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三竅
18、償いの許されぬ罪
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カリンの一件以来、シウリンはずっと床に伏していた。
あの凄惨な場面が幾度も夢に甦り、高熱を発して魘され続ける。その横でメイローズが献身的に看病していた。
あの夜、メイローズが主の寝室を離れたのはほんの少しの時間であった。
気分が優れないと言って、秀女を早々に下がらせたことを重く見て、メイローズは薬を煎じるために薬種掛に出かけていた。ちょうど在庫を切らしているとかで、しばらく待たされた。慌てて帰ってみれば、主の寝台はもぬけの殻だった。
初めは、四阿か築山か、あるいはどこかの裏庭か、鴛鴦宮の中だろうと高を括っていたのだ。これまで、主はけして無断で宮を出て行ったりはしなかったから。
どこを探してもいないと気づいた時の、背中を走る汗の冷たさ。指先から氷のよう冷えていく恐怖の感覚。
急ぎ、小宦官を叩き起こして詰所にいるはずの傅役のもとに走らせる。なぜ、宮の外へ――?
どう、動くべき悩んでいるところに、ひそやかな気配がして、黒ずくめの男が膝をついていた。
『ソアレス家に仕える暗部のものだ。殿下が、宮を出て、侍女の部屋にいる』
『――!まさか!』
『その、まさかだ。以前、この宮に仕えていたカリンだ。殿下に危険はなさそうなので、そのまま護衛だけするつもりだったが、雲行きが怪しい。このままだと、カリンが死ぬぞ』
『どういうことです?』
『男女が同じ部屋にいるのだ。それも二人っきり。何が起こるか――』
意味を悟ったメイローズは取る物もとりあえず走り始める。
『場所は後宮の北。下級侍女の北寮だ』
わずかに、間に合わなかった。メイローズが着いた時には、カリンはすでにこと切れていた。主の腕の中で――。
主が、カリンのことを好いているのは気づいていた。三人の侍女の中でも、最も歳が近く、可憐な娘だった。華やかなところはないが、骨惜しみせず、よく気の付く娘だ。
主は、華やかな大輪の花よりも、路傍の野の花を好む。
これ見よがしに着飾った令嬢よりも、飾り気なく、静かに微笑む少女を好む。
高価な西方渡の香水よりも、庭の草花の香り、太陽の馨しい香りを好む。
あの、主が握りしめる〈宝物〉の次に、カリンや、侍女たちが彼の支えだったのだ。
メイローズは寝台の脇に跪き、祈った。天と、陰陽に。
主の罪を許し給え。主に、平穏を与え給え。主に愛と、ささやかな幸福を与え給え。
寝台に眠る主は、黒く長い睫毛を伏せ、やや苦し気に荒い息をしている。額には玉の汗が浮かび、時折、苦し気に眉を顰める。その麗しい主の周囲を取り巻くのは、金色に輝く龍種の証、〈王気〉――。光に連れて飛び回る、金色の龍。高貴なる世界の支配者たる皇家の証。陽の〈気〉を体現する強き龍の輝きに、メイローズはしばし見惚れる。
強い龍種であるが故に、一度は聖地に追われ、呼び戻されて過去と名を奪われた。今、その龍種なるが故に、愛した少女を死に至らしめた主の罪を、どうか、天よ、陰陽よ、許し給えよ――。
メイローズは思う。
この美しき〈王気〉を視る力を、天と陰陽が自らに与え給うたのは、この主に仕えるためであったに違いないと。
そして主の、傷つき疲れた心に思いを馳せる。
どうか主よ――。必要以上にその身を責め給うな。主のその身が備える人を超える力は、きっと何かの理由のあることなのだから――。
三日の後、シウリンは目を醒ました。
メイローズはほとんど眠ることなく、側に付き従っていたらしい。
頭が、痛い。怠い。思考が、混濁する。
