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37、壊れゆく心
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王宮舞踏会の夜をきっかけに、ジュスティーヌはラファエルと距離を取るようになった。
ジュスティーヌへの恋を自覚したラファエルには辛い。だが、自身の想いを明かすまいと決めているラファエルは、それに耐えていた。ジュスティーヌの降嫁の話は、今は立ち消えになっている。――あの後、いろいろと噂が駆け巡り過ぎて、迂闊には動けない。あるいは、すでにジュスティーヌが王に対し、はっきりと拒否したのかもしれない。すべて、ラファエルにはわからないことばかりだ。
明らかなのは、ジュスティーヌがラファエルのことを、別に愛していないこと。
ジュスティーヌの心の傷は、あまりに深い。男性への恐怖心も消えておらず、結婚への越えがたい壁となって立ち塞がっていた。
恋しても、手の届かぬ人。
ラファエルにとってジュスティーヌこそ、けして触れることのできない、水に映った月影に他ならなかった。
フィリップからの密かな手紙で、ミレイユの婚約が決まったと知る。
あれだけ愛した人のはずなのに、心は岩のように静かで、動くことはなかった。
――ただ、彼女の幸せを祈るのみ――。
秋が深まるころ、王太子妃イザベルが無事に男児を出産した。
王太子マルスランにとっては初めての男児であり、王家にとっても待望の跡継ぎだ。国は歓びに沸いた。
王子の誕生を祝い、王都の市民に王宮の庭園を開放することになり、その日はジュスティーヌも王族の一人としてバルコニーに立ち、市民の祝賀を受けることになった。
王宮は市民を迎えるために、様々な準備が凝らされたが、特に当日の警備に当たる騎士たちは、万が一にも間違いがないように、万全の体制を敷くべく、あらゆる場合を想定して警備の穴がないように詰めていく。ジュスティーヌの警備を担当するラファエルも、当日のバルコニーへのお出ましの道順、危険な場所はないか、繰り返しチェックしていく。
「姫君の部屋から、王宮のバルコニーに続く回廊を、庭園に沿って行く間、庭のあたりの警備が手薄になりそうですね」
「まさかこんな場所まで、入り込む市民はいないでしょうが――」
セルジュと二人、地図と首っ引きになって、人員の配置を考える。忙しくて、ラファエルはミレイユのことなどほとんど、忘れていた。
当日、庭園開放は朝の八時に始まり、日没までと決められていた。十時と正午、そして二時、四時の四回のお出ましに、ラファエルはジュスティーヌを先導して彼女の部屋とバルコニーを往復することになっている。ジュスティーヌは疲れた様子も見せず、にこやかに役目を果たし、最後の一回を残すのみとなった。
冬の始まりの四時はすでに日没も間近。太陽の光は力を失い、金色に周囲を染めつつある。ジュスティーヌは薔薇色のドレスを纏い、肌寒さを避けるために裏に白貂の毛皮を内張した毛織のケープを羽織り、庭園をめぐる回廊を歩いていく。
ジュスティーヌを先導していたラファエルは、前方に違和感を覚える。
見慣れた、人影――。
夕暮れ近い淡い光の中に、逆光で色はわからないが、ほっそりとした女の輪郭が浮かび上がる。
紛れ込んだ市民だろうか。だが、女一人というのは些か――。
なんとなく不吉な気がして、ラファエルがその人影を注視していると、影はゆらりとゆらめいて、こちらに近づいてくる。
「ラファエル? どうしたの? どなたかいらっしゃるの?」
すぐ後ろにいたジュスティーヌが、不思議そうに問いかける。
「ラファエル、待っていたの――」
人影が、女の声を紡ぎ出す。聞き覚えのある声にラファエルがはっとする間もなく、走り寄ってきた人影の、手元が午後の陽光に煌いた。
――刃物だ!
咄嗟にラファエルがジュスティーヌを庇うように一歩前に出て、女と正面から対峙する。どこか虚ろな、青い瞳。
「ミレイユ!――何を」
彼女の右手に小さなナイフがあるのを見て、ラファエルは心臓を掴まれる。まさか、姫を――?
