【R18】渾沌の七竅

無憂

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二竅

9、ゾーイの懸念

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 ゲルフィンはぐいっと蒸留酒を呷って、続けた。

「あの事故の時、正副の傅役が殿下のお側を離れた状態で、近習たちが花街に連れ出して深酒をさせた挙句、泥酔状態の殿下を馬に乗せて帰ったらしいのだ。正副の傅役に太陽神殿へ願文を届けに行かせたのは、近習の一人の入れ知恵のようだが、その近習の弟が、最近、皇太子殿下の三男の侍従に取り立てられた。それだけではなく、関係者を何人か、皇太子殿下が職を斡旋していてな……まるで……」
「報酬のようだ、ということか」

 ゾーイはさすがに胸が悪くなって蒸留酒を呷った。

「確かに、事故を起こす前はユエリン殿下は素行が収まらず、傅役とも衝突していたようだが、あの時期の皇子たちはある意味致し方がないのだ。グイン殿下にも、正直手を焼いている」

 ゲルフィンが青い顔をして言った。

「皇族男子は十歳を過ぎたあたりから、閨房の教育を始める。本人の発育にも依るが、遅くとも十二歳になるまでには陰陽の性技を会得している閨女を派遣して、陰陽の気を練る方法を学ばせる。ちなみにグイン殿下は十歳でこの儀を行い、今でも定期的に閨女がやって来る。成人前には終えるのが普通だ。ユエリン皇子もおそらく同じくらいの歳に閨房の学をはじめているはずだ。いつ始めるかは皇子宮の機密事項なので、状況は知らないのだがな」

 ゲルフィンは手酌で酒注ぎから酒を注ぐと、一息に煽った。

「……俺も経験があるが、あれを初めて知ったころは、夢中になる。とくに性技に長けた閨女と寝ると、もうそれしか考えられなくなるくらい、ハマるらしい。所詮子供だから自制も効かないし、うちの殿下なんか、いまだに盛りがついたまんまだ。ユエリン皇子の乱行が噂になり始めたのも、ちょうど同じころだ」

 大抵、どの皇子も一度そういう状態になるが、閨房の技術や欲望を制御する方法を学んでいくうちに、それなりには落ち着いていくのだと言う。

 ゲルフィンは青い大豆を手掴みで取り、中の身を指で扱き取りながら口に放り込む。

「だから、その時期の皇子を制御できるかが、傅役にとっても正念場なのだ。締め付け過ぎれば反発するし、だからと言って甘やかせば滅茶苦茶する。もともと傅役との関係がうまくいっていても、一時的に反発するようになる。……どうも、皇太子はこれを突いたのだ。性質の悪い側近にけしかけさせて傅役を追い払い、皇宮を抜け出して天河街の妓館にしけこんだり、滅茶苦茶やっていたらしい」

 十二歳の少年が悪所通いをする、という信じられない事態の、裏に隠されたカラクリにゾーイが絶句する。

「主の父親ではあるが、同じく皇子の侍従を務める身として、正直許し難くてな」

 ゲルフィンが苦い表情で言った。

「上に……訴え出るのか?」
「無理だな。証拠がない。皇太子側が皇子の側近をけしかけていた証言など出て来ぬだろうし、そもそも最初から落馬を狙ったわけではないだろうからな。……評判を落として、皇位レースから蹴落とせればいい、くらいだったのだろう。思わぬ大きな事故になり、ほくそえんでいたところが……」
「殿下が復活なさったということなのか」

 ゾーイもまた、苦い顔をして言う。

「そうだ。しかも、復活した後は憑き物が落ちたかのように、素直で真面目な性格になられたそうだ。以前は皇后陛下が甘やかしたせいか、ずいぶん傲慢で怠惰なところがおありになったが、今は全く見られないと」
 
 それについてはゾーイは同意した。ゾーイの知るユエリン皇子は、勤勉で下々に優しい、真面目な皇子だ。

「それでだ、今日わざわざ俺がここに来た本題なのだがな。トルフィンをユエリン殿下の侍従に出仕させないかと、賢親王殿下から内々のお達しがあったのだ」
「トルフィンを?」