成長期で増え続ける魔力を、シウリンは厳しい訓練と鍛錬で循環させ、また体力増強と筋力増加で消費して、澱むことがないように努力していたが、三日眠り続けたことで、余分の魔力が蟠り澱んで、循環を妨げていた。
メイローズが差し出す薬湯を飲み干す。右の指先から頭、首、肩、左の指先へ、そして胸を通って左足の爪先へ、再び脚を巡って右足へと、魔力を循環させる。澱んでいた魔力が動き始め、少し、楽になる。
「すまない。迷惑をかけた」
シウリンがそれだけ言うと、メイローズは首を振った。
「……カリンは、どうなった?」
メイローズが少しだけ表情を暗くした。
「俄かに苦しみ始めて儚くなったと、聞いております」
「僕が、殺した」
「いいえ。急な病でございます」
「僕が――」
「それ以上は、口にしてはなりませぬ」
有無を言わさぬ口調で、メイローズが言った。
「カリンの亡骸はすでに、帝都の家族のもとに。また、その場にいた侍女たちも、暇を取りました」
「!!」
「侍女の、その後の生活についてはきちんと保障されております。殿下はもう、これについてはお忘れください」
「でも……!」
「萬歳爺……皇帝陛下のご意向にございます」
シウリンは黙るしかなかった。
「デュクトやゲルは?」
「これまで通り、お側に」
「僕は……これからどうしたら?」
「殿下は、何も変わるところはございません。これまで通り、皇子としての精進をお積みくださいませ」
シウリンは、目を閉じた。
償うことさえ許されない、罪。シウリンは唇を噛みしめた。
それからの一月、シウリンは秀女を誰も寄せ付けずに過ごした。
鍛錬には出向き、これまで通りの厳しい立ち合いを望み、膝が折れるまで剣を振るう。
ゾーイとゾラ、そしてトルフィンには、デュクトより事件のあらましが伝えられた。予想した通りの凄惨な結末に、三人は息を飲んだ。
龍種の精が毒であることは聞き知っていたが、そこまでの激烈な反応を示すとは想像だにしていなかった。たまたま、皇子の精が強かったのか。たまたま、侍女が弱かったのか。
重なる不運に、彼らは言葉もない。
成郡王やグイン、肅郡王が心配して、何度か宮へ押しかけた。初めは断っていたが、次第に中に入れるようになる。
以前のようにまた、食事を取る。話、笑い、遊ぶ。
少しずつ、笑顔を見せるようになるものの、どこかが、以前の彼と違っていた。
年が明けるまで、後数日。
年が明ければ、十五歳になった彼も成人する。
成人後は、禁軍の少尉として任官するように、との内示があった。少尉としての戎服(軍服)も準備された。母の皇后が手ずから刺繍した見事な肩衣を持って、成人を控えた息子に会いに来た。
皇后も当然、事件のことは知っているが、何も言わなかった。
「今後は親王として、帝国のために尽くすことを望みます」
母が、少女のように美しい白い繊手で、息子の剣だこのできた手を撫でる。
シウリンは微笑むが、どこか、冷めていた。
改めて思う。彼にとって、この人は母ではない。母とは何か、二年の年月が流れても、シウリンにはまだ、わからなかった。
あの凄惨な場面が幾度も夢に甦り、高熱を発して魘され続ける。その横でメイローズが献身的に看病していた。
あの夜、メイローズが主の寝室を離れたのはほんの少しの時間であった。
気分が優れないと言って、秀女を早々に下がらせたことを重く見て、メイローズは薬を煎じるために薬種掛に出かけていた。ちょうど在庫を切らしているとかで、しばらく待たされた。慌てて帰ってみれば、主の寝台はもぬけの殻だった。
初めは、四阿か築山か、あるいはどこかの裏庭か、鴛鴦宮の中だろうと高を括っていたのだ。これまで、主はけして無断で宮を出て行ったりはしなかったから。
どこを探してもいないと気づいた時の、背中を走る汗の冷たさ。指先から氷のよう冷えていく恐怖の感覚。
急ぎ、小宦官を叩き起こして詰所にいるはずの傅役のもとに走らせる。なぜ、宮の外へ――?
