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二竅
18、水遊び
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七月になると、皇帝は皇后妃嬪を引き連れて猛暑の帝都を離れ、北方のホラン離宮へと避暑に赴く。これはほとんどまるごと皇宮の引っ越しであり、帝都の皇宮には留守の者と一部が残されるにすぎない。
まず、体調のあまりよくない皇太子。本来ならば太子監国となり、皇帝の代行として国政を預かるのだが、皇太子をあまり信用していない皇帝はその任を与えず、賢親王エリンに欽差大臣(=特命全権大臣)としての権限を与え、国政全般を委任することになった。もとより、避暑の時期は特段の政務もないのが毎年の習いである。
皇宮に残るのは、ほとんど寵愛のない妃嬪と、閨房教育中の皇子たちだけとなる。
鴛鴦宮でも皇后以下、その周囲の侍女、宦官らが避暑にでかけてガランとしていた。ただシウリンらの住む棟だけが、メイローズ以下宦官数名によって維持されていた。
閨房教育に入って以来、どこで皇后付きの侍女と行き会うかわからないということで、中庭の散歩等も制限されていた。今、人気のない皇后の居室近辺を横目に見ながら、朝のやや涼しいひと時、久しぶりにゲルと二人、庭の四阿で冷えた麦湯を飲みながら、〈陰陽〉の盤を囲んでいる。
〈陰陽〉とは黒と白の碁石で行う、囲碁のようなゲームである。後宮に来て以来、シウリンはゲルの手ほどきでゲームの腕を上げつつあった。
だいたい勝負がついて、お互いに石の数を数えている時、メイローズが来客を告げた。
シウリンに客が来ることなど、滅多にない。というよりは、初めてではないのか。
「誰?」
「グイン皇子殿下と、肅郡王殿下、成郡王殿下でございます」
瞬間、シウリンが目をぱちくりさせる。グインはいい。肅郡王とか、成郡王って、誰だ?
「肅郡王はグイン殿下の兄のマルイン様、成郡王は殿下の兄上のアイリン様ですよ」
ゲルが見かねたようにぽそりと補足する。二人はこの正月で成人して、それぞれ郡王爵を与えられていたのだ。
「……二人とも、離宮行幸には不参加なの?」
成人し、かつ未婚で後宮に住んでいる皇子は、全員行幸に同行していると思い込んでいた。
「さあ……俺はお二方の事情については存じませんが」
とにかく待たせていい相手ではないということで、こちらに入ってもらうことになった。
「この四阿が涼しいし、こちらでいいかな?」
「はい。お茶のご用意をいたしましょう」
入ってきた三人の皇子たち、もっとも年下のはずのグインが、どう見てもボスである。
「よう、ユエリン、小侯院も休みで、退屈だから遊びにきた。普段は皇后陛下がおられる宮だから、遠慮していたんだ」
「暑いね、元気だった?……兄上たちも、行幸に行かれたのだとばかり、思っていました」
それに対して、肅郡王マルイン皇子と、成郡王アイリン皇子が笑う。
「僕たちは母親の身分が低いからね。お呼びじゃないのさ」
二人とも母は中位貴族出身の女官である。郡王の爵位は保証されるが、皇帝から見るといてもいなくてもどうでもいい、取るに足らぬ皇子ということなのだ。
「東宮には親父までいるからな、また今年も太子監国にしてもらえなかったと拗ねていて、辛気臭せぇんだよ。小侯院も休みで居場所がないし、ここなら皇后もいなくて気楽かと思ってさ」
「僕の所も、また行幸の随員から外されたって母上が荒れていてね……」
不遜に言い放つグインと、肩を落とす成郡王を見回して、シウリンは眉尻を下げる。成郡王の母の宝林は、ほとんど気まぐれのような形で皇帝の手が付いて皇子を生んだものの、皇帝からはほぼ無視に近い扱いを受けている。それだけに後宮でも居場所もなく、辛い立場にあるのだ。