 トルフィンはゲルフィンの従弟で、現在十六歳、成人したばかりだが、すでに見習いとして皇宮に出仕もしていて、かなり出来がいいと評判だ。

「俺としては、受けてもいいと思っているのだ。それで、一応事前におぬしに伝えておこうと思ってな」

 ゾーイはトルフィンを見たのは数年前だから、その時はまだほんの子供だったのだが、その段階においても、ゲルフィンは自身の弟たちよりもトルフィンを可愛がっているように見えた。

「そうか。それは楽しみだが……だが、いいのか?」
「何がだ」
「皇太子殿下は、ユエリン殿下を快く思っていらっしゃらない。仮にもグイン殿下の侍従であるおぬしが、従弟をユエリン殿下に出仕させて、大丈夫なのか?」
 
 ゲルフィンは人の悪そうな笑みを浮かべる。

「俺が仕えているのはグイン殿下であって、あのひ弱な皇太子ではないわ。だが、ユエリン殿下が復活したことで、皇太子がまた以前と同様の工作をしてくる可能性はゼロではない。だから、おぬしにも注意を喚起しておこうと思っているのだ。まあ、おぬしのマフ家や、我々のゲスト家、あとは正副の傅役はソアレス家とラング家か、多少の脅しや金品で動く者たちではないが、用心に越したことはないな」
「あと、フォーラ家のゾラが侍従武官に任官した」
「ほう! 見事に貴種で揃えたものよな」
 
 ゲルフィンが感心するが、あるいは賢親王はゲルフィンが指摘した皇太子の工作に気づき、ユエリンの周囲を慎重に選んでいるのだろうと、ゾーイは感じた。 

「そう言えば、正傅のデュクト殿はいつ帰ってくる予定なのだ?」
「知らんな。本来ならば、剣も馬も、デュクト殿が教授する予定だったと聞いている」

 ゾーイは以前、デュクトとは巡検で同じ組になったことがあり、その見事な――ただし少しばかり融通の利かない――剣捌きを間近で見たことがあった。
 
 ゲルフィンが少しばかり可笑しそうに言う。

「どうも、デュクト殿の神殿行きも、殿下の希望らしいな。うまく賢親王殿下を言いくるめて、体よく厄介払いしたらしい。だが、副傅のゲル殿は貴種ではあるが十二貴嬪家ではないので、親王の傅役としは貫禄が足りない。賢親王殿下もほとぼりが冷めたころに、デュクト殿を呼び戻すつもりなのだろうな」

 ゾーイは首を捻りながら言う。

「……あの穏やかで人好きのする殿下が策を弄してまで追い払おうとするのは、やはりデュクト殿の方に問題があるように思えてならない」

 ゲルフィンも新しく蒸留酒を注いで呷った。

「苦み走ったいい男だが、堅苦しいのは間違いないな。トルフィンもデュクト殿の下でやっていけるかどうかだけが、心配なのだ」
「……デュクト殿の話が出ると、あの温厚なユエリン殿下の眉が曇る。副傅役のゲル殿には弟のように懐いておられるのだがな。一度、殿下が街におりた時に、侍女に菓子を買って帰ったが、デュクトがいる時にこんなことをしたら、侍女が叱られて大変だった、と零しておられたな」

 そこで、ゲルフィンは少し酒に咽た。

「……もしや、殿下はまだ侍女をお側に置いておられるのか?」
「……俺は後宮内には入れぬ故、確かめたことはないが、そのようだぞ」
「それは……閨の教育はどうなっておられるのだ?」
「閨ぁ?」

 ゾーイが素っ頓狂な声をあげる。

「十三歳なら、すでの閨房教育に入っていなければならない。その時期の皇子はさっきも言ったように盛りのついた犬みたいになっているから、危なくて侍女など寄せることができんのだ。グイン殿下など、もう秀女が何人も閨に侍っているぞ」