どう、動くべき悩んでいるところに、ひそやかな気配がして、黒ずくめの男が膝をついていた。
『ソアレス家に仕える暗部のものだ。殿下が、宮を出て、侍女の部屋にいる』
『――!まさか!』
『その、まさかだ。以前、この宮に仕えていたカリンだ。殿下に危険はなさそうなので、そのまま護衛だけするつもりだったが、雲行きが怪しい。このままだと、カリンが死ぬぞ』
『どういうことです?』
『男女が同じ部屋にいるのだ。それも二人っきり。何が起こるか――』
意味を悟ったメイローズは取る物もとりあえず走り始める。
『場所は後宮の北。下級侍女の北寮だ』
わずかに、間に合わなかった。メイローズが着いた時には、カリンはすでにこと切れていた。主の腕の中で――。
主が、カリンのことを好いているのは気づいていた。三人の侍女の中でも、最も歳が近く、可憐な娘だった。華やかなところはないが、骨惜しみせず、よく気の付く娘だ。
主は、華やかな大輪の花よりも、路傍の野の花を好む。
これ見よがしに着飾った令嬢よりも、飾り気なく、静かに微笑む少女を好む。
高価な西方渡の香水よりも、庭の草花の香り、太陽の馨しい香りを好む。
あの、主が握りしめる〈宝物〉の次に、カリンや、侍女たちが彼の支えだったのだ。
メイローズは寝台の脇に跪き、祈った。天と、陰陽に。
主の罪を許し給え。主に、平穏を与え給え。主に愛と、ささやかな幸福を与え給え。
寝台に眠る主は、黒く長い睫毛を伏せ、やや苦し気に荒い息をしている。額には玉の汗が浮かび、時折、苦し気に眉を顰める。その麗しい主の周囲を取り巻くのは、金色に輝く龍種の証、〈王気〉――。光に連れて飛び回る、金色の龍。高貴なる世界の支配者たる皇家の証。陽の〈気〉を体現する強き龍の輝きに、メイローズはしばし見惚れる。
強い龍種であるが故に、一度は聖地に追われ、呼び戻されて過去と名を奪われた。今、その龍種なるが故に、愛した少女を死に至らしめた主の罪を、どうか、天よ、陰陽よ、許し給えよ――。
メイローズは思う。
この美しき〈王気〉を視る力を、天と陰陽が自らに与え給うたのは、この主に仕えるためであったに違いないと。
そして主の、傷つき疲れた心に思いを馳せる。
どうか主よ――。必要以上にその身を責め給うな。主のその身が備える人を超える力は、きっと何かの理由のあることなのだから――。
三日の後、シウリンは目を醒ました。
メイローズはほとんど眠ることなく、側に付き従っていたらしい。
頭が、痛い。怠い。思考が、混濁する。
成長期で増え続ける魔力を、シウリンは厳しい訓練と鍛錬で循環させ、また体力増強と筋力増加で消費して、澱むことがないように努力していたが、三日眠り続けたことで、余分の魔力が蟠り澱んで、循環を妨げていた。
メイローズが差し出す薬湯を飲み干す。右の指先から頭、首、肩、左の指先へ、そして胸を通って左足の爪先へ、再び脚を巡って右足へと、魔力を循環させる。澱んでいた魔力が動き始め、少し、楽になる。
「すまない。迷惑をかけた」
シウリンがそれだけ言うと、メイローズは首を振った。
「……カリンは、どうなった?」
メイローズが少しだけ表情を暗くした。
「俄かに苦しみ始めて儚くなったと、聞いております」
「僕が、殺した」
「いいえ。急な病でございます」
「僕が――」
「それ以上は、口にしてはなりませぬ」
有無を言わさぬ口調で、メイローズが言った。
「カリンの亡骸はすでに、帝都の家族のもとに。また、その場にいた侍女たちも、暇を取りました」
「!!」
「侍女の、その後の生活についてはきちんと保障されております。殿下はもう、これについてはお忘れください」
「でも……!」
「萬歳爺……皇帝陛下のご意向にございます」
シウリンは黙るしかなかった。
「デュクトやゲルは?」
「これまで通り、お側に」
「僕は……これからどうしたら?」
「殿下は、何も変わるところはございません。これまで通り、皇子としての精進をお積みくださいませ」
シウリンは、目を閉じた。
償うことさえ許されない、罪。シウリンは唇を噛みしめた。
それからの一月、シウリンは秀女を誰も寄せ付けずに過ごした。
鍛錬には出向き、これまで通りの厳しい立ち合いを望み、膝が折れるまで剣を振るう。
ゾーイとゾラ、そしてトルフィンには、デュクトより事件のあらましが伝えられた。予想した通りの凄惨な結末に、三人は息を飲んだ。
龍種の精が毒であることは聞き知っていたが、そこまでの激烈な反応を示すとは想像だにしていなかった。たまたま、皇子の精が強かったのか。たまたま、侍女が弱かったのか。
重なる不運に、彼らは言葉もない。
成郡王やグイン、肅郡王が心配して、何度か宮へ押しかけた。初めは断っていたが、次第に中に入れるようになる。
以前のようにまた、食事を取る。話、笑い、遊ぶ。
少しずつ、笑顔を見せるようになるものの、どこかが、以前の彼と違っていた。
年が明けるまで、後数日。
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皇后も当然、事件のことは知っているが、何も言わなかった。
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母が、少女のように美しい白い繊手で、息子の剣だこのできた手を撫でる。
シウリンは微笑むが、どこか、冷めていた。
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