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1巻

1-2

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 三十半ばの細身で中性的な容姿の方で、燃えるような赤い髪が背中を覆っている。足首までの濃紺の長いローブには凝った金糸刺繍が施され、手には赤い魔石の指輪が見えた。
 一見、女性と見まごうような優美な雰囲気なのに、実は帝都でも最強の魔導師と言うから、内心驚いてしまう。

「そして、我が国最高の幸運児が、そなた――ユード・フォン・オーベルシュトルフ、というわけか。今日は一段と男ぶりが上がっているではないか」

 陛下が気さくに、わたしの横で片膝をついたままのユードに話しかける。

「これほどの美姫びきであれば、母上の言う通り、我が後宮に入れればよかった。もったいないことをしたな」
「陛下、お戯れを」

 ラウレンツ卿の反対側の肘掛椅子を許されている父のジークバルトが、横から陛下の冗談を窘める。

嫡男ちゃくなんを失くしまして、ただひとり、娘だけが残りました。これを陛下の後宮にお捧げしては、辺境の守りを継ぐ者がいなくなりますので……」
「その通りだな、冗談である。許せ」

 陛下が笑って手を振り、そしてユードとわたしを見た。

「昨年の地震以来、どうにも世の中に不穏な空気が満ちている。それを払拭ふっしょくする目的もあって、そなたらの結婚を急がせた。ブロムベルク家の継承を安定させ、ついでに帝都のオーベルシュトルフとの関係を強く結ばせる。一石二鳥いっせきにちょうというわけだ」

 父とユードが「は」、と神妙に頭を下げる横で、わたしもそれに倣う。
 陛下はまだ若く、容姿も中の上程度だけれど、非常に聡明な方という評判だ。今は父を信頼してくださっているように見えるのに……
 ――この人が一年後には、ユードの讒言ざんげんを信じて父を殺すのだ。
 そう思うと心臓が縮み上がる気分で、わたしは少しだけふらついてしまった。

「セシリア……?」

 隣のユードがとっさにわたしを支え、陛下とラウレンツ卿も、わたしがさきほどの結婚式で倒れたのを思い出したらしい。

「そう言えば、具合がよくなさそうでしたね。妖精姫は噂通り、身体が丈夫ではないらしい」

 父はわたしの身体が弱いと嘘を言って、社交界に出さなかった。
 そうなると余計に神秘めいてくるのか、いつの間にか『ブロムベルクの妖精姫』なんて噂がひとり歩きし、本物とのギャップに失望されそうで、ますます人前に出られなくなった。
 ――前世でも、わたしの社交界デビューは結婚式のあとだった。
 ラウレンツ卿が立ち上がって進み出て、わたしの額に手をかざした。指先から白い光が発せられ、その途端、すっと身体が軽くなる。