「やめろ、姫に何をする! 取り押さえろ!」
迷わず、ラファエルが命令を下す。背後の騎士たちがミレイユを取り囲むが、多少髪を乱していはいるが、明らかに高位貴族の令嬢然とした姿に、騎士たちも手を出しかねている。
「違うわ、そうじゃないわ、ラファエル! わたくしは別に――」
「刃物を持って姫君の御前に出る者は、姫君に害を為そうとする曲者と、判断されても仕方がない。取り押さえよ!」
重ねてラファエルが命令すれば、ミレイユはかつての恋人の言葉に衝撃を受けたらしい。
「違うのよ、これは――わたくしは、姫君じゃなくて――」
だが捕らえられるのを逃れられないと観念したのか、ミレイユは右手に持ったナイフで、自身の左手首を掻ききった。
赤い血が溢れ出て、地面に滴る。
一部始終を見ていたジュスティーヌが、ラファエルの背後で絹を引き裂くような悲鳴を上げた。
「姫様!」
ジュスティーヌの背後にいた侍女が金切り声をあげる。振り向けば、失神したジュスティーヌが膝から頽れていくのが、ラファエルの目にはスローモーションのように見えた。反射的に動いて、ジュスティーヌを抱き留める。
「ラファエル、違うのよ――信じて――」
何を、信じろと言うのか。ラファエルが気を失ったジュスティーヌを抱きかかえてミレイユを振り向けば、その青い瞳には絶望の色があった。
すでにミレイユは左右から騎士たちに取り押さえられている。ナイフで自ら傷つけた左手に、セルジュが手巾を当てているが、見る間に真っ赤に染まっていく。
「――怪我人が出た故、姫君のお出ましはないと、王宮に伝えてくれ。それから、その女性を客室に。高位貴族のご令嬢だ。事を大きくしてはならない。このことはくれぐれも内密に!」
素早く部下に指令を飛ばし、人目につかない部屋へとミレイユを連行させる。
「この人は、俺が見ている。ラファエル、お前は姫君をお部屋に――」
「申し訳ありません、セルジュ先輩、後で――」
ラファエルがジュスティーヌを横抱きにして踵を返すのを、セルジュに左腕を押さえつけられていたミレイユが目で追って、叫んだ。
「ラファエル、違うの、姫君を狙ったわけじゃないの――信じて――」
一瞬だけ、ちらりと振り返るが、その後は物も言わずに姫君の部屋へと急ぐ。
「行きましょう、ご令嬢。事情をお伺いしなければなりません」
背後で、冷静に問いかけるセルジュの声が聞こえた。
ラファエルには、すべてが混沌として理解できなかったが、一つだけ、明らかなことがあった。
ミレイユの心を壊したのは、俺だ――。
ジュスティーヌへの恋を自覚したラファエルには辛い。だが、自身の想いを明かすまいと決めているラファエルは、それに耐えていた。ジュスティーヌの降嫁の話は、今は立ち消えになっている。――あの後、いろいろと噂が駆け巡り過ぎて、迂闊には動けない。あるいは、すでにジュスティーヌが王に対し、はっきりと拒否したのかもしれない。すべて、ラファエルにはわからないことばかりだ。
明らかなのは、ジュスティーヌがラファエルのことを、別に愛していないこと。
ジュスティーヌの心の傷は、あまりに深い。男性への恐怖心も消えておらず、結婚への越えがたい壁となって立ち塞がっていた。
恋しても、手の届かぬ人。
ラファエルにとってジュスティーヌこそ、けして触れることのできない、水に映った月影に他ならなかった。
フィリップからの密かな手紙で、ミレイユの婚約が決まったと知る。
あれだけ愛した人のはずなのに、心は岩のように静かで、動くことはなかった。
――ただ、彼女の幸せを祈るのみ――。
秋が深まるころ、王太子妃イザベルが無事に男児を出産した。
王太子マルスランにとっては初めての男児であり、王家にとっても待望の跡継ぎだ。国は歓びに沸いた。
王子の誕生を祝い、王都の市民に王宮の庭園を開放することになり、その日はジュスティーヌも王族の一人としてバルコニーに立ち、市民の祝賀を受けることになった。
王宮は市民を迎えるために、様々な準備が凝らされたが、特に当日の警備に当たる騎士たちは、万が一にも間違いがないように、万全の体制を敷くべく、あらゆる場合を想定して警備の穴がないように詰めていく。ジュスティーヌの警備を担当するラファエルも、当日のバルコニーへのお出ましの道順、危険な場所はないか、繰り返しチェックしていく。
「姫君の部屋から、王宮のバルコニーに続く回廊を、庭園に沿って行く間、庭のあたりの警備が手薄になりそうですね」
