【R18】渾沌の七竅

無憂

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二竅

1、小侯院

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 デュクトが太陽神殿に奉仕に出たことで、シウリンの周囲は急に居心地がよくなった。どうしても、あの男は苦手だったのだ。

 三月に入って気候も穏やかになると、鴛鴦宮えんおうきゅうの外に出ることが許されて、後宮内にある小侯院しょうこういんと呼ばれる皇子たちの学問所に通うことになった。
 実はあまり気が進まない。同じ年頃の友人は欲しいけれど、たくさんの子供と一緒に勉強するのは、僧院の手習所てならいしょ以来で、騒がしくて嫌だった記憶しかないからだ。

 シウリンは落馬したおかげで記憶が全くないユエリン皇子、という役柄をこなさなければならないのである。落馬前のユエリンがどんな人物だったのか、ゲルもメイローズもほとんど情報を与えてくれない。さりげなく侍女や宦官から聞き出した印象では、あまり評判はよくなかったらしい。

 我儘、傲慢、怠惰。

 そんな噂を聞いて、シウリンは眉を顰める。気に入らないことがあると、何の罪もない宦官を鞭で打ったという話まで聞いて、シウリンはユエリンのフリをすることを諦めた。どういう心理状態に陥っても、そんな行動はとれそうもない。

(落馬のおかげで人格が変わった、という設定で押し通すしかないな)

 小侯院に通うのは、六歳から成人前までの皇子たちだ。つまり、十三歳のユエリン皇子は、後二年、通うことになる。第十五皇子であるユエリンの上には、十四人の兄皇子がいるが、二人はすでに早世し、十一人は成人している。そして、第十七皇子は夭逝ようせつし、第二十一皇子はまだ五歳で就学していないので、現在小侯院には、ユエリンの一つ上の第十四皇子以下、第二十皇子までの六人の皇子が在籍していることになる。
 それとは別に、皇太子の皇子が四人在籍している。皇太子の次男であるグイン皇子は、ユエリンと同じ年同じ月の生まれである。

「グイン殿下とは、何かにつけて張り合っておられましたから、あちらから何か言ってくるかもしれません」

 ゲルが注意を与えてくれた。

(張り合うって言われてもねー。僕は皇子としては新米だし。とりあえず、目立たないように静かにしていよう)

 小侯院の門をくぐると、中庭は花園になっていた。正面の堂は祖宗の廟となっていて、学問神である文昌帝が祀られている。傅役と侍従はここまでしか入れない。皇子は小宦官一人だけを連れて左右の教室に入る。教室は、十歳までの年少組と、十一歳からの年長組に分かれていた。

 シウリンが年長組の教室に入ると、三々五々にだべっていた皇子たちが、一斉に口を噤んでシウリンを見た。
 ユエリンの落馬事故からほぼ半年。長く床について命すら危ぶまれたユエリン皇子が、再び快復して現れたのだから、注目を浴びても無理はない。

 教室には四人の立派な服を着た少年と、四人の小宦官がいた。教室は広く、大きな紫檀の机が五つ置いてあり、一つの机に一人ずつ、小宦官が付いて一生懸命墨を磨っていた。一つだけ、誰もいない机があり、それがどうやらユエリン皇子の――つまりシウリンの――席らしい。シウリンは背後のフォンに振り返り、確認する。

 「あそこが僕の席?」

 フォンが頷くので、そのままゆっくりと席まで歩く。フォンが椅子を引き、それに腰かける。椅子に座るくらい、一人でも大丈夫なのだが、フォンの仕事を奪うなと口酸っぱく言われている。
 フォンが持ってきた教本テキストをシウリンの前に置き、備え付けの硯箱の蓋を開けて、早速墨を磨り始めた。
 しばらくフォンの動作を見てから、シウリンは目の前の教本に目を落とす。どう見てもあまり使い込まれておらず、妙にピッカピカである。

(怠惰、というか、勉強に不熱心だったのは確かみたいだな)

 それは詩の教本であった。シウリンは眉をあげる。どういう風に授業を進めていくのかわからないのだが、後宮に来てからの二月、ひたすら習字の練習に励んで、何とか見られる字を書けるようになっていた。だが、詩を作るまでには至っていない。

(韻の踏み方が、よくわからないんだよね……)
 
 溜息をつきそうになるのを我慢しながら教本を捲っていると、手元の教本に翳が射した。誰かが机の前に立ったのだ。
 顔をあげると、黒髪を短く刈り込んだ、やけに大柄な少年が目の前にいた。
 眉が凛々しく、やや面長で切れ長の黒い瞳を煌めかせ、顔立ちは整っている。どこか、賢親王に似ている、と思った――つまり、シウリンにも似ているということだ。

「よう、ユエリン。半年ぶりだな。もう身体はいいのか?」
「……うん……」

 この部屋にいるということは皇子の誰かなのだろうが、シウリンには当然、誰だかわからない。身体がシウリンより大きいところを見ると、一つ上の第十四皇子だろうか?いや、皇太子の長男も、シウリンよりは一歳年上のはずだ。