「そうなんだ……大変だね」
メイローズが冷茶と水菓子、それから氷室の氷を浮かべた果実水を運んできた。
「おおっ美味そう! やっぱり皇后宮は食い物まで洒落てるな!」
三人の皇子は目を輝かせて、さっそく冷たい水菓子と果実水に手を伸ばした。
「つまんねぇよなあ。今晩当たり、一緒に街でも出ないか? 天河街の妓館で屋形船に乗ろうぜ」
グインの言うのに、兄の肅郡王が眉を顰めて首を振る。
「ダメだってば。この前見つかって、父上にこってり絞られたばかりだろう」
「ちぇっ。兄貴は堅物で面白くねぇな。……ユエリン、お前なら乗ってくるだろう?」
「やめておくよ。まるで覚えちゃいないけれど、以前にそれやって、馬から落ちて死ぬ目にあったらしいから」
「花街はまずいよ。それこそバレたら大変だよ」
成郡王も、気弱そうな眉を八の字にしてグインを諌めた。
「じゃあ、どうすんだよ!」
グインが言うのに、シウリンがぼうっとして言った。
「僕、泳ぎたいなあ……」
「「「はああ?」」」
三人の皇子が声を揃えてシウリンを見る。
「だって夏なのに、川へもどこへも泳ぎに行けないなんて……さっきこの池で泳ごうとしたら、ゲルに止められたんだよね。高価な錦鯉を飼っているから、入っちゃだめだってさ」
「……泳ぐってさ、どこで泳ぐんだよ?」
「えー。僕に聞かないでよ。十二歳以前の記憶がないこの僕に、泳ぐにいい場所なんてわかるわけないだろう」
しかし、このジリジリムシムシと暑い後宮にうんざりしていた少年たちは、泳ぐ、というシウリンの提案に、夢中になっていた。
「そういえばさ、ゲルフィンが家の前のイルマ河でよく泳いだっつってたな」
グインが記憶を手繰り始める。ゲスト家の邸宅は、イルマ河の畔、マフ家の二軒隣である。ただし、一軒一軒が大邸宅なので、それなりの距離はある。
「ゾーイに相談してみようか!」
シウリンが目を輝かせた。そう言えば、ゲルとは以前、夏には釣りに行く、なんて約束もしていたのだった。何のかんのと、それどころではなかったけれど。
その話をゲルにすると、さすがに面くらったようだが、
「デュクトやゾーイと相談してみましょう」
と言って出ていった。デュクトが首を縦にふるとは思えなかったが、ゲルが説得してくれるつもりなのだと、シウリンにはわかった。
何と昼前には相談がまとまり、四人の皇子たちと側仕え数人で、帝都のゲスト家に遊びに行くことになった。急な話なので昼食は弁当を持参して、ゾーイとゾラを始めとする侍従武官たちを護衛に、後宮を出掛けた。
「……よくデュクトがうんと言ったね?」
シウリンが相変わらずの苦い顔で馬に乗っている正傅を見ながら、ゲルに尋ねる。
「いえ、あまり締め付け過ぎると天河街の妓館に繰り込まれるぞ、と脅しただけですよ」
「僕はそんなことしないよ」
「わかっていますよ」
ゲルは片目を瞑ってみせた。
ゲスト家ではゲルフィンとトルフィンが出迎えた。広大な邸の裏手がイルマ河に面しており、専用の船着き場もあり、また流れの緩い浅瀬になった辺りは狭いながらも砂浜状になって、水遊びをするには絶好だった。
「昔はゲルフィンやゾラと、ここでよく遊んだものです」
ゾーイがやや感慨ぶかそうに言う。少し年下で大人しかったトルフィンは、希代の悪餓鬼であったゾラやゾーイとは水遊びはしたことがないという。あまりに乱暴な遊び方を見たトルフィンの母が、水遊びを禁止したからである。
早速、ステテコのような形の短めの脚衣に着替えて、四人の皇子は川の前に立つ。外見の嫋やかさとは裏腹に、シウリンが真っ先に水に飛び込んでいった。