「ふむ、さすが妖精姫。……なかなか魔力が強い……」

 それから、ラウレンツ卿はユードをじっと見た。

「ユード卿……ただの平民とは思えぬほどの魔力量ですが……」

 わたしがユードを見上げると、彼は苦笑した。

「父は騎士でありましたが、早くに孤児となりましたので、継ぐべき家も爵位も残っておりません。貴族の血は引いておりますゆえ、魔力はそのせいかと……」
「なるほど」

 ラウレンツ卿も納得したのか、もとの席に戻る。

「花嫁には体力回復の魔術をかけておいたので、しばらくはちましょう」
「恐れ入ります」

 わたしが礼を述べると、ラウレンツ卿が妙なことを言い出した。

「ときに――あなたがたブロムベルクの者は、〈聖杯〉については何か聞いていませんか?」
「……聖杯?」

 予想もしない質問に、わたしはポカンとしたが、父がすぐさま答えた。

「ギストヴァルトの、精霊王の聖杯のことですかな?」
「そうです。……所有すれば世界を手に入れられる伝説の神器」

 わたしは首を傾げる。
 ――こんな会話の記憶はない。前世の記憶が不完全な可能性もあるけれど、ここは前世とは違っているように思われた。
 我がブロムベルク辺境領に続く、ギストヴァルトと呼ばれる、精霊の黒い森。かつては神聖王国という小国が治めていたが、およそ二十年前に滅んだ。帝都から遠いこともあり、そのままブロムベルク家が統治を委任された状態にある。
 もともと、ギストヴァルトは太古から精霊の土地で、精霊王が治めていた。
 しかし精霊王はとある騎士と契約を結び、ギストヴァルトを彼の統治に託した。その契約の証として聖杯を賜ったという伝説は、我が国の人口に膾炙かいしゃしている。
 ――でも、その聖杯がなんだと言うのかしら?
 戸惑っているわたしを無視して、ラウレンツ卿は続ける。

「昨年の地震ですが、あまりに奇妙でした。あれだけの被害を出しているのに、大きく揺れたのは帝都だけです」

 ラウレンツ卿が目を細め、片手で天を指さす。

「最近は天候も不順です。季節外れの長雨に、ひょうが降ったり、大風が吹いたり……何もないのに橋が落ちたことも。どうにも、日に日に禍々しい気が強くなっていくのが感じられてなりません」

 皇帝陛下が肩を竦める。

「ラウレンツはそう申すが、天候不順はともかく、ベルツ橋が落ちたのは古くて管理が悪かったせいだろう? 悪い気が溜まっているなどと言われても、ちんにはさっぱりじゃ。そなたら、わかるか?」

 陛下に問われ、わたしは反射的に首を振る。横目でユードを見れば、やはり戸惑いを隠せずに首を傾げていた。ラウレンツ卿が淡々と説明する。

「精霊王が神聖王国の初代王に契約の証として下賜した聖杯は、ギストヴァルトの王城にあったはずです。しかし、二十年前、神聖王国が我らの帝国にくだったあと、行方が知れない」

 わたしを支えている手に微かに力が入ったので、ちらりとユードを見る。だが、彫刻のように整った顔からはなんの表情も読み取れなかった。
 父が訝しそうに尋ねる。

「聖杯と、地震や天候不順に関係が?……たしかに二十年前、一部の傭兵が暴走して、神聖王国の王城を急襲しました。私も慌てて駆けつけましたが、そのときには城は火の海で……すでに城は略奪され、王族もすべて殺されていました」
「その時、何者かによって奪われたまま……ということですか」

 ラウレンツ卿が眉を寄せれば、父が言葉を続ける。

「そもそも、あの城に本当に聖杯があったかすら、わかりませんよ。どんなものだか、誰も見たことがないのですから」

 陛下が呆れたように口を開く。

「ラウレンツよ、聖杯などただの伝説だ。そんなもののせいで地震が起こるはずがなかろう」
「……そうですが……古文書に気になる記録を見つけまして」

 頭を掻くラウレンツ卿に、わたしはつい、尋ねる。

「聖杯のせいで地震や天候不順が起こる、という記録が?」
「ええ、そうなのです。セシリア嬢……いえ、セシリア夫人」

 セシリア夫人と言われ、恥ずかしさでわたしは俯いてしまう。

「もう……五百年も前の記録ですが……聖杯は意に添わぬ者に所有されると怒り、自らの居場所を示すために大地を揺るがす、と。怒りが大きければ大きいほど、揺れも被害も大きく、周囲に悪い気を集めて最後には世界を滅ぼすと」

 ラウレンツ卿の説明に、わたしはユードを見る。昨年の地震でわたしは危ういところをユードに助けられ、それが結婚のきっかけになったからだ。ユードもまた、困ったような表情でわたしを見た。

「……そんな理由の地震だったなんて……」
「ああ、もうよい。あるかないかわからぬ聖杯のことなど。それよりも――」

 陛下が話題を振りきり、言った。

「来年はちんもこの大聖堂で婚儀を挙げる予定だ。かねてからの婚約者であった隣国の姫がようやく成人を迎えるからな。その折にはぜひ、参列してくれ。前方の席を開けておこう」
「は。ありがたき幸せでございます」