「まさかこんな場所まで、入り込む市民はいないでしょうが――」
セルジュと二人、地図と首っ引きになって、人員の配置を考える。忙しくて、ラファエルはミレイユのことなどほとんど、忘れていた。
当日、庭園開放は朝の八時に始まり、日没までと決められていた。十時と正午、そして二時、四時の四回のお出ましに、ラファエルはジュスティーヌを先導して彼女の部屋とバルコニーを往復することになっている。ジュスティーヌは疲れた様子も見せず、にこやかに役目を果たし、最後の一回を残すのみとなった。
冬の始まりの四時はすでに日没も間近。太陽の光は力を失い、金色に周囲を染めつつある。ジュスティーヌは薔薇色のドレスを纏い、肌寒さを避けるために裏に白貂の毛皮を内張した毛織のケープを羽織り、庭園をめぐる回廊を歩いていく。
ジュスティーヌを先導していたラファエルは、前方に違和感を覚える。
見慣れた、人影――。
夕暮れ近い淡い光の中に、逆光で色はわからないが、ほっそりとした女の輪郭が浮かび上がる。
紛れ込んだ市民だろうか。だが、女一人というのは些か――。
なんとなく不吉な気がして、ラファエルがその人影を注視していると、影はゆらりとゆらめいて、こちらに近づいてくる。
「ラファエル? どうしたの? どなたかいらっしゃるの?」
すぐ後ろにいたジュスティーヌが、不思議そうに問いかける。
「ラファエル、待っていたの――」
人影が、女の声を紡ぎ出す。聞き覚えのある声にラファエルがはっとする間もなく、走り寄ってきた人影の、手元が午後の陽光に煌いた。
――刃物だ!
咄嗟にラファエルがジュスティーヌを庇うように一歩前に出て、女と正面から対峙する。どこか虚ろな、青い瞳。
「ミレイユ!――何を」
彼女の右手に小さなナイフがあるのを見て、ラファエルは心臓を掴まれる。まさか、姫を――?
「やめろ、姫に何をする! 取り押さえろ!」
迷わず、ラファエルが命令を下す。背後の騎士たちがミレイユを取り囲むが、多少髪を乱していはいるが、明らかに高位貴族の令嬢然とした姿に、騎士たちも手を出しかねている。
「違うわ、そうじゃないわ、ラファエル! わたくしは別に――」
「刃物を持って姫君の御前に出る者は、姫君に害を為そうとする曲者と、判断されても仕方がない。取り押さえよ!」
重ねてラファエルが命令すれば、ミレイユはかつての恋人の言葉に衝撃を受けたらしい。
「違うのよ、これは――わたくしは、姫君じゃなくて――」
だが捕らえられるのを逃れられないと観念したのか、ミレイユは右手に持ったナイフで、自身の左手首を掻ききった。
赤い血が溢れ出て、地面に滴る。
一部始終を見ていたジュスティーヌが、ラファエルの背後で絹を引き裂くような悲鳴を上げた。
「姫様!」
ジュスティーヌの背後にいた侍女が金切り声をあげる。振り向けば、失神したジュスティーヌが膝から頽れていくのが、ラファエルの目にはスローモーションのように見えた。反射的に動いて、ジュスティーヌを抱き留める。
「ラファエル、違うのよ――信じて――」
何を、信じろと言うのか。ラファエルが気を失ったジュスティーヌを抱きかかえてミレイユを振り向けば、その青い瞳には絶望の色があった。
すでにミレイユは左右から騎士たちに取り押さえられている。ナイフで自ら傷つけた左手に、セルジュが手巾を当てているが、見る間に真っ赤に染まっていく。
「――怪我人が出た故、姫君のお出ましはないと、王宮に伝えてくれ。それから、その女性を客室に。高位貴族のご令嬢だ。事を大きくしてはならない。このことはくれぐれも内密に!」
素早く部下に指令を飛ばし、人目につかない部屋へとミレイユを連行させる。
「この人は、俺が見ている。ラファエル、お前は姫君をお部屋に――」
「申し訳ありません、セルジュ先輩、後で――」
ラファエルがジュスティーヌを横抱きにして踵を返すのを、セルジュに左腕を押さえつけられていたミレイユが目で追って、叫んだ。
「ラファエル、違うの、姫君を狙ったわけじゃないの――信じて――」
一瞬だけ、ちらりと振り返るが、その後は物も言わずに姫君の部屋へと急ぐ。
「行きましょう、ご令嬢。事情をお伺いしなければなりません」
背後で、冷静に問いかけるセルジュの声が聞こえた。
ラファエルには、すべてが混沌として理解できなかったが、一つだけ、明らかなことがあった。
ミレイユの心を壊したのは、俺だ――。
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