シウリンが気持ちよさそうに冷たい水しぶきを盛大に上げるのを見て、グインや他の二皇子のもそれに習う。たちまち水辺は少年たちの歓声に包まれた。
まず、体調のあまりよくない皇太子。本来ならば太子監国となり、皇帝の代行として国政を預かるのだが、皇太子をあまり信用していない皇帝はその任を与えず、賢親王エリンに欽差大臣(=特命全権大臣)としての権限を与え、国政全般を委任することになった。もとより、避暑の時期は特段の政務もないのが毎年の習いである。
皇宮に残るのは、ほとんど寵愛のない妃嬪と、閨房教育中の皇子たちだけとなる。
鴛鴦宮でも皇后以下、その周囲の侍女、宦官らが避暑にでかけてガランとしていた。ただシウリンらの住む棟だけが、メイローズ以下宦官数名によって維持されていた。
閨房教育に入って以来、どこで皇后付きの侍女と行き会うかわからないということで、中庭の散歩等も制限されていた。今、人気のない皇后の居室近辺を横目に見ながら、朝のやや涼しいひと時、久しぶりにゲルと二人、庭の四阿で冷えた麦湯を飲みながら、〈陰陽〉の盤を囲んでいる。
〈陰陽〉とは黒と白の碁石で行う、囲碁のようなゲームである。後宮に来て以来、シウリンはゲルの手ほどきでゲームの腕を上げつつあった。
だいたい勝負がついて、お互いに石の数を数えている時、メイローズが来客を告げた。
シウリンに客が来ることなど、滅多にない。というよりは、初めてではないのか。
「誰?」
「グイン皇子殿下と、肅郡王殿下、成郡王殿下でございます」
瞬間、シウリンが目をぱちくりさせる。グインはいい。肅郡王とか、成郡王って、誰だ?
「肅郡王はグイン殿下の兄のマルイン様、成郡王は殿下の兄上のアイリン様ですよ」
ゲルが見かねたようにぽそりと補足する。二人はこの正月で成人して、それぞれ郡王爵を与えられていたのだ。
「……二人とも、離宮行幸には不参加なの?」
成人し、かつ未婚で後宮に住んでいる皇子は、全員行幸に同行していると思い込んでいた。
「さあ……俺はお二方の事情については存じませんが」
とにかく待たせていい相手ではないということで、こちらに入ってもらうことになった。
「この四阿が涼しいし、こちらでいいかな?」
「はい。お茶のご用意をいたしましょう」
入ってきた三人の皇子たち、もっとも年下のはずのグインが、どう見てもボスである。
「よう、ユエリン、小侯院も休みで、退屈だから遊びにきた。普段は皇后陛下がおられる宮だから、遠慮していたんだ」
「暑いね、元気だった?……兄上たちも、行幸に行かれたのだとばかり、思っていました」
それに対して、肅郡王マルイン皇子と、成郡王アイリン皇子が笑う。
「僕たちは母親の身分が低いからね。お呼びじゃないのさ」
二人とも母は中位貴族出身の女官である。郡王の爵位は保証されるが、皇帝から見るといてもいなくてもどうでもいい、取るに足らぬ皇子ということなのだ。
「東宮には親父までいるからな、また今年も太子監国にしてもらえなかったと拗ねていて、辛気臭せぇんだよ。小侯院も休みで居場所がないし、ここなら皇后もいなくて気楽かと思ってさ」
「僕の所も、また行幸の随員から外されたって母上が荒れていてね……」
不遜に言い放つグインと、肩を落とす成郡王を見回して、シウリンは眉尻を下げる。成郡王の母の宝林は、ほとんど気まぐれのような形で皇帝の手が付いて皇子を生んだものの、皇帝からはほぼ無視に近い扱いを受けている。それだけに後宮でも居場所もなく、辛い立場にあるのだ。
「そうなんだ……大変だね」
メイローズが冷茶と水菓子、それから氷室の氷を浮かべた果実水を運んできた。
「おおっ美味そう! やっぱり皇后宮は食い物まで洒落てるな!」
