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三竅
15、夜の後宮
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それから、数日は何事もなく過ぎた。
シウリンは規則正しく、決められた日だけ秀女を呼び出し、肌を重ねる。何の愛情も、ときめきもない、ただのルーティーンな日常。快楽だけを貪り、欲を吐き出すだけの虚しい逢瀬。表面的には穏やかで優しく、心の内は氷のように冷たく、シウリンは秀女たちに接した。彼女たちに罪はない。寵を競うのは鬱陶しかったが、無意味に傷つけるつもりもなかった。
「秀女がお気に召さぬのであれば、交代させますが」
デュクトが、ある時そう、尋ねてきた。
「……交代させた先が気に入るとは限らないじゃないか」
「しかし、交代させなければこのままですよ」
「なんでも同じだよ」
長椅子に長い脚を投げ出して座り、本を捲りながらシウリンが吐き捨てるように言うのを、デュクトはどこかが痛むような表情で見ていた。
「……お好きな方はおられないのですか?」
「いるけど、お前には関係がない」
好きな人がいる、という言葉に、デュクトが目を見開く。
「言っておくけどお前じゃないことだけは確かだぞ」
「それは……わかっておりますよ」
苦み走った端正なマスクに、ほんの少し、寂しげなものが漂う。
「どこかで、好みの秀女でも見かけられたのですか?」
「何で秀女じゃないとダメなの」
「秀女は仮にも、貴族でございますから。秀女でありますならば、いかなる手段をもちましても、殿下の宮にお迎えいたしましょう。お好きな方を側に置くのが一番でございますからね」
デュクトの言葉に、シウリンは胡散臭そうな視線を投げる。
「……僕の、花嫁の選定が始まっていると……アイリンが」
デュクトが形のよい眉を片側だけ上げた。
「そんなものは、殿下がお生まれになった時からずっと始まっておりますよ」
「僕は、結婚などするつもりはない」
「そうは、参りません。殿下は皇太子殿下に次ぐ、二位の継承順位をお持ちです。然るべき奥方を娶り、後嗣をお上げになりませんと」
「必要ない!」
忌々しそうに、シウリンが持っていた本をばさりと閉じた。
「殿下……はっきりと申し上げれば、殿下の結婚に、殿下のご意志が入り込む余地はございません。殿下のご結婚は、すべて帝国の礎となるべき国事にございます。ですから……秀女よりでもお心に添う方をお求めください。秀女がイヤだと仰るのであれば、母上の伝手で貴族のご令嬢をご紹介することも可能です。ただその場合は、正規にご側室としてあげるのは、ご正室様を娶られて後、ということになるとは存じますが……」
シウリンは、デュクトがいったいどの面下げてそんなことを言うのであろうと思ったが、口に出せることではなかった。
「正室も側室もいらない。女なんて面倒くさいだけだ……別に男が好きなわけじゃないぞ」
「わかっておりますよ」
デュクトが下がってからも、シウリンは落ち着かな気に本の頁をめくっていた。
『ずっと、好きでもない女とだけ、するつもりなの?』
成郡王の言葉がガンガンと頭に響く。
「違う。……誰とも、したくないだけだ。誰とも……」
誰もいない空間に、シウリンの声が吸い込まれる――。
その夜、おざなりに当番の桔梗を抱いた後で、気分が優れないと言って桔梗を部屋に返した。桔梗は大人しい、無口な女で、何を考えているかわからなかったが、嫌いではなかった。だが、好きでもない。一人、架子牀の天井の螺鈿の星空を眺めていたシウリンは、気づけば衝動的に部屋を抜け出していた。
勝手に部屋を抜け出したのも初めてなら、警備の隙をついて鴛鴦宮を抜け出したのも初めてだった。
シウリンは聞き分けのいい子供で、これまで逃亡を図るようなこともなく、メイローズ以下の周囲の者もすっかり油断していた。
しかし、ここのところ毎日、シウリンは夜の警備の者の交代の時間や、詰所の位置などを確認して、抜け出すルートを練りに練っていのである。
本音であれば、このまま後宮そのものを抜け出して、どこかに行ってしまいたかった。細い三日月がかかる空を眺めながら、シウリンはふらふらと誘われるように、後宮の街路を北へ北へと歩いていた。
ベンガラ色の塀がどこまでも続く夜の後宮は、不気味なほど静まり返り、人気がなかった。
真っ暗な道をどんどん歩いて、後宮の外れの迷路のようは路地に入り込む。フォンの話を思い出しながら、北へ、北へと歩き続ける。
門の前に柿の木が二本――寂れ、壊れかけた開けっ放しの門がある、みすぼらしい寮についた。
下級侍女たちは主人の気まぐれで帰宅が深夜に及ぶこともある。故に門は常に開いており、門番の宦官は門脇の番小屋でもう眠っているようだ。金目の物も持たず、男といえば皇子と宦官しかいない後宮で、下級侍女を襲う者などいないからだ。
シウリンは開いた門から中に入る。狭く、小さな中庭があり、なぜか竹箒が打ち捨てられていた。それを跨いで、中央の堂に入ると、奥にはずっと長い廊下が連なり、両側にひしめくように扉が並んでいた。
宿舎の中のカリンの部屋の位置までは、聞いていなかったことに気づく。
――どうしよう――。
仕方なく宛てもないまま宿舎の廊下をぶらぶら歩いてみる。歩いてみるが、どこがカリンの部屋かなど分かるはずもない。
(われながら、計画性なさすぎだよな……)
こんなところを誰かに見とがめられでもしたら事である。シウリンが溜息をついて、諦めて引き返そうと思ったその時。格子戸が開いて、中から人が出て来た。慌てて柱の陰に姿を隠すと――。