 ユードが頭を下げ、わたしもそれに倣う。
 前世で陛下の結婚式に出た記憶はない。ということは、きっと、その前に我が家は破滅したのだ。

「陛下、そろそろ還御かんぎょを……」

 控えていた侍従が進み出て陛下に囁き、陛下が頷いて立ち上がる。

「では、失礼する。また皇宮にも参内さんだいし、母上の話し相手なども務めてほしい。妖精姫ならば、母上もきっとお気に召す」
「ありがとうございます」

 前世の記憶にある皇太后陛下はとても気の強い方だった。そんな方のお相手なんて絶対に無理だと思いつつ、口には出さずにわたしは神妙に頭を下げ、陛下とラウレンツ卿の退出を見送った。


   ◆◆◆


 わたしとユードは、馬車で披露宴会場となる我が家に向かっている。途中、ユードがわたしを気遣うように尋ねた。

「身体の調子はどうです?」
「……少し疲れました。陛下と直接お話しするなんて初めてで」
「ああ……平民出の俺にも気軽に接してくださる」
「ラウレンツ卿は変わった方ね。突然、聖杯伝説の話をなさって」
「そうですね……魔導師はみな、ちょっと浮世離れしているそうですし」

 辺境伯の跡取りと決まってから、ユードは皇宮にも何度か上がっている。そのため、陛下とラウレンツ卿とも面識があり、覚えもめでたいのだ。
 ――ユードを婿養子として送り込み、ブロムベルクを手に入れるオーベルシュトルフ侯爵の計画は、着々と進んでいるということだ。
 あと一年。わたしは最悪の結末を回避できるのだろうか。
 視線を逸らすわたしに、ユードが言った。

「披露宴、体調が悪いなら無理はしなくともいいと思います」
「いえ、オーベルシュトルフ侯爵と、ご令嬢のディートリンデ様にはご挨拶申し上げなければ」

 そういえば前回の結婚式のときは、ディートリンデ様にはひどく睨まれたっけ。あのころから十分にあからさまだったけれど、ユードとの結婚に浮かれていたわたしは気づかなかった。
 二人の噂は以前から囁かれていたのに、わたしったら本当に鈍いことこの上ない。
 そんなことを考えていると、隣に座るユードの腕が伸びてきて、わたしの手を取った。そしてレースの手袋越しにキスを落とす。

「セシリア、妖精姫の異名の通り、貴女は本当に妖精のようです。陛下まで後宮に入れたいなんて言い出されて、俺は気が気でありません。貴女が祭壇の前で倒れたときは、このまま貴女が消えてしまうんじゃないかと俺は――」

 今までなら、これだけで顔が熱くなり、ユードの顔もまともに見られなかったけれど、すべてが嘘ばかりと思い出した今は冷静だ。
 わたしはすっと彼から自分の手を離して、口角を上げてわざとらしい微笑みを作ってみせた。