三人の皇子は目を輝かせて、さっそく冷たい水菓子と果実水に手を伸ばした。
「つまんねぇよなあ。今晩当たり、一緒に街でも出ないか? 天河街の妓館で屋形船に乗ろうぜ」
グインの言うのに、兄の肅郡王が眉を顰めて首を振る。
「ダメだってば。この前見つかって、父上にこってり絞られたばかりだろう」
「ちぇっ。兄貴は堅物で面白くねぇな。……ユエリン、お前なら乗ってくるだろう?」
「やめておくよ。まるで覚えちゃいないけれど、以前にそれやって、馬から落ちて死ぬ目にあったらしいから」
「花街はまずいよ。それこそバレたら大変だよ」
成郡王も、気弱そうな眉を八の字にしてグインを諌めた。
「じゃあ、どうすんだよ!」
グインが言うのに、シウリンがぼうっとして言った。
「僕、泳ぎたいなあ……」
「「「はああ?」」」
三人の皇子が声を揃えてシウリンを見る。
「だって夏なのに、川へもどこへも泳ぎに行けないなんて……さっきこの池で泳ごうとしたら、ゲルに止められたんだよね。高価な錦鯉を飼っているから、入っちゃだめだってさ」
「……泳ぐってさ、どこで泳ぐんだよ?」
「えー。僕に聞かないでよ。十二歳以前の記憶がないこの僕に、泳ぐにいい場所なんてわかるわけないだろう」
しかし、このジリジリムシムシと暑い後宮にうんざりしていた少年たちは、泳ぐ、というシウリンの提案に、夢中になっていた。
「そういえばさ、ゲルフィンが家の前のイルマ河でよく泳いだっつってたな」
グインが記憶を手繰り始める。ゲスト家の邸宅は、イルマ河の畔、マフ家の二軒隣である。ただし、一軒一軒が大邸宅なので、それなりの距離はある。
「ゾーイに相談してみようか!」
シウリンが目を輝かせた。そう言えば、ゲルとは以前、夏には釣りに行く、なんて約束もしていたのだった。何のかんのと、それどころではなかったけれど。
その話をゲルにすると、さすがに面くらったようだが、
「デュクトやゾーイと相談してみましょう」
と言って出ていった。デュクトが首を縦にふるとは思えなかったが、ゲルが説得してくれるつもりなのだと、シウリンにはわかった。
何と昼前には相談がまとまり、四人の皇子たちと側仕え数人で、帝都のゲスト家に遊びに行くことになった。急な話なので昼食は弁当を持参して、ゾーイとゾラを始めとする侍従武官たちを護衛に、後宮を出掛けた。
「……よくデュクトがうんと言ったね?」
シウリンが相変わらずの苦い顔で馬に乗っている正傅を見ながら、ゲルに尋ねる。
「いえ、あまり締め付け過ぎると天河街の妓館に繰り込まれるぞ、と脅しただけですよ」
「僕はそんなことしないよ」
「わかっていますよ」
ゲルは片目を瞑ってみせた。
ゲスト家ではゲルフィンとトルフィンが出迎えた。広大な邸の裏手がイルマ河に面しており、専用の船着き場もあり、また流れの緩い浅瀬になった辺りは狭いながらも砂浜状になって、水遊びをするには絶好だった。
「昔はゲルフィンやゾラと、ここでよく遊んだものです」
ゾーイがやや感慨ぶかそうに言う。少し年下で大人しかったトルフィンは、希代の悪餓鬼であったゾラやゾーイとは水遊びはしたことがないという。あまりに乱暴な遊び方を見たトルフィンの母が、水遊びを禁止したからである。
早速、ステテコのような形の短めの脚衣に着替えて、四人の皇子は川の前に立つ。外見の嫋やかさとは裏腹に、シウリンが真っ先に水に飛び込んでいった。
シウリンが気持ちよさそうに冷たい水しぶきを盛大に上げるのを見て、グインや他の二皇子のもそれに習う。たちまち水辺は少年たちの歓声に包まれた。
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