 そんなことを考えながら、じっと見つめていると、いつもと反応が異なることに戸惑ったのか、大柄な少年が首を傾げる。

「まだ、具合悪いんじゃないのか? なんか、ぼーっとしてるぞ? 事故の後遺症か?」
「うん。厳密に言うと、そうかな」
「どっか悪いのか?」
「そう。頭がちょっとね……何にも覚えてないんだよ」

 二人のやり取りを息を詰めて見守っていたらしい、他の三人の皇子が息を飲む。

「記憶に欠損があるっての、本当なのか?」
「……欠損っていうか、記憶そのものがないんだ。申し訳ないけど、君が誰だかもわからない」
「マジかよっ!」

 目の前の少年が、黒い瞳を見開いてシウリンを見つめてくる。

「うん。……だからあまり外に出たくないんだけど、身体は元気になっているから、外に出ろって」
「ほんとに、俺が誰かわかんないのかよっ!」
「ごめん、マジでわからない。……周りの人もわからないし」

 申し訳なさそうに少し俯き加減になり、上目遣いで少年を見る。その眼差しがものすごく色っぽくて、少年がどぎまぎしているのだが、シウリンは単に記憶のない友人に驚いているのだな、と思っている。

 と、後ろの席にいた少年が、間に入ってきた。

「グイン、いい加減にしろ。病み上がりの殿下にあまり絡むなよ」

 シウリンがほう、と黒い目を見開く。これが、ユエリンと張り合っていた、グイン皇子なのか、と。

「別に、絡んでるわけじゃねーよ。ユエリンが戻ってきて、またぞろアイリンを虐めるようならと思って釘を刺そうとしたけど、何も覚えてねーんじゃ、しょうがねーな」

 アイリン? イジメる?
 シウリンが首を傾げて周囲をさりげなく見回すと、斜め後ろの席にいかにもおどおどした小柄な少年が座っていた。シウリンを見る目が明らかに怯えている。

「僕が……彼をイジめていたの?」

 斜め後ろの少年がびくっと身を震わせる。グインが精悍な眉を顰めて言った。

「そうだよ。仮にも兄貴だっていうのに、母親の身分が低いからって、散々に使いっぱしり扱いして、苛めただろう?」
「母親の……身分が低い……兄貴? じゃ、彼は僕の兄上なの?」
「「「兄上ぇ?」」」

 グインだけでなく、グインの兄らしき少年と、残るもう一人の少年までも声を合わせて復唱する。教室全体に、驚愕した空気が充満していた。

「……ユエリン、お前、ほんとーに、どうかしちまってんじゃないか?」
「どうかしているのは間違いないよ。さっきも言ったように記憶がないからね。兄上なのが、何か問題なの?」

 ユエリンが尋ねると、グインがさも気味悪いものをでも見るような目で、言った。

「ユエリン、お前今までアイリンのことを、下賤な女の腹から生まれたクソ皇子って罵りこそすれ、兄上だなんて一度も呼んでねーよ」

 第十四皇子のアイリンは、三妃九嬪以下の宝林という女官の所生であった。当然、母親は十二貴嬪家の出身ではない。貴種以外の母を持つ皇子は、皇帝との魔力差が甚だしいために身体もあまり丈夫でなく、魔力も少ない。〈王気〉があるために皇子と認められていはいるが、将来は郡王爵と小さな領地をもらって、ひっそり暮らすのが関の山、というところだ。そういう皇子が曲がりなりにも兄として自分よりも上の序列にいることが自尊心の高いユエリン皇子には我慢できなかったのか、罵るは使い走りにするは、果てはごく潰しだからとっとと出家して神殿にでも入れと、滅茶苦茶言っていたらしい。

 話を聞いて、シウリンはずきずきと頭痛がしてきた。
 どうにもロクな皇子ではなさそうだと思ってはいたが、そこまでクズだったとは! シウリンは溜息を一つつくと、後ろのアイリン皇子に振り向いた。

「えーと、アイリンの兄上? どうも記憶のない時の僕が随分と失礼をしたようで、申し訳ありませんでした。今後はそのようなことがないようにしますので、よろしくお願いします」
 
 丁寧に頭を下げると、アイリン皇子はわたわたと両手を振った。

「いいい、いいえ、とんでもない……!」
 
 その様子を見ていたグインが穴が開くほどシウリンを見つめる。

「ほんとに、お前ユエリンかよっ! 頭おかしくなったんじゃねえ?」
「悪いことをしたと知って、素直に謝罪したら頭がおかしいと言われるのかい、ここでは」

 こんな学校モドキではなく、もっと世の中の常識が学べるちゃんとした学校に通うべきじゃないのかと、シウリンは思いながら言うと、グインはしきりに首を振っている。

「ユエリンが頭打って、いい奴になって帰ってきやがった。マジ、気持ち悪い」 

 それはグインだけでなく、その場の皇子が全員感じたことであったらしい。頭打つ前のユエリン、どんだけ嫌な奴だったんだよ、とシウリンはそっとこめかみを押さえた。
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