【R18】渾沌の七竅

無憂

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三竅

12、不遇な皇子

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 その秋、皇子たちが巡検に出かけてガランとした後宮内で、シウリンは新たな鍛錬仲間である成郡王を加え、いっそう剣術に馬術に精進を重ねた。

 稽古が終わると練武場の脇の湯殿で汗を流し、それぞれ小宦官を一人伴って後宮に帰る。成郡王は相変わらず宮に居場所がないと言って、鴛鴦宮に入り浸る日々が続く。

「母上はさ……皇帝陛下の寝所に侍ったのは一回だけなんだよね」
「そうなの?」

 秋の深まる四阿あずまやで、〈陰陽〉の盤を囲みながら、成郡王が言う。

「そう……母上がご寵愛を被った直後に、皇后陛下が後宮にお入りになって……陛下は夢中になってしまわれたそうだよ。それまでご愛寵を受けていた妃嬪たちの宮も、忽ち閑古鳥が鳴いたってさ」

 パチン、と成郡王が黒い石を盤上に置く。

「それなのに、僕を身籠って……陛下にお話した時に、陛下は烈火の如くお怒りになられたそうだよ」
「なんで?」

 子を沢山生すために、後宮なんてものまで営んでいるのである。子ができたからといって、怒る理由がわからない。

「一度しか抱いてないのに、あり得ないってさ」

 皇帝と伯爵家出身の宮女では、魔力が違い過ぎて子ができにくい、というのはセオリーではあった。皇帝は宝林の不貞を疑ったのである。

 だが、本当の怒りの理由はおそらく違う。皇帝は初めて愛した女を手に入れた直後に、その女以外の腹から己の子が生まれることを疎んだのだ。

 宝林の不貞の疑いはすぐに晴れた。宝林は入宮して二年以上、後宮外に出たこともなく、また彼女のいた宮は多くの宮女がひしめいており、外部から男が侵入することもあり得ない。妊娠月を計算すればそれは皇子たちが巡検に出ている期間であり、後宮内に男がほとんどいない時期に当たっていた。皇帝が気まぐれに召した夜以外には考えられなかった。

 だが、それから皇子は不遇であり続けた。ほぼ一年の後に、寵愛を独占する皇后が玉のような皇子を生み、皇帝の関心はそちらに集中して、宝林の生んだ皇子など、見向きもされない。

「ずっと名前すら付けてもらえなくてね、十四シスって呼ばれてたらしいよ」

 自嘲気味に笑うと、成郡王は卓に置かれた菊花茶の茶碗を取り上げて、一口飲んだ。

「僕ね、君を恨んだこともあるんだよ。君が生まれて来なければ、せめて、君の生まれるのがもう少し遅かったら、僕と母上はもう少し、後宮の中でまともに扱ってもらえたかもしれないのにって」

 しかも皇后所生の皇子は見かけだけは素晴らしく美しかったが、中身は傲慢で、冷酷だった。

「小侯院でもずっと苛められてさ。君が落馬して死にそうだって聞いたときは、部屋の扉を全部締め切って、部屋の中で万歳三唱したよ……こんな僕、ひどいと思うかい?」

 シウリンは無言で首を振る。ユエリンが大概嫌なヤツだったことは、いろいろと聞き及ぶだけでわかる。実際にはもっとひどかっただろう。

「それよりも、何も憶えていない僕の方が、ひどいと思うんじゃないの?」
 
 成郡王はあはは、と口を開けて笑った。

「あの時は吃驚ビックリしたよ。本当に憶えていないんだねぇ。まるで別人みたいに親切になっちゃって」
「別人だよ」

 シウリンがパチン、と白い石を盤上に置いて。

「人間の心って何でできてると思う? 記憶だよ。いろんな体験をして、それを記憶して、知識も性格も変わっていく。記憶が全部なくなったら、全然別の人だと思わない?」

 実際には、シウリンは全てを憶えている。十二歳まで育った、聖地の僧院の暮らしを。自分は、ユエリンではない、という記憶を。

「……ねえ、新しい秀女はどうなの?」

 シウリンは話を変えた。

「うーん。可もなく、不可もなく、かな。歳は二つ上かな。悪くないよ。僕の側室にはなるつもりがないみたいだけど」

 くすくす、と成郡王が微笑む。

「でも、もういいよ。しばらく側室はおくつもりもないし」
「……まだ、石竹セキチクが好きなの?」
「ううん。違う。でも、今のは特に好きじゃない。好きじゃなくてもできるんだなって、思うだけ……ユエリンは、好きなのはいないの?」
「いないなあ」

 パチリ、パチリ、と石が置かれていく。

「好きな子としたいって思わないの?」

 正面から真っ直ぐに見つめられて、シウリンはちょっと怯んだ。それから、少し考える。

 好きな子――。
 すぐに、思いつくのは、彼女だ。
 森の中の、あの子。白金色の髪に、翡翠色の瞳の、〈メルーシナ〉。
 妖精のように綺麗な、もう、二度と会えない子。

「……好きな子とあんな醜い行為はできないな」

 シウリンが眉間に皺を刻んで言うと、成郡王は目を見開いた。

「そうなの……?」
「だってそうだろう。あんな、いかがわしくて汚らわしい行為を、本当に好きな子になんて……」

 シウリンは美しい顔に嫌悪感をありありと浮かべて言った。
 彼女は、神聖だ。今やここまで汚れた自分が、手も触れることすら恐ろしい。何より彼女はとても幼い。あんな汚らわしい行為を強いれば、彼女を容易に壊してしまうに違いない。

「じゃあ、一生、好きな子とはしないつもりなの?」

 シウリンは眉を顰める。彼女を寝台に引きずり込むことを想像するだけで、とんでもない冒瀆のように思われる。彼女と、あんな行為は必要ない。触れるだけで、心が蕩けるほど、甘かった。あの思い出だけで、十分――。

「質問を変えるよ、ユエリン。……ずっと、好きでもない女とだけ、するつもりなの?」

 今度は、シウリンが目を見開いた。

「本当は……誰ともしたくない」
「それは、無理だよ。皇后陛下はもう、君の花嫁の選定に入っているという、噂だよ?」
「花嫁? 僕の?……僕が、結婚?」
「そうだよ、皇后陛下はもちろん、皇帝陛下だって、君を次の皇帝にしたいと考えておられる」

 全身の血が、頭から引いていくように思われた。

 結婚――? 僕が?ユエリンとして――?

『あなた以外とは、結婚しません』

 自分の為した誓いが蘇える。遥か遠い、聖地の、冬枯れの森の中。

 ふいに、みぞおちに焼け付くような痛みが走り、シウリンは碁石を落として四阿の床に倒れ込んだ。

「ユエリン、ユエリン! どうしたの?! 誰か、ユエリンがっ!」

 成郡王が慌てて人を呼ぶ声が、やけに遠くに聞こえた。
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