「カリン――!」
「……で、殿下……?!」
シウリンは規則正しく、決められた日だけ秀女を呼び出し、肌を重ねる。何の愛情も、ときめきもない、ただのルーティーンな日常。快楽だけを貪り、欲を吐き出すだけの虚しい逢瀬。表面的には穏やかで優しく、心の内は氷のように冷たく、シウリンは秀女たちに接した。彼女たちに罪はない。寵を競うのは鬱陶しかったが、無意味に傷つけるつもりもなかった。
「秀女がお気に召さぬのであれば、交代させますが」
デュクトが、ある時そう、尋ねてきた。
「……交代させた先が気に入るとは限らないじゃないか」
「しかし、交代させなければこのままですよ」
「なんでも同じだよ」
長椅子に長い脚を投げ出して座り、本を捲りながらシウリンが吐き捨てるように言うのを、デュクトはどこかが痛むような表情で見ていた。
「……お好きな方はおられないのですか?」
「いるけど、お前には関係がない」
好きな人がいる、という言葉に、デュクトが目を見開く。
「言っておくけどお前じゃないことだけは確かだぞ」
「それは……わかっておりますよ」
苦み走った端正なマスクに、ほんの少し、寂しげなものが漂う。
「どこかで、好みの秀女でも見かけられたのですか?」
「何で秀女じゃないとダメなの」
「秀女は仮にも、貴族でございますから。秀女でありますならば、いかなる手段をもちましても、殿下の宮にお迎えいたしましょう。お好きな方を側に置くのが一番でございますからね」
デュクトの言葉に、シウリンは胡散臭そうな視線を投げる。
「……僕の、花嫁の選定が始まっていると……アイリンが」
デュクトが形のよい眉を片側だけ上げた。
「そんなものは、殿下がお生まれになった時からずっと始まっておりますよ」
「僕は、結婚などするつもりはない」
「そうは、参りません。殿下は皇太子殿下に次ぐ、二位の継承順位をお持ちです。然るべき奥方を娶り、後嗣をお上げになりませんと」
「必要ない!」
忌々しそうに、シウリンが持っていた本をばさりと閉じた。
「殿下……はっきりと申し上げれば、殿下の結婚に、殿下のご意志が入り込む余地はございません。殿下のご結婚は、すべて帝国の礎となるべき国事にございます。ですから……秀女よりでもお心に添う方をお求めください。秀女がイヤだと仰るのであれば、母上の伝手で貴族のご令嬢をご紹介することも可能です。ただその場合は、正規にご側室としてあげるのは、ご正室様を娶られて後、ということになるとは存じますが……」
シウリンは、デュクトがいったいどの面下げてそんなことを言うのであろうと思ったが、口に出せることではなかった。
「正室も側室もいらない。女なんて面倒くさいだけだ……別に男が好きなわけじゃないぞ」
「わかっておりますよ」
デュクトが下がってからも、シウリンは落ち着かな気に本の頁をめくっていた。
『ずっと、好きでもない女とだけ、するつもりなの?』
成郡王の言葉がガンガンと頭に響く。
「違う。……誰とも、したくないだけだ。誰とも……」
誰もいない空間に、シウリンの声が吸い込まれる――。
その夜、おざなりに当番の桔梗を抱いた後で、気分が優れないと言って桔梗を部屋に返した。桔梗は大人しい、無口な女で、何を考えているかわからなかったが、嫌いではなかった。だが、好きでもない。一人、架子牀の天井の螺鈿の星空を眺めていたシウリンは、気づけば衝動的に部屋を抜け出していた。
勝手に部屋を抜け出したのも初めてなら、警備の隙をついて鴛鴦宮を抜け出したのも初めてだった。
シウリンは聞き分けのいい子供で、これまで逃亡を図るようなこともなく、メイローズ以下の周囲の者もすっかり油断していた。
しかし、ここのところ毎日、シウリンは夜の警備の者の交代の時間や、詰所の位置などを確認して、抜け出すルートを練りに練っていのである。
本音であれば、このまま後宮そのものを抜け出して、どこかに行ってしまいたかった。細い三日月がかかる空を眺めながら、シウリンはふらふらと誘われるように、後宮の街路を北へ北へと歩いていた。
ベンガラ色の塀がどこまでも続く夜の後宮は、不気味なほど静まり返り、人気がなかった。
真っ暗な道をどんどん歩いて、後宮の外れの迷路のようは路地に入り込む。フォンの話を思い出しながら、北へ、北へと歩き続ける。
門の前に柿の木が二本――寂れ、壊れかけた開けっ放しの門がある、みすぼらしい寮についた。
下級侍女たちは主人の気まぐれで帰宅が深夜に及ぶこともある。故に門は常に開いており、門番の宦官は門脇の番小屋でもう眠っているようだ。金目の物も持たず、男といえば皇子と宦官しかいない後宮で、下級侍女を襲う者などいないからだ。
シウリンは開いた門から中に入る。狭く、小さな中庭があり、なぜか竹箒が打ち捨てられていた。それを跨いで、中央の堂に入ると、奥にはずっと長い廊下が連なり、両側にひしめくように扉が並んでいた。
宿舎の中のカリンの部屋の位置までは、聞いていなかったことに気づく。
――どうしよう――。
仕方なく宛てもないまま宿舎の廊下をぶらぶら歩いてみる。歩いてみるが、どこがカリンの部屋かなど分かるはずもない。
(われながら、計画性なさすぎだよな……)
こんなところを誰かに見とがめられでもしたら事である。シウリンが溜息をついて、諦めて引き返そうと思ったその時。格子戸が開いて、中から人が出て来た。慌てて柱の陰に姿を隠すと――。
「カリン――!」
「……で、殿下……?!」
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