「相変わらず、歯が浮くようなセリフね……大丈夫よ、ありがとう」
「セシリア?」

 握っていた手を解かれたことで、ユードは驚いて青い目を見開いている。
 わたしはユードの青い目をまっすぐに見て言った。

「ユード、もう結婚したのだから、敬語はやめて。わたしもあなたのこと、旦那様と呼んだほうがいいかしら?」

 以前、護衛騎士だったせいで、ユードは婚約後もわたしに敬語で通しているのだ。

「セシリア……旦那様なんて呼ばれたら、光栄すぎて命が縮みます。俺のことは今まで通りユードと呼んでください」
「まだ敬語になっていてよ?」

 わたしが悪戯っぽく言えば、ユードは凛々しい眉を少しだけ寄せた。

「そう簡単には直せません。でも、善処します」


 披露宴は我がブロムベルク辺境伯家の親族と郎党、そしてユードの親元となるオーベルシュトルフ侯爵家と、そのゆかりの人々が一堂に会していた。
 侯爵は奥方に先立たれているので、出席者は嫡男ちゃくなん夫妻と次男夫妻、そして未婚の、末のご令嬢であるディートリンデ様。侯爵が溺愛して、よっぽどの相手でなければ嫁がせないと公言しているそうだ。
 わたしたち新郎新婦が入場すると、広間に集まった人々の間から割れんばかりの拍手が起こり、中央の席につく。この日のために選ばれたワインが振る舞われ、列席者の中では最も身分が高く、ユードの義父であるオーベルシュトルフ侯爵の音頭で乾杯となった。
 テーブルには我が家の料理長が腕を振るい、趣向を凝らした料理が並ぶ。帝都では珍しい魔獣肉を辺境からふんだんに取り寄せ、中央の目立つところに魔獣の頭をこれ見よがしに飾っている。
 もっとも、新婦のわたしはほとんど何も食べられない。不自然でない程度に炭酸水で口を湿らせ、行儀よく微笑むだけだ。
 抜け目のない表情の侯爵閣下の隣で、ディートリンデ様がさっきからしきりにユードに目配せしている。前回もこんなにあからさまだっただろうか。
 わたしはさりげなくディートリンデ様を観察した。艶やかな黒髪に紫色の瞳が印象的な美少女で、妖艶な雰囲気すら醸し出している。
 さっき思い出したばかりの記憶が甦り、わたしは恐怖に心臓をつかまれ、つい、身震いしてしまう。

『ユードはあなたのことなど愛していない』
『最初から全部騙されていたのよ』

 ディートリンデ様の言葉が脳裏に甦ってくる。
 あれが一年後の未来に起こることだとして、あんなに恨まれていたなんて、想像すらしていなかった。
 ユードはディートリンデ様のことは完全に無視し、わたしからはユードを挟んだ向こう隣になるわたしの大伯母と話している。わたしは彼の横顔をちらり見た。
 前世でのディートリンデ様の話によれば、ユードと彼女はもともと恋人同士だったらしい。
 ――そういう噂はたしかにあった。いや、今もある。ユードは一年前までディートリンデ様の護衛騎士で、何処に行くにもぴったりついて回っていたらしいから。
 でも、侯爵令嬢と平民の騎士という身分差があり、侯爵は結婚を許さない。
 帝国は貴賤結婚を禁じていないが、皇室やそれに連なる大貴族は血筋に拘るからだ。
 一方の、我がブロムベルク辺境伯家では、血筋よりも実力を重視する。辺境防衛の任に当たるのだから、帝都出身の貴族のご令息では気の荒い辺境騎士たちを統御できない。だから父は平民であっても、辺境出身で騎士として実績を積んでいるユードを選んだ。
 わたしと結婚すれば、ユードは次期辺境伯――父、ジークバルトの死後は辺境伯に、貴族になるのだ。
 つまりユードは我が家を踏み台にして、ディートリンデ様の夫になろうとしている。ついでに侯爵は邪魔な父を排除し、ブロムベルクを手に入れる――
 そんな身勝手な目論見のために、無実の罪で破滅させられるなんて、いくらなんでも理不尽だ。
 なんとかしないと。でもいったいどうしたらいいのか。
 お父さま、あなたの選んだわたしの夫ユードは、一年後に我が家を破滅させます、なんて言っても頭がおかしいと思われるだけだ。
 わたしは未来のことを考えて、ため息を噛み殺す。
 ――こんなに大々的に結婚してしまったら、もう逃げられないわよね……


 宴が終わり、わたしとユード、そして父が並び、ホールで客人を見送る。ユードの隣にいた大伯母がわたしに抱きつき、耳元で言った。

「結婚おめでとう、セシリア。平民出身と聞いて心配していたけど……マナーも態度も文句ない、素敵な人ね! ほんとうによかったわ!」
「伯母さまも来てくださってありがとうございます」
「またうちの屋敷にも遊びにきてね」
「ぜひ」

