を変える。
「誰ぞ!ユエリンが――!」
メイローズが駆け込んで、恭親王を介抱すると、蒼白な表情で胃を押さえ、額にはびっしりと玉の汗が浮いていた。
「もともと、胃の腑があまり丈夫ではないのです。精神的な衝撃がかかると胃の痛みを訴えられることが多くて――生薬を!」
体調を崩した愛児を、皇帝と皇后は不安そうに見つめるしかなかった。
「マナシル家のユリア姫に決まったのだ」
翌日、見舞いに恭親王の居室を訪れた賢親王エリン皇子が非情に告げた。
「僕は誰とも結婚する気はありません。断ってください」
「無茶を申すな。皇上はそなたにこそ御位を譲りたいとの思し召しを持っておられる。マナシル家の令嬢を正室とし、その御心を広く示したいとお考えなのだ」
「結婚も嫌だし帝位もいりません」
「ユエリン……皇帝陛下のお心を無にするつもりか?」
寝台に横になり、恭親王は苦し気に異母兄から視線を逸らせる。
「結婚だけは嫌です。――他は、全てあなたたちの言う通りにしてきた。これ以上、何を要求すると言うのです?」
「ユエリン?」
賢親王は普段は聞き分けのいい異母弟の言葉に眉を顰める。
「ユエリン、帝国の皇子、それも親王位にある者が、妻を娶らずにいられるはずがあるまい」
「皇子であることも、親王の位も、ましてや帝位も、僕は望んでいません。今すぐにでも、僕は一僧侶として聖地に戻りたい。どうしても妻を娶らせるというのなら、僕は――」
そこで、異様に熱っぽい瞳で異母兄を睨みつけて恭親王は言う。
「僕は死んだ方がましだ――」
賢親王は目を瞠る。
異民族の首長にその身を蹂躙されながらも、けして弱音を吐かずに砦との連絡を模索し、見事異民族を罠にかけて彼らを殲滅させた異母弟が。それほどの精神力を持つ、強靭な異母弟が。
結婚を強要するのならば、その命を絶つとすら言う。
「何を言っているのだ。ユエリン、落ち着け。正室が意に染まねば、何人でも側室を侍らせればよい。……その、年上の未亡人も今は外聞がよくないが、結婚した後であれば、密かに囲う分には目を瞑ろう。だが、正室は必要なのだ。皇后位にもつける、血筋をもつ正室が。形ばかりでもな」
「兄上は……僕にユルゲンと同じことをせよと言うのですか」
「それは……ユルゲンのやり口は確かにひどいが……。そもそも、そなたはたとえ愛がなくとも正室を蔑ろにはできぬであろう。表向きだけ親切にしてやればよいのだ。本当の愛は誰にでも好きな女に捧げればよい」
恭親王は不快げに首を振った。
「嫌です。僕はその人を愛することは生涯ないと言い切れるし、そんな形だけの結婚などするのは、天や陰陽に対する冒瀆だ。他のことは何でも言う通りにしてきた。結婚だけはしない。なぜ、その一つだけの我儘さえ聞き入れてくれないのです」
話しながら、恭親王の額には汗が噴き出し、苦痛に顔を歪めている。胃の腑の痛みがぶり返してきたらしい。
「ユエリン……婚儀はまだ先のことだ。愛が芽生えるか否かは、会ってみなければわからぬだろう。たとえ愛がなくとも、誠実に振る舞うことはできるはずだ。思い込みで否定せず、しばらく落ち着いて考えてみよ」
「嫌です……絶対に……」
恭親王が苦し気に目を閉じた。
賢親王は素直で聞き分けのいい異母弟が、時々どうしようもなく頑固で一途なことを知っている。
そして彼が結局は、大人たちの言うことを最後には聞き入れることも知っていた。
「ユエリン、そなたはいい子だ。……この話はまた、おいおいしよう」
そう言うと汗で少しばかり湿った黒く艶やかな髪を優しく撫で、寝室を後にした。
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