 ゾーイは露骨に眉を顰める。秀女というのは皇子の夜の相手をさせるために全国から集めた下級貴族の令嬢たちだ。皇子専用の娼婦などと陰口すら聞かれている。

「……とてもじゃないが、そんな経験があるようには見えぬのだが」
「見えなくとも、経験があるには違いなかろう。悪所通いまでしていたのは間違いがないのだから」

 ゾーイは首を傾げる。

「少なくとも今は、秀女もいないようだがな」
「三か月も昏睡した挙句、記憶がないのにあんなことも強要することはできぬしなぁ。とすると、ユエリン殿下は閨房教育をやり直すのか? それは大変だな。もうあと成人まで二年を切っているぞ!」

 ゲルフィンの言葉に、ゾーイは尋ねる。

「その……女との交接を覚えるのに、二年も必要ないだろう」
「ただヤるだけなら、そうだがな。龍種の精を胎内で還流させて、無毒にしてから出す方法を会得せねばならんらしい。グイン殿下の話では、なかなか体得するのに時間がかかるらしいぞ」
 
 ゲルフィンが言うのに、ゾーイは何となく嫌な気分になる。そんな技、あの儚く美しい皇子に体得してもらいたくない。
 
「成人前に体得せねばならんのか?」
「成人したら皇宮外にも頻繁に出るし、巡検にも行くことになる。野放図にその辺りの女に手を出されては、犠牲者が増えるばかりだ。ゲル殿も賢親王殿下も頭が痛いことだろうな」

 マフ家というのは将軍の家系であるから、巡検や戦争において皇子と関わることはあるが、その教育に携わる機会はほとんどない。だいたい皆、皇宮騎士団や帝都騎士団の幹部クラスになるのが普通で、皇子の侍従官には任官しないのだ。ゾーイは六男で末子ということで、たまたま侍従に抜擢されただけである。

「……ふむ。皇子の侍従というのは、いろいろと厄介なのだな……」

 ゾーイはひとりごち、ゲルフィンはからからと笑った。




 ゲルフィンが帰ってから、ゾーイは自室で兵法書を読んでいたが、全く集中できていなかった。

『そのユエリンは本物か』

 皇太子の言葉が、ゾーイの中でひどく引っかかっていた。
 死ぬほどのケガをし、三か月の昏睡から醒め、記憶を失った皇子。

(左利きを、おそらくデュクトは意図的に隠させたのだ――)

『以前のユエリン殿下の〈王気〉とも異なると』

(〈王気〉はある。ということは、直系の皇族で、しかも顔はユエリン殿下と瓜二つ――)

 双子、か。
 ゾーイが心の中で呟く。
 棒術と拳法を学んだ形跡。食事の前に必ず『聖典』を唱える信仰心。そして、剣に触れようとしない。
 
(――僧侶、か)

 ゾーイは、初めて皇子を連れて帝都の街に下りた日のことを思い出した。
 お上りさんのように口を半ば開けて、茫然と街の様子を眺め、人の多さに酔ったようになっていた。買い物の仕組みもわかっておらず、支払いは全て副傅のゲルに任せきりだった。

 その反面、道端の野草を見てはこれは食べられるとか、この草の根は傷薬になるとか、妙なことを知っていた。……田舎の僧院で、薬草の知識を含む、きっちりした教育を受けていたと考えると、つじつまが合う。
 ユエリン皇子が双子で、存在を隠された片割が、どこかの僧院で養育されていたとしたら――。
 ユエリン皇子が助からぬと分かった時点で、密かに皇宮に戻されているとしたら――。

 通常ならばあり得ないほどの回復を見せた皇子。
 人が変わったように、勤勉で真面目で、下々に優しい皇子。
 〈王気〉の形態すら変化した、皇子。

 ゾーイはそこまで考えて、身の内の震えが止まらなくなる。
 皇子は、それをのぞんだのか。僧侶の過去をすて、ユエリン皇子として生きることを自ら選んだのか?

 剣と錢に触れることは、聖職者の禁忌だ。もし、まだ皇子が聖職者としての戒律を守ろうとしているのであれば――。
 
 おそらく、まもなくあの皇子にも閨房教育が開始されるのだ。
 あの、清廉で、潔白な彼を、まるで清流に住む魚を無理やり泥濘の中に放つような、そんな教育が、もうすぐ始まる。

 ゾーイは、痛々しい思いで、目を閉じた。
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