【R18】渾沌の七竅

無憂

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一竅

3、太陽神殿

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 馬車の中で、騎士たちは一言も喋らなかった。突然現れた両親とは何者なのか、帝都のどこに連れていってシウリンをどうするつもりなのか、当然説明があって然るべきであるのに、騎士は口をきくことが禁じられていると言わんばかりに、シウリンを無視した。シウリンはすぐに諦め、代わりにカーテンをちょっとだけ開けて外を覗いてみた。しかし、街道だという道は闇に閉ざされて人通りも明かりもなく、何も見えなかった。そのうちに、疲れと空腹でシウリンはうつらうつら、眠ってしまった。

 何時間たったのか。背の高い険のある顔の騎士に揺り起こされて、シウリンは目を覚ます。シウリンの身体には、毛織のマントが掛けられていた。いつの間にか夜は明け、馬車は目的地に着いていて、下りるように言われた。

 そこは、大きな屋敷だった。神殿の一角であるらしい。背の高い騎士が先に立ち、見たこともない高い天井の廊下を歩いて、シウリンは大きな浴室に連れていかれ、沐浴して着替えるように言われた。

「一人でできますか?」
「大丈夫です」

 シウリンは、無駄にだだっ広い脱衣場に一人で入る。

「体を綺麗にしたら、これに着替えてください」

 騎士はそう、言い置いて出ていった。
 シウリンは着せ掛けられた上等のマントを脱ぎ、丁寧に畳んで籠に入れ、その上に帽子を乗せた。それから首から下げていた、巾着型の小物入れを外す。ふと、思いついて中を見ると、いつも持ち歩くボロボロの『聖典』が一冊、乾燥した胡桃が実が二つ三つ、白墨が数個、木綿の薄汚れた手巾一つ、蝋燭が一つ、火打石、そして少女から預かった指輪が入っていた。

 何となく、その指輪を親指に嵌め、巾着を籠にいれて木綿の僧衣を脱ぎ、下帯を外す。全て籠に入れ、浴室に入った。

 大きな浴槽には満々とお湯が湛えられ、白い湯気が立ち上る。シウリンはこれまで、水浴びしかしたことはなかった。春夏は僧院の端を流れる小川で、秋が深くなると井戸端で、冷たい水で体を洗う。冬は手桶の水で手巾を絞り、拭くだけだ。手桶のお湯など、病人を清拭せいしきしてやる時にもらった以外にない。

 浴槽のお湯を桶に汲み、まず頭からかぶる。温かい。アカギレだらけの手と足に熱いお湯がピリピリとしみる。ぬか袋があるのを手に取り、剃髪している頭をごしごしこする。それから両腕、首、胸、腹、脚……と洗っていき、耳の後ろも念入りに洗って、桶に湯を汲んで再び頭からざぶんとかぶった。

 それから、お湯の中に恐る恐る足を踏み入れる。慣れないので少し熱い気がするが、しばらく浸かっていると言いようのない気持ちよさが訪れた。

(気持ちいい……)

 寒さの中を歩いた疲労と、長時間、馬車に押し込められたことで強張っていた身体がほぐれていく。
 昨日の昼食以後、ほとんど何も口にしていないことに気づいた。
 
 シウリンは、アカギレだらけの右手の親指に嵌めた指輪を見る。
 涙型の翡翠の周囲に、金銀の象嵌ぞうがん。ごつごつした質感に、古色蒼然こしょくそうぜんとした輝き。
 結局、院長にもこの指輪の話をすることができなかった。

(何となく、これは人に見せない方がいい気がする。……盗んだと疑われても嫌だし、何より、これを人に盗まれたら困る)

 シウリンは左手で指輪を握り込んだ。これだけは何としても守らなければ。
 自分はこれからどうなるのか。彼らは何も説明しようとせず、質問も許さない。ただ、丁重な態度は崩さないし、乱暴なこともしない。さしあたって、シウリンに危害を加えるつもりはないらしい。

(還俗して東の帝国の、帝都に行くと言っていた――。両親……生きていたなんて)

 シウリンは僧院以外の世界を知らない。外の世界を知らぬシウリンにとって、還俗だの、帝都だの、雲を掴むような話でイメージがわかない。

(いったい、どうなってしまうのだろう――)

 何の説明もないことが、シウリンの不安を煽る。
 そもそも、あの若い騎士はどうしてあんなにも感じが悪いのだ。突如、遠く聖地の辺境の僧院まで、薄汚れた見習い僧侶を迎えに来るはめになって、面倒臭くて苛立っているのか。だが、その不満をシウリンにぶつけるのは、筋が違う。だいたい彼は何等かの説明をするために、ここまでやってきたわけではないのか。

 シウリンは馬車の中で、当然詳しい話があるものと思っていた。何も言わずに馬車に押し込め、飲まず食わずで連れ出すなんて、誘拐も同じである。あんな奴を派遣してきた時点で、両親に対してもあまり期待しない方がいいかもしれない。