 そんな話をしていると、鼻先を憶えのある香りがかすめた。
 わたしの恐怖の記憶に刻まれた、地下牢で嗅いだ強烈な香水。
 ――ディートリンデ様が近づいてきたことに気づいて、わたしは反射的に身構え、ゴクリと唾を飲みこんだ。周囲に怯えを気取られないよう、必死に平静を保つ。

「……おめでとうございます、セシリア様、それから……ユード」

 彼女はすすっとユードに擦り寄り、そっとその腕に触れる。こうして改めて見れば、妙に距離が近い。前回のわたしは「護衛騎士だったし」とあまり深く考えないようにしていた。――というか、見て見ぬふりをした。
 だが、今日はユードがついっと腕を引き、露骨にディートリンデ様を避けた。
 わたしも、ディートリンデ様も目を瞠る。
 あれ? 前回とはだいぶ違うような……

「ユード?」
「本日はありがとうございます」

 ユードのつれない態度に、ディートリンデ様は明らかに不満そうだ。柳眉を逆立て、なぜかわたしをギリッと睨みつけてきて……怖い。

「もう、行くぞ、ディートリンデ!」

 父と挨拶を交わしていた侯爵がディートリンデ様を呼ぶと、彼女は不愉快そうにフンッと顔を背け、つかつかと去っていった。
 こういう小さなことが積み重なって、深く怨まれてしまったのだろうか。
 だとしたら、それを回避するにはどうしたら――


 結婚披露宴も終わり、遠方からの泊まりの客も客室へと引き上げた。
 わたしも次期当主夫人の部屋に下がり、初夜に備えて入浴し、身支度を整える。
 陶器でできた猫脚のバスタブにはお湯がたたえられ、香りのよい花びらが浮かんでいる。
 お湯は魔導ボイラーで沸かせるけれど、バスタブへ移し替えるのは人力だから、入浴のお世話はけっこうな重労働である。
 わたしの専属メイドはアニーひとりだけで、足りないときは必要に応じて呼び寄せている。今夜、入浴を手伝ってくれるのは若いメイドのモリーだけど……
 ザバン、とお湯が跳ね、顔にかかる。お湯もぬるいし、背中の洗い方が乱暴でヒリヒリする……
 アニーは、今夜はいろいろと準備で忙しいから仕方ないのだけど――
 バシャン! と再びお湯がかかり、わたしは顔をしかめる。

「もう少し丁寧にお願い」
「え? ああ、申し訳ございません、手が滑りました」

 わたしが苦言を呈しても、モリーは少しも申し訳なさそうに見えず、口先だけの謝罪でいけしゃあしゃあとしている。
 鮮やかな赤い髪に緑の瞳の華やかな外見で、器量自慢のメイドだったが、以前から妾腹しょうふくの娘であるわたしのことを軽んじていた。まともな世話を受けるのは期待しないほうがよさそうだ。

「もういいわ、上がるわ」

 わたしはモリーに告げ、湯上り用の布を受け取って身体に巻きつけると浴槽から上がる。
 よりによって今夜、この娘がわたしの世話をするなんて。普段なら、このあと、メイドに香油を塗ってもらうのだが、やめておいたほうがよさそうだ。
 わたしはモリーが差し出す薄ものの絹の寝間着を羽織り、自分で紐を結んで言った。

「アニーを呼んできて」
「アニーさんは別の用事が……」
「いいから呼んできて」

 強く言い張れば、モリーはチッと舌打ちして出ていった。
 ――躾が悪いと言うより、完全に舐められている。モリーの後ろ姿を見送りつつ、前世はどうだったかしらと、記憶をたどる。
 ああ、そうだ! このあと、彼女はユードの専属メイドになって、彼の秘密の愛人だという噂が立つのだ……なるほど、今夜ここでユードと行き合い、そのまま専属になるのね。
 前世のわたしは初夜を前に舞い上がっていて、モリーの様子なんてまったく気に留めていなかったけど、最初からユードに取り入るつもりだったのだろう。

「申し訳ありません、お嬢様。なんだか変な仕事を押し付けられてしまって……」

 モリーと入れ替わりに、アニーが恐縮しながらやってきた。

「さっきのモリーって娘じゃない?」
「ええ! そうなんです! あたしはお嬢様のお世話があるって言ってるのに!」

 鏡台の前でわたしが髪を拭いていると、アニーが慌ててわたしの背後に回る。ブラシで髪を梳かしながら、もう一度詫びた。

「ほんっと、申し訳ありません。こんな大事な夜に……」
「いいのよ、今夜は体調が悪くて、遠慮したいと思っているの……」
「ええ?」

 アニーが鏡越しにわたしの顔を覗きこむ。

「そのお使いをお願いしたかったのよ。あの娘ではちょっとね……」

 ユードの愛人の座を狙っているメイドに頼むことではない。

「でもよろしいんですの? いくらなんでも……」
「だって身体がきついんですもの……」

 いきなり月の障りが来てしまったことにしようかと思ったが、嘘がバレた時にまずい。昼間、貧血で倒れているし、疲れているのは本当だ。

「ね、お願い。うまく言っておいて」
「でも……」

 アニーはわたしの肩にナイトガウンをかけてから、かなり渋々、隣室へと向かった。その後ろ姿を見送って、わたしは再び前世の記憶をたどる。
 この初夜が、決定打だった。
 前世でも――そして現世でも――わたしはユードに恋焦がれていたけれど、この初夜で完全に陥落した。
 初夜の記憶を思い出し、顔が熱くなる。
 ユードは長く恋焦がれた人とようやく結ばれるかの如く、情熱的にわたしに触れ、耳元で愛を囁いた。

『愛しています、セシリア。全身全霊で、貴女を愛し抜くと誓います』

 彼の深い青色の瞳が真剣な光を湛えて、わたしに誓った。
 ――その言葉がまやかしだなんて、どうして思えるだろう?
 もちろん、わたしは彼に返したのだ。

『ええ。わたしも……命を救ってくれたときから、あなたをお慕いしています。ユード……』

 そうして唇を塞がれて――彼の大きな掌がわたしの肌にそっと触れ、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に細やかに愛撫された。
 彼の指と唇と舌が、わたしの身体の隅々まで余すところなく旅して、わたしに初めての快楽を教えこんだ。
 情熱的に愛されて、結ばれてひとつになるとはどういうことなのか、歓喜の中でわたしは知った――そう、思っていた。
 すべてが、わたしと我が家を破滅に導く壮大な嘘だったなんて、想像すらしなかった。
 彼が裏で何をしているか見ようともせず、ディートリンデ様と浮気していようがどうでもよかった。
 そのくらい、ユードの手練手管に堕ちてしまったのだ。
 あの、夜から――
 前世の初夜を思い出した鏡の中の自分は、首筋まで茹で上がったみたいに赤くなっている。
 あんなふうに愛されたら、このあとはきっと、ユードのことしか考えられなくなってしまう。一度でも抱かれたら、きっと戻れない。未来に破滅が待っていようがなんだろうが、わたしは彼にすべてを捧げてしまう。
 わたしの人生だけじゃない。我がブロムベルクや領民の未来のために、ここは断固、初夜は拒否しなければ!
 わたしがグッと両の拳を握りしめたとき、廊下へのドアではなく、隣室のユードの部屋とつながるドアがノックされ、わたしはギョッとして飛び上がった。
 ――え⁉ アニーは間に合わなかった?
 だがもう一度、コンコンとノックされて、遠慮がちな声がかけられた。


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