 両親とは何者なのか。どこへ連れていくつもりなのか。還俗させてシウリンをどうするのか。
 シウリンはそこで首を振った。
 僧院とその周辺の森と牧草地くらいしか知らないシウリンには、与えられる新しい生活というのが、全く想像もつかなかった。

(何か仕事をさせられるのかな。どうせなら、炭焼きとか、羊飼いならいいな。皿洗いとか、芋の皮剥きみたいな仕事はイヤだな……)

 シウリンの思いつく「仕事」というのは、せいぜいその程度であった。

(羊飼いは得意なんだけどな。犬と遊べるし、昼寝もできる……帝都でも羊を飼うのかな。室内でお勉強みたいなのもちょっとイヤだな。マニ僧都との勉強は楽しかったけど、その前の手習所は喧しくってイヤだったし)

 シウリンは少し眉を顰めて、ガヤガヤと騒々しかった手習所のことを思い出す。あの仲間たちに、お別れの挨拶さえ、できなかった――。

 十二年間育った孤児院で、シウリンは子供たちの間のリーダー的存在だった。

 まずシウリンは、容姿が抜群に美しかった。切れ長で黒目がちの瞳は少し上がり気味で、理知の光にきらきらと輝き、本来であれば霊峰プルミンテルンの根雪のように白い肌は、労働で日に焼けていたが滑らかさを失っていない。通った鼻筋に形のよい凛々しい眉、やや薄い唇は清潔な印象を強め、それでいてどこか艶めいた雰囲気さえ醸し出していた。少年期特有の色香も手伝い、シウリンへの邪な思いに、密かに懊悩する若い僧侶は後を絶たなかった。しかしシウリンはそういう感情には無頓着だった。

 シウリンに懸想する僧侶は多かったが、陰陽交合が教義である〈禁苑〉において、同性愛は天に唾する禁忌である。沙弥であるシウリンは他の子供たちと一緒に孤児院の宿舎暮らしであり、孤児院は監督官であるシシル準導師によって、蟻の這い出る隙間もないほど厳格に管理されていた。どれほど焦がれようが、シウリンには近づくことすらできなかったであろう。

 だが、厨房掛は珍しい料理を作ればシウリンを呼び入れて味見だと言って食べさせ、シウリンが時々食糧を運んでいた水車小屋番は森で取れた蜂蜜を、炭焼き小屋の僧侶は罠にかけたウサギの肉を、果樹園番はくすねた果物を、みなシウリンの歓心を買うため彼に贈った。無邪気なシウリンはそれを単なる好意だと思って有り難く受け取って、夜に孤児院の仲間たちと密かに分け合って食べていた。常にお腹を空かせていた孤児院の子供たちにとって、魔法のように珍しい食べ物を持ってくるシウリンは、まさにヒーローだった。

 それでいて、シウリンは特に威張り散らすこともなく、目上の者には従順で、小さな子供の世話も嫌がらなかった。小さな子を庇って、理不尽な要求には理路整然と反論した。そんなシウリンを、監督官であるシシル準導師が目の敵にするのは当然と言えば当然で、いつもくだらない言いがかりをつけられたが、シウリンはそれをあっさりと躱して、一層、シシルの怒りを買っていたのである。

 およそシウリンほど、愛され、期待された沙弥はいなかった。
 姿形が美しいだけでなく、頭脳はさらに脅威的だった。どんな経典も一度耳にすれば諳んじてしまい、誰も教えていないうちに勝手に文字を覚えていた。孤児院の手習所の教育では追いつかなくなって、八歳の時からは特にジュルチ僧都とマニ僧都という、二人の師が付けられたほどだ。以来、シウリンはマニ僧都から深遠な陰陽の教義と数学を、ジュルチ僧都からは棒術、体術と医術と薬草の知識を学んだ。とりわけ、ジュルチをシウリンは敬愛し、ジュルチもシウリンを可愛がった。

 ジュルチ僧都とマニ僧都はシウリンの能力の高さを認め、太陽神殿附設の学院でさらに高い教育をうけさせるべきだと院長に建言し、院長もそれを納れた。年が明け、正式に得度した暁には太陽神殿の学院に入学する手はずになっていたのだ。住み慣れた僧院を離れるのは不安ではあったが、シウリンはある意味、どこでも生活していく自信だけはあった。なぜならば、シシル準導師のようなごく一部の例外を除いて、ほぼ全ての人がシウリンを愛し、親切にしてくれたからである。

 それ故に余計、険のある騎士の態度はシウリンには慣れなかった。シウリンの態度にもまずいところがあるのかもしれないが、言ってくれなければ直しようがない。

 シウリンはあの態度の悪い騎士としばらく一緒に過ごすのだろうか、と思うと気が重かったが、腹を括って風呂から立ち